「んっ…」

 柔らかいものが唇に触れて、条件反射のように口を開いた。柔らかい舌が滑り込んできて、俺の舌を絡め取る。

(国光…)

 目を閉じたまま腕を伸ばして、首に絡めて、その感触にハッとして目を開いた。


「んうっ、な、何するんだっ」
 国光よりもずっと細い首の主は、雪太郎だった。
「あーあ、起きちゃった」
 妖艶に微笑んで、紅く濡れて光る唇を人差し指の背でぬぐう。
「お、起きちゃったって……っと、今、何時だよ」
 縁側で飲んでいたはずの俺は、いつの間にか布団に寝かされていた。
「泊めないって言っただろう」
 雪太郎を睨みつけると、
「だって梅が先に寝てしまったんだし、アタシは勝手に帰ってもよかったんだけれど、カギも掛けずに一人で寝かせとくのも心配で」
「う…」
 思わず正論のような気がしたけれど、
(ちがうっ)
「元はといえば、お前が酒を勧めたからだ」
「あはは……」
 雪太郎はおかしそうに笑った。
「油断も隙もない奴」
 俺は雪太郎にキスされた唇を拳でゴシゴシぬぐった。
「だって、あんまりかわいい寝顔をさらしているんだもの。これでもずい分我慢したんだよ。でも、どうしようもなくなっちゃって、ちょっとだけ」
「ちょっとだけじゃないっ」
「そんなに怒らないでおくれ」
「二度としたら、許さないからな」
「こわい、こわい」
 雪太郎は立ち上がって、
「これ以上嫌われないうちに退散しよう。ちゃんと内からカギを掛けるんだよ」
 ヒラヒラと白い手を振った。
「あ、おい。こんな時間に帰るのか」
 外は真っ暗だ。
「夜道は慣れてるよ」
(夜道……)
「ま、待てよ」
 自分で泊めないから帰れと言っていたにもかかわらず、
「危ないから……」
「え?」
「今、いろいろ物騒だから、泊まっていけよ」
 俺は雪太郎を引き止めてしまった。
「いいのかい?」
 雪太郎は嬉しそうに戻ってきた。
「辻斬りとか出ていて危ないからだ。あとで国光に聞かれたらそう言い訳するから、お前もちゃんとそう言えよ」
「うんうん」
「それと、俺が寝ている間に、絶対変なことするな」
「うーん」
「何だよ、その返事は」
「あいあい、わかりました」
「そこの押入れに客用の布団があるから」
 指差すと、
「梅と一緒でいいのに」
 惚けたことを言うので、枕を投げつけてやった。
「やっぱり夜道で弁慶に襲われちまえっ」
(あ…)
 言ってしまってから不謹慎だと気がついた。慌てて自分の指で口をふさぐ。
 急に黙った俺に、雪太郎は静かに言った。
「何にもしないから、隣で寝かせておくれ」
「…………」
「うなされたりしてたら、起こしてあげるからね」
「…………」
「さあ、寝よう」
 雪太郎が俺の身体をそっと横にした。布団を掛けなおしてくれる仕草も全然いやらしくなくて、まるで母親のようだった。
「おやすみ、梅」
「……おやすみ」

(……おやすみ、国光)
 国光、ちゃんと眠れているのかな。




 その日から、三日。国光からは何の連絡もなかった。
 雪太郎は心配して毎日来てくれた(でも、さすがに泊めたのは最初の夜だけだ)。

「まだ、何も?」
「うん……」
「まあ色々と大変なんだろう。ここ来る前に聞いたとこ、真行の家では冬馬様の死因を病死と届け出ようとしたらしいよ」
「何で?」
「旗本の総領が辻斬りにあって殺されたなんて、外聞が悪いんだろう」
「そ、そうなのか」
「でも、もう奉行所に全部伝わっている話だから、結局、ごまかせなかったみたいだけれど」
「…………」
 そのことと国光が帰ってこないことは、何か関係あるんだろうか。


『すぐ戻る。……もし、遅くなるようでも、必ず連絡するから』

 国光、そう言ったのに。



「見に行っちゃダメかな」
 ポツリと言うと、
「見に…って、真行のお屋敷かい?」
 雪太郎は目を丸くした。
「うん」
「おやめ。行ったところで、中に入れてもらえる訳ないんだから」
「でも、国光がどうしてるか」

 会いたい。

 実のお兄さんを亡くしてしまったんだから、国光、きっとものすごく悲しんでる。優しい人だもん。泣いてるかもしれない。それなら、そばにいてやりたい。
 国光のこと、抱きしめてやりたい。


「気持ちはわかるけど」
 雪太郎は、俺のいつのまにか固く握り締めていた拳を、両手で包んでそっとさすった。
「ああいう体面ばっかり重んじる所じゃ、アタシらみたいのは芸人扱い、まともに相手なんかしてもらえないんだよ」
「それって……行っても、追い返されるってこと?」
「……それだけならいいけど、とにかくまだピリピリしているようだから……」
 雪太郎は、言葉を濁して
「国光先生は、連絡をよこすって言ってくれたんだろう。だったら、もうしばらく待っておいでな」
 ポンポンと俺の拳を叩いた。
「ねっ、梅」
「……うん」


 そして俺が待ち望んでいた国光からの使いは、その次の日にやって来た。
「梅若殿でいらっしゃいますか」
「はっ、はい」
 てっきり下働きの男の人か、ひょっとしたらこの間のようにお侍が来るのかと思っていたのだけれど、国光からの言づてを持ってきたというのは、凛とした女中頭といった風情の年配の女性だった。
「里と申します」
「梅若です。あの、どうぞ」
 上がってもらおうとしたのだけれど、
「いえ、ここで失礼いたします」
 里さんは、チラリと周りを見渡して、頭を下げた。
「あ、じゃあ」
 そのまま玄関で話を聞く。
「国光は、元気ですか」
 俺の言葉に、里さんははっきりわかるほど眉をひそめた。
(あっ……)
 国光って言っちゃいけなかったのかな。
「ええっと、光三郎さんは」
 国光じゃないみたいで嫌だけど、そう呼ばれているんなら――そう思って言ったら、里さんは、今度は眉をつり上げた。
「もうこちらにはお戻りになられません」
「えっ?」
「そのことを伝えに参りました」
 俺は、言われたことがよくわからなくて、
「も、戻らない?」
 首をかしげた。
「光三郎様は真行家の総領になられました。もう町人の真似事はおしまいになさいます」
(何のこと? 何言ってるんだ?)
「この家も、来春早々に引き払いますので、梅若殿には、年内に次の住まいを見つけるようにと」
(次の住まい? 出て行けって? 何を言ってるんだよ、この人)
「急なことで申し訳ございませんが、どうぞ宜しくお願いします」
 会釈して出て行こうとするその腕を掴んだ。
「何言ってるんだよっ」
「きゃあっ」
「言ってる意味、わかんねえよっ」
「な、何ですかっ、離しなさいっ」
「お里様っ」
 外から下男風の男が二人飛び込んできた。
「国光がそんなこと俺に言うわけないっ」
「この者を抑えなさいっ」
「へい」
 男が二人掛かりで俺を引き剥がし、地面に打ち捨てるように叩きつけた。 
 強く腰を打ったけれど、痛みなんか感じない。
「国光はどうしてんだよっ。国光に会わせろっ」
 立ち上がりかけたところを、小太りの男に思いっきり蹴られた。
「たっっ」
 今度は三和土に頭を打ち付けてしまった。
「お里様、早く」
「駕篭に」
「まったく野蛮な」
 吐き捨てて踵を返し、里も男二人も足早に出て行ってしまった。

「っ、いた……」
(どっちが、野蛮だよ)
 打った頭を押さえながら、起き上がる。蹴られた腹にべったり足型の泥がついている。
(国光に、買ってもらった着物なのに……)
 悔しくて、涙が出た。
「くっ、う……」
 泣くもんかと思うと、余計に涙が止まらない。
 そのまましゃがみこんでいたら、雪太郎が駆け寄ってきた。
「梅っ、どうしたんだい。今、誰か出て行ったろっ」
「う…っ」
 雪太郎の顔が、ぼやけて見える。
「ゆ、ゆきっ…雪太、ろぉっ」
「梅?」
「うっ、国光、が…」
「先生がどうしたんだい」
 俺は首を振った。

 戻らないなんて嘘だ。

 ここを出て行けなんて言ったのも、国光じゃない。
 国光の家の人が―――

「ううっ」
 悲しかった。
 国光が言ったんじゃないってわかっていても、国光の家の人が俺と国光を引き離そうとしているってことが悲しかった。

『ああいう体面ばっかり重んじる所じゃ、アタシらみたいのは芸人扱い』

 雪太郎が言ったことが、胸にしみた。







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