神楽坂はその名の通り坂が多く、雪の日に歩くのは結構辛い。やっぱり駕篭を頼めばよかったなどと後悔しながら、雪の白く積もった石畳を踏みしめる。 二十一世紀の神楽坂も都心では珍しく昔の風情を残していると日本史の先生が言っていたけれど、この江戸時代の神楽坂の方が坂も多くて急な気がする。俺は雪道で何度も滑りながら手紙の主が指定した松邑を探した。 いつもは門前町としての賑わいを見せる神楽坂近辺も、年の瀬の雪の朝じゃ人通りも少ない。 「春になったら一緒に神楽坂の毘沙門様に行こうね」と国光が言っていたのを思い出して、俺は切なくなって鼻をすすった。 小料理屋やお茶屋が軒を並べる通りの奥、一見それとはわからない瀟洒な造りの料亭が松邑だった。知る人だけが知っている高級料亭なんだろう。小さく墨で書かれた看板らしいものを見ながら、入るかどうかためらった。立派すぎて敷居が高いというのもあるけれど、何しろ誰が待っているのかもわからないのだ。手紙の字が女手だったからといって、呼びつけた相手が女だとも限らない。 雪の中ここまで来て不安になるのもバカみたいだけれど、やっぱり誰かに言ってから来ればよかった。 ためらっている俺の目の前に、一人の女の子が現れた。 「あっ」 俺の顔を見て、 「梅若様ですね」 駆け寄ってくる。 「えっ、あ…っ」 「雪で道がわからず迷っていらっしゃるのではないかと心配なされて、それで、私が様子を見に出たのです」 まだ十二、三歳だろうその子は、俺の手をぐいぐい引っ張った。 「よかったです。さあ、こちらに」 「は、はぁ」 その『心配なされ』たのがどこの誰かということを訊ねる暇も与えてもらえず、松邑に引っ張り込まれて、出てきた女将に丁寧に挨拶され、さっきの女の子に足を拭いてもらい、そうして、松邑の中でも特に立派な部屋に違いない二階の奥の座敷へと案内された。 「足もとの悪い中、お呼び立てして申し訳ありませんでした」 座敷の奥に座る美しい女性を見て、俺は自分が何のために呼ばれたか、わかったような気がした。 「亡くなった真行冬馬の妻、美幸と申します。」 (ああ、やっぱり……) 「ここの女将は、昔、私の実家の斉藤家に奉公していたのです。今はその娘のおひでが真行の家に奉公して、私の身の回りの世話をしてくれています」 その言葉にチラと目をやれば、そのおひでは、小さく細いけれど愛嬌のある目でニコッと笑った。 「昨日、手紙を届けてくれたのも、この子です」 「そうですか」 口で相槌をうちつつも (そんなことを言いたくて呼んだんじゃないんだろ?) 俺は、探るように美幸さんの顔を見た。 美幸さんは、俺の気持ちを察したかのようにうなずいて、 「寒い中歩いていらっしゃったのでしょう。まずは温かいお茶でもどうぞ。お食事も運ばせますから」 穏やかに微笑んだ。 「いえ、落ち着かないので、よければ用件を先に言ってください」 声が固くなっているのが自分でもわかった。 美幸さんはちょっと考える風にしてうつむいたけれど、すぐにおひでを傍に呼ぶと、小声で何ごとか言いつけた。 「はいっ」 明るい返事を残して、おひでは出て行った。 「もう、誰も入ってきません」 美幸さんはそう言うと、自分の後ろにあった紫の包みをすっと前に差し出した。 (何だ?) その紫の袱紗を、俺の前に押しやって 「昨日は、真行の家の者が失礼なことをいたしまして、申し訳ありませんでした」 丁寧に頭を下げる美幸さんに、俺は (まさかこれは、昨日の慰謝料か何か?) とぼけたことを考えかけたが、その美幸さんの白い指がそっと袱紗をめくって、中から現れた小判の量にビビって後退さった。 「百両ございます」 「百両っ」 十両あれば一年遊んで暮らせる。百両なら、十年だ。 そんな大金をどうして……と、問い掛ける前に、 「このお金で、江戸から離れていただきたく、お願い申し上げます」 美幸さんの言葉に、俺は固まった。 「な、なん……」 「足りなければ、もっと」 「なんなんだよっ」 俺は叫んだ。 「家を出ろの次は、江戸からも出て行けって? ふざけんなっ。俺と国光をそんなに引き離したいのかよっ」 美幸さんは、片膝立てた俺をじっと見て 「はい」 静かにうなずいた。 それがあまりに毅然としていたので、俺はかっとなった自分が恥ずかしくなった。 「梅若様と光三郎様のことは、存知上げております」 落ち着いた声に、俺は立ち上がりかけていたのを改めて座りなおした。 「今回の冬馬様の件は、梅若様もご存知でいらっしゃると思いますが」 「はい」 「真行の家は総領を失ってしまい、このままではお家断絶の一大事でございます」 「…………」 「光三郎様はその昔家を出て市井に下りましたが、元を正せばれっきとした武士、真行の血を引く男子にございますれば、今回の件で、お父上が勘当を解いて後を継いでもらいたいと強く望むのも」 「そんなのずるいよ」 思わず、話を遮った。 「はい?」 「だって、もともとそっちが勘当したんだろう。それなのに、そのお兄さんが死んだからって、やっぱり戻って来いなんて、ずるいよ。勝手だ。都合良すぎる」 「梅若様」 「国光だって、そんなの納得しねえよ」 あの国光が、武士にもどるわけがない、俺をおいて。 「光三郎様が家を出ることができたのは、冬馬様のおかげなのです」 美幸さんは、唐突に言った。 「できた?」 「光三郎様はとても優しいお方です。剣の腕も立ちましたのに、人を切ったり殴ったりは嫌いだと言ってはよくお父上と喧嘩なさっていました」 (国光らしい) 「ある日、真行家に高名な旅の絵師がやって来て数日逗留した折に、光三郎様は絵のとりこになってしまったのです。絵師になるといって、それでお父上と大喧嘩をなさいました。けれど、その時も、お父上は決して光三郎様を勘当するつもりなど無かったのです。何だかんだいってもお父上は、利発で優しく、亡くなったお母上に良く似た面立ちの光三郎様をとても愛していらっしゃいました」 国光の微笑む顔が脳裏に浮かぶ。国光はお母さん似だったのか。亡くなっていたなんて知らなかったけれど、きっとお母さんも綺麗な人だったんだろう。 「ですから光三郎様は、お父上からは町人になることはもちろん、絵の修行をさせてもらうことも許されませんでした。それで光三郎様は自ら家を飛び出したのです。何度も連れ戻されそうになってはまた逃げ出して、大騒ぎの挙句、冬馬様が間に入って、自分がしっかり真行家を守るから光三郎様には好きなことをやらせてやってくれと」 「…………」 初めて聞く、国光の昔の話。 亡くなった冬馬様というのがどんな人だったのかも想像できて、俺は胸が痛くなって、言葉を失った。 「幼い頃に真ん中の兄弟を亡くされていたお二人は、歳は離れていましたけれど、それはそれは仲が良く」 美幸さんの目が潤む。 「冬馬様は、いつも光三郎様のことを話していました。昔のことも、今のことも。江戸で評判の人気絵師になったと言っては、自分があの才を家にしばらせず世に放ってやったのだと誇らしげに笑って、とても喜んでいました。公には歌川国光の話は出せませんでしたけれど、それでも私の前ではいつも…いつも……」 美幸さんが泣き出してしまったので、俺も目の前がぼやけてきた。 しばらくの間、美幸さんは死んでしまった夫を思って泣いていたが、スンと小さく鼻をすすって顔を上げた。 「すみません」 「あ、いえ」 俺も慌てて、涙をぬぐった。 「もともとお父上は光三郎様に帰ってきて欲しかったのです。冬馬様を失った今、真行家の血を引く、たった一人の男子です。どうか光三郎様をお返しください」 美幸さんが深々と頭を下げた。 「返すって……」 俺は言葉を探して唇をかんだ。そして 「国光はモノじゃない。返すなんて、そんな、国光自身が、どうするかは決め」 「光三郎様は、家に戻ることを納得されています」 美幸さんの言葉に、息を呑んだ。 「真行家がお取り潰しになるやも知れない一大事に、自分の取るべき道はわかっていらっしゃいます」 (嘘……) 「絵師としての名声を捨てることには何の未練もないとのこと。ただ心残りは、梅若様、あなた様のことだけ」 俺は、貧血を起こす前のようにグラリと身体が揺れた。 意味がよくわからない。わかっても、わかりたくない。 美幸さんは、自分と俺の間の百両を睨みつけるようにして言う。 「梅若様が近くにいれば、光三郎様のせっかくのご決心が鈍ります。どうぞ、光三郎様の手の届かないところまで、遠くに行って下さい」 「遠く……」 (何で、何で……) 「何で、そんなこと言うんです」 俺は畳に手をついて、夫を亡くしたばかりの美幸さんを見上げた。 (愛する人と別れる辛さは、あなたが一番よく知っているはず) 「なぜ、あなたがそんなこと、俺に言うんです」 美幸さんは、黒い瞳でじっと俺の目を見つめて言った。 「私は、冬馬様の喪が明けしだい、光三郎様と夫婦(めおと)になります」 俺は、頭の中が真っ白になった。 「私の実家斉藤家と真行家は家同士のつながりが大層深いのです。私は、生まれたときから真行家に嫁ぐことが決まっておりました」 信じられない。 兄が死んだから、その弟と結婚する? それがこの江戸時代では当たり前のように行われていることなのだなどと、教えてもらっても、信じたくない。 「国光を、好きなのか?」 震える声で訊ねると、 「光三郎様とは幼馴染み、良い妻になれると思います」 美幸さんは、静かに目を伏せた。 「嫌だ」 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ――。 「国光は俺のだ。あんたなんかに渡さない」 「梅若様」 美幸さんは、凛とした声で言った。 「真行家には、後継ぎが必要なのです。後継ぎのいない家は、幕府のお取り潰しにあいます。そうなると真行家にかかわる大勢の人の生活が失われてしまいます」 「…………」 「梅若様では、真行家を救えません」 (救う……?) 「あなた様が女子(おなご)なら別の方法もあったでしょう。けれども、あなた様には子が生めません」 「子……」 子どもが生めない。 あたりまえじゃん。 俺は、男なんだから。 あたりまえ―――。 子どもが生めない。 「あたり、まえ……じゃん……」 俺は立ち上がって、その場から逃げるように出て行った。 |
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