悲劇のヒロインよろしく駆け出したのに、雪道で滑って、転んで、グシャグシャになって、あんまりみっともないから却って涙は出なくてすんだ。
 涙の代わりに鼻水が出る。
 グシュグシュと鼻をすすりながら、雪まみれになって歩いていたら、
「梅若様」
 後ろから、傘が差し掛けられた。
 振り向くと、
「館脇さん」
 松平二万五千石の若殿様祐四郎の側近。
「どうしたのですか、こんな格好で」
 グシャグシャでグチョグチョの俺を見て、普段のポーカーフェイスも怪訝な表情になっている。
「館脇さんこそ、どうしたの? こんなところで」
「若様が、昨日からあの扇屋にお泊まりでいらっしゃいます」
 館脇さんは、傘を少し持ち上げて後ろを振り仰いだ。
「二階から梅若様の姿を見かけて、必ず連れて来いとおっしゃられて」
 それで、俺を追いかけて雪の中走って来たのか。
(でも……)
「悪いけど」
 俺は首を振った。
 こんな状態で祐四郎に会ったりしたら、きっとまた甘えてしまう。
「今日は、こんな格好だし、会いたくない」
「梅若様」
 館脇さんは、ガシッと俺の腕を掴んだ。
「私は、必ずお連れするよう、申し付かってきたのです」
 ひどく切羽詰った目で俺を見る。
「……お助け下さい」
「……わかりました」




「おう、梅若」
 扇屋の二階の角の座敷で祐四郎は俺を手招いた。 館脇さんは俺を部屋に案内すると、幾分ほっとした顔で次の間に消えた。
「小用に立った時お前の姿が見えたのだ。偶然だな。やはり縁があるらしい」
 派手な女物の綿入れを肩に羽織って四方を火鉢に囲まれた祐四郎は、とっても暖かそうだ。
「こっちに来い。寒かっただろう」
 俺が近づくと、
「何だ、雨に濡れた猫みたいだな」
 目を丸くした。
「まあ、火にあたれ。雪が降ったからお前と雪見酒が飲みたいと思って今朝つかいをやったのだが、誰も居なかったと聞いて、国光と出かけているのだろうと思っていた」
 俺の手にお猪口を握らせて
「国光は、一緒ではないのか?」
 酒を注ぎながら首をかしげる祐四郎。さすがに今回の件までは耳に届いてないらしい。
「国光は、実家に帰ってる。不幸があって」
「親御か?」
「ううん、お兄さん」
「そうか、それは気の毒に。まだ若いのだろう」
「…うん」
「それで一人なのか、梅若。寂しいな」
 祐四郎に言われて
「うん」
 思わず正直にうなずいた。
「どうしたのだ、やけに素直だな」
 祐四郎が片眉を上げる。
「別に」
 いけない。うっかり甘えモードに入っていた。
 年下のくせして、妙に懐深そうに見せるのが食わせものなんだよ。
 その祐四郎は磊落に笑って言った。
「国光がいない間、寂しい梅若を、私がなぐさめてやろう」
「大丈夫。まにあってるから」
「誰でまにあわすのだ。聞き捨てならぬな」
「誰でとか、そういうんじゃない」
 俺は唇を尖らせて、祐四郎が注いでくれた杯を口に運んだ。
 かぱっと空けると
「いい飲みっぷりだ、もう一杯」
 すぐに次のが注がれた。
 松平の若殿様の飲む日本酒はさすがに上質に違いなく、冷えた身体には沁みるほどおいしかった。たて続けに三杯飲んでようやくさっきまでの冷えが身体から抜けると、美幸さんに言われたことが頭の中によみがえってきた。

『あなた様には、子が生めません』

 わかってるよ。
 子どもなんて、欲しいなんて思ったこと、ない。


「どうした、梅若」
 祐四郎が俺の顔を覗き込む。
「祐四郎……」
「ん?」
「祐四郎、前に俺に妾になれって言ったよね」
「ああ、今でも思っているぞ。どうした、その気になったか」
 嬉しそうに肩を抱いてくる。
 俺は酔いの回りかけた頭で、ぼんやり考えた。
「俺が妾になっても、正妻は別にいるんだよな」
「は?」
「俺は子どもが生めないから、子どもを生む正妻がいるんだろう」
「梅若、どうしたのだ?」
 きょとんとした顔の祐四郎が、ひどく憎らしくなった。
 グイッと何杯目かの杯を空けて、
「子どもって、そんなに大切なのかよ」
「梅若?」
「家のために、好きでもない相手と結婚して子どもを作るのかっ」
 興奮して叫んだ俺を、祐四郎はぎゅっと抱きしめた。
「かわいいな、梅若」
「放せ」
「まるで私のことで妬いてくれているようだ」
「違う」
 俺は、祐四郎の胸をポカポカと叩いた。
「違うってばっ。離せっ」
 祐四郎は、ゆっくりと身体を離して、優しく笑った。
「何があった? 言ってみろ」



 俺は、結局、全部しゃべった。
 だから嫌だったんだ。
 何かあると、すぐに誰かに甘えてしまう。
 俺のことを好きだといってくれている祐四郎に、こんな相談するのがいいことだなんて思っていない。でも―――
「ねえ、本当に国光は、家に戻るのかな」
 心細さに、祐四郎の袖を掴む。
 祐四郎はしばらく考え込む風に黙っていたけれど、
「そうだな」
 ポツリと言った。
「国光も武士の家に生まれた男なら――」
 それは、俺が期待していた返事じゃなかった。
「その美幸殿のいう通りだ。家を守るためには世継ぎがいる。だから、私とていつかは妻を娶って子をなさねばならん」
 祐四郎は、普段見せない深刻な顔で言葉を継ぐ。
「しかたないのだ。武家とはそういうものだ。家のために自分がある」
「そんなの……」
 わかってるよ。わかっている。けど――
「他に、方法はない?」
 国光が戻らなくても、真行の家がつぶれない方法。
「もちろん、無いわけではない」
「えっ?」
「お許しがでれば、養子をもらって後を継がせることができる」
「養子?」
「世の中には、家を継げない旗本の次男三男が有り余っている。三百石の真行家ならば、いくらでも養子の来てはあるだろう」
「そうなんだ」
 一瞬、希望の光が差しかけた。けれども、
「しかし、実子の国光が帰ってくるとなれば、わざわざ血のつながりの無い者に継がせるわけがない」
 すぐに祐四郎の言葉で真っ暗になった。
「武家は、血を重んじる」
「……やっぱり、そうだよな」
 ガックリと肩を落とすと、祐四郎が再び腕を伸ばして俺を抱き寄せた。
「江戸を出ることなどないぞ、梅若」
「え?」
「国光の手の届かないところに行けと言われたのだろう」
 祐四郎の唇が、耳元でささやく。
「私の屋敷に来れば、誰もお前に手は出せない」
「祐四郎……」
「私のところに、来い」
 そのまま熱い吐息がうなじを滑り、鎖骨に口づけられるのをつい甘んじて受け入れて、
「ダメ」
 ハッと我に返って、引きはがした。
「人が弱っている時には付け込まない主義じゃなかったのか」
 自分の甘さを棚に上げて、祐四郎を睨んだ。
「ここぞ、という機も逃さない主義だ」
 祐四郎は、いつもの顔でニヤリと口の端を上げる。
 こうして俺はまた、祐四郎に甘えて助けてもらっている自分を感じる。
「国光に操をたてるのは健気でいいが、あいつが本当に戻ってこなかったら、八丁堀に逃げ込んだりせずに、私のところに来るんだぞ」
「長谷部さんのところには、行かないよ」
 ふっと弁慶のことを思い出した。
 あの辻斬りが国光の兄さんを斬ったりしなかったら、こんなことにはならなかったんだ。
 ちくしょう。

「それで、どうするのだ?」
 祐四郎に突然言われて、
「え?」
 俺は、顔を上げた。
「国光のことは」
「うん……」
 正直、わからない。どうすればいいのか。
 色々なことを言われて、混乱している。

 美幸さんの、そして祐四郎の、言葉が俺の中を暗く支配する。



 あなた様には、子が生めません。

 私とていつかは妻を娶って子をなさねばならん。

 武家とはそういうものだ。

 真行家にかかわる大勢の人の生活が失われてしまいます。

 梅若様では、真行家を救えません。

 あなた様には、子が―――。




(やめろ)
 
 耳をふさいでも、頭の中の声は消えない。

 もし本当に国光が家のために美幸さんと結婚して子どもを作らないといけないというのなら。

 国光が「家のためにはしかたない」と祐四郎のように言うのなら。
 

 そうしたら、俺は――――。

 俺は、どうする?





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