アリエルが退院してすぐ、エゼルベルンはクリスマス休暇に入った。 「ちょうどよかったな。年が明ければ噂も下火になるだろ」 リヒャルトはトランクを両手に下げて、足と肩とで器用に扉を開けた。 「リック、僕が開ける」 後ろから付いて来ていたアルベルトは、自分の運んでいた荷物を床に置くと、リヒャルトの行儀の悪さを咎めるように扉のノブを掴んで大きく開いた。 「メルシィ ムシュウ」 ふざけたフランス語で応え、リヒャルトは作り付けになっているタンスの前にトランクを置いた。 「こちらこそ、ありがとう。助かったよ」 アルベルトは、帰省を遅らせてまで、部屋の引越しを手伝ってくれた親友に礼を言った。 「どういたしまして。せっかくだから、片づけまで手伝おうか」 「それには及ばないよ。ほとんど本だしね」 「ふん」 リヒャルトは、部屋をぐるりと見渡した。アリエルの部屋。今日から、アルベルトの部屋でもある。 下級生ばかりのフリューリング寮に、十一年生の、しかもその学年長の、アルベルトが入るというのは異例なことだ。けれども、アリエルの特殊な事情を考え、学校側が特別に許可した。実のところ学校側としてはアリエルに転校を進めたい様子だったが、当のアリエルがエゼルベルンに入ることをとても楽しみにしているため、アルベルトとリヒャルトが学校側を説得してこうなった。 「アル、アル」 愛らしい声とともに、アリエルが部屋に飛び込んできた。 「ごめんなさい。僕もお手伝いしようと思ったのに」 走ってきたのか、頬が赤く染まっている。 「お父様から、電話が入っていたの。それで」 「ああ、知っているよ」 自分を見上げるアリエルの前髪をやさしく梳いて、アルベルトは微笑んだ。 「荷物はリックが運んでくれたから」 「あ」 アリエルは、最愛の美しい従兄の隣に立つ、長身の上級生に気が付いて慌てて頭を下げた。 「こんにちは、リック先輩」 「やあ、お砂糖ちゃん。もう走れるくらい元気なんだね」 「はい。おかげさまで」 屈託ない笑顔に、リヒャルトはチリッと胸を痛めた。 アリエルは、記憶を失ったままだった。そして、何故自分が記憶を失ってしまったのかも、また、忘れてしまっている。 アルベルトもリヒャルトも、そのことについてアリエルに思い出させようとは思わない。アルベルトは、自分がエゼルベルンにいる限りアリエルを守るのだと心に決めていた。 「リック先輩は、いつ家に帰るんですか」 「クリスマスの前日くらいでいいかと思ってたんだけどね、準備があるから早く帰って来いって言われて、明後日には帰るよ」 リヒャルトは肩をすくめて見せて、そして 「アルは? 今年はどうするんだ」 もう何年も家に帰っていない友人を振り返った。 「今年は……」 アルベルトはアリエルを見た。 「アリエルと一緒に帰るよ」 「うん。さっきのお父様の電話ね、そのことだったの。おば様も先に来ているから、アルも一緒に、うちに帰っておいでって」 「そう」 アルベルトは、クレマンスの顔を思い浮かべた。アリエルの父。そして自分の―――。 一ヶ月前にクレマンスから告げられた話は、衝撃だった。それまで自分が思い悩んでいたこと全てが覆された。 (けれど、そのおかげで……) 「クシュン」 突然、アリエルが小さなくしゃみをする。 「寒い?」 アルベルトは慌てて椅子の背に掛かっていたアリエルの上着を取って、その華奢な肩に羽織らせた。リヒャルトは微笑んで、開けっぱなしになっていた窓を閉める。 「じゃあ、俺はこれで」 片手を上げてリヒャルトが部屋を出て行く。 「ああ、ありがとう、リック、帰る日には送らせてくれ」 「いらないよ。それよりお砂糖ちゃんが風邪ひかないように気をつけろ」 上げた右手をそのままヒラヒラと振る。アリエルはその背中に呼びかけた。 「良いクリスマスと幸多い新年を」 リヒャルトは振り返って、彼にしては珍しいほどの晴れやかな笑顔で応えた。 リヒャルトが出て行って二人だけになると、ほんの少し気まずい空気が生まれた。けれどもそれは決して嫌な感じではなく、むしろ、アリエルにとってはそわそわと甘く感じられるもの。 「アル……」 くしゃみの後で鼻の頭をほのかに染めたアリエルが、上目づかいでアルベルトを見上げる。 「あのね…僕…アルと、同じ部屋になれて……とっても嬉しい」 「アリエル」 アルベルトは、微笑んで、もう一度アリエルの柔らかな髪を撫でた。 「本当は特別なんでしょう。転校してきたばっかりの僕のために、上級生のアルが部屋を変わるなんて」 アリエルは、長いまつげを伏せた。 「だからみんな、僕の顔をチラチラ見るの。言いたいことがあるみたいに」 「それは……」 アルベルトは、眉をひそめた。 リヒャルトの言う『噂』――休暇を挟んで年が変わったとしても、そうそう皆が忘れてくれるとは思えない。けれども、面と向かってアリエルに何か言える生徒がいるとも思わない。そう、自分がそばにいる限り。 「それは、アリエルが可愛いからだよ」 アルベルトは、エゼルベルンの薔薇と喩えられる美貌で微笑んで見せた。 「アリエルが天使のように可愛いから、そばに近づきたくて顔を盗み見ているのさ」 アリエルは赤く頬を染めて、困ったような顔でアルベルトを見上げる。 「でも、誰に何を言われても、耳を貸しちゃいけないよ」 「アル……」 「アリエルは……僕だけの天使だからね」 「アル」 感極まったように小さく叫んで、アリエルはアルベルトの胸に飛び込んだ。 その小さな身体をすっぽりと腕に包んで、アルベルトは窓の外に目をやった。いつのまにか雪が舞いはじめている。この分だと明日の朝には積もっているだろう。エゼルベルンの全てが雪に覆われる。全てを覆い隠す白い雪。 (自分も、なれるだろうか) アリエルの心の傷を、全て覆い隠して―――。 けれども、春になれば雪は解け、隠されていたものも姿を現す。 アリエルの心の傷もまた、消し去るにはあまりに深かった。 アルベルトが、そのことを思い知るのは、やはり雪解けの時期を待つことになる。 * * * 「アルベルト、大きくなったわね。顔を良く見せてちょうだい」 叔母のヒルデに呼ばれて、アルベルトは大きな天蓋付きのベッドに近づいた。ヒルデは、病人らしく痩せてはいるものの、薄化粧した小さな顔はアリエルによく似ていて、まるで少女のようだ。 「ご無沙汰して申し訳ありませんでした」 「本当に何年ぶりかしら、男の子らしくなったのね、お父様に似ていらしたわ」 ヒルデの言葉にアルベルトは内心苦笑した。ヒルデの言う「お父様」とは、いったいどっちのことなのか。 「お母様は、僕よりもアルに会えて嬉しいみたい」 アリエルが、わざと唇を尖らせる。 「まあ、アリエル、何を言うの。そんなことなくてよ」 ヒルデは笑って白い手を伸ばした。アリエルも笑って、母親の首に抱きつく。 「ただいま、お母様」 「アリエル、可愛い私の赤ちゃん、あなたは四ヶ月前とちっとも変わっていないわね」 心臓の弱いヒルデに心配をかけたくないと、アリエルの事故のことは内緒にしている。 アルベルトは複雑な気持ちで、抱き合う美しい親子を眺めた。 ヒルデもまた、アリエルと自分に秘密を持っている。 アリエルの本当の父親がクレマンスではないこと、そしてアルベルトの父親こそがクレマンスで、クレマンスとアルベルトの母親イルマの仲を、ヒルデが公認していること。 (そして、その秘密を僕が知っていることも、また秘密……) アルベルトとアリエルの挨拶が済むのを待って、イルマが声をかけた。 「ヒルデ、具合が良いようだったら、クリスマスはそのベッドから出ましょう。久しぶりに皆で一緒のクリスマスを」 「もちろんよ、お姉さま。昔みたいに楽しいクリスマスの夜を過したいわ」 「それじゃあ、それまでゆっくり休んで」 「ええ」 ヒルデは、アリエルの頬にキスを落として 「アリエル、エゼルベルンの話は、そのときたくさん聞かせてちょうだいね」 「はい」 アリエルはコクンとうなずいたけれど、振り返って、アルベルトをすがるように見た。アルベルトは「大丈夫」と目で伝えてうなずく。 「僕が色々話すから、アリエルは笑っておいで」 部屋を出ながら小声で言うと、アリエルは、そっとアルベルトの肘を掴んだ。頼りにしていることを指先から伝えるために。 その日の夜、食事を終えて、ヒルデを除く四人は大きな暖炉の前のテーブルで、ゆっくりとお茶を飲んでいた。アルベルトは、給仕を下がらせて自らお茶を入れるイルマを見ながら、ふと考えた。 (この四人が家族だと言っても、何の違和感もないな) 昼間のヒルデの「お父様に似ていらしたわ」という言葉を思い浮かべ、クレマンスの顔を盗み見る。自分は、この人に似ているのだろうか。 そのクレマンスが、アルベルトに向かって言った。 「ハーラルトは、明日の午後の列車でこっちに着くそうだ」 アルベルトは驚いて目を見開いた。それに気づいてクレマンスが訊ねる。 「どうした?」 アルベルトは気まずそうに微苦笑して、首を振った。 「いいえ。……お父様も、いらっしゃるとは思わなくて」 「あら、アルベルトが久しぶりに戻っていらしたのだもの、お父様も会いたいに決まっているじゃありませんか」 イルマが言う。 「もっともここに滞在できるのはクリスマスの間だけで、新年はパリでパーティーに出席しないといけないらしいわ。アントワーヌ公爵家のご招待を受けているそうよ」 「それじゃあ、お母様も?」 「ええ、公爵様の新年のパーティーに、独りで出席するわけにはいきませんものね」 自分の夫の話となると少し顔を曇らせて、イルマは紅茶のカップに唇を寄せた。 「パリでパーティー?」 デザートのチョコレートケーキを食べていたアリエルが、目を輝かせた。 「僕、パリって一度も行ったことないの。行ってみたいな」 無邪気に言ってみただけのアリエルだったが、 「駄目だ」 思いのほかの厳しい口調でクレマンスが応えたので、思わず持っていたスプーンを落とした。イルマが慌てて取りなす。 「クレマンス、アリエルがびっくりしているわ」 「あ、ああ」 クレマンスも、自分自身の態度にうろたえたらしく、 「無理を言ってエゼルベルンに行ったかと思えば、今度はパリか。あまり私に心配をかけないでくれ、アリエル」 無理やり笑って、アリエルの頭を撫でた。 「そんなつもりじゃなくて……」 アリエルは、自分のエゼルベルンでの事故と入院のことを言われているのだと思い、 「ごめんなさい。お父様」 素直に謝った。 (パリ……) アルベルトは、クレマンスの言葉を思い出していた。 『パリの社交界、生まれて初めての華やかな世界で、ヒルデはひとりの男性と恋に落ちた。それがアリエルの父親だ』 けれども、相手の名前をヒルデは誰にも明かしていない。アリエルがパリに行ったからといって、その男性のことを知ることもないだろう。 それでも、クレマンスは心配なのだ。この心優しく傷つきやすい少年が、自分の出生の秘密を知ってしまったら―――。 アリエルを見つめる先で、クレマンスと目が合った。 アリエルは、僕が守ります。 言葉にできない思いを、アルベルトは瞳で告げた。 |
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