明け方、表を叩く音で目がさめた。 「誰か、来たよ」 半分眠った頭でつぶやくと 「放っておおき」 国光は俺の腰を抱えなおして、足を絡めた。 「誰だろう」 「気の早い借金取りじゃないか」 年末にはその一年の未払いのツケを清算しないといけない。 「まさか、こんな時間から」 国光の胸に顔をすり寄せてクスッと笑った。 しかし、その激しく戸を叩く音は鳴り止まず、俺は少し不安になった。国光も同じだったようで、 「しかたない」 渋々といった様子で起き上がり、枕もとに置いていた上着を羽織ると玄関に出て行った。 俺も気になってしまって、後ろからついて行った。 「光三郎様」 「左近」 国光はその初老のお侍を呼び捨てにした。顔には戸惑うような色を浮かべて。 「何の用だ、いきなり。私はもう」 国光の硬い声を遮るように、 「冬馬様がお亡くなりになりました」 告げられた言葉に、国光の顔色がさっと変わった。 「ま、さか……嘘、だ」 「このような嘘をつけましょうか。とにかくお屋敷にお戻りください」 「い、いや……私は」 「光三郎様っ」 お侍は腹に響くような恫喝をし、そしてゆっくり 「おわかりですか、冬馬様が、お亡くなりになったのですよ」 絶え入るような声で言った。 国光の顔が歪む。 「国光」 思わず声をかけると、国光はハッと振り返り 「梅若」 俺の顔をじっと見て、 「すまない。ちょっと実家に帰ってくる。すぐに戻るから」 「実家って?」 俺は思わず国光の腕にすがりついた。左近というお侍が俺をじっと見たけれど、そんなこと気にならない。それより国光の様子が変なことのほうがずっと気になった。 「冬馬様って誰? 何があったんだ?」 「帰ってきてから話すよ」 国光は俺の肩をさするように撫ぜて、優しく微笑んだ。 「すぐ戻る。……もし、遅くなるようでも、必ず連絡するから」 「国光……」 「光三郎様、駕篭を待たせております」 左近が急かすように言う。 「わかっている。仕度をしてくるから」 「そのままで結構です」 国光は左近を振り返って、小さく溜め息をついた。 「わかった」 そして、もう一度俺を引き寄せて囁いた。 「心配しなくていいからね」 俺は、何が何だかわからなくて、国光が出て行った後も、呆然とその場に立ちすくんでいた。 そのまま俺は、寝なおす気にもなれず、ぼんやりと二人の会話を思い出していた。国光のことをあの左近というお侍は『光三郎(こうざぶろう)様』と呼んでいた。国光が武士だったときの名前なのか。そしてあの侍を『左近』と呼び捨てにした国光は、あの人よりも立場が上なのか。国光が武士の出だというのはなんとなく聞いていたけれど、国光はあまりその話をしたがらない様子だったから、実家のことなど何も聞いていない。 だから、俺は国光がどこに行ったのかも知らない。 (国光……) 身体が震えた。 (このまま帰ってこなかったら……) そんなはずないと思っても、不安は大きくなるばかりだ。 国光、どこに行ったんだよ。 亡くなった冬馬様って、誰? 何があったんだ? 今、どこで、何してる? 大丈夫? ちゃんと――帰ってこられるんだよな。 「国光…っ」 不安に胸を押しつぶされて、両手で顔をおおったとき、玄関に人の声がした。 「梅若」 (あっ) 久しぶりに聞く声に俺は跳ね上がった。 「長谷部さん」 長谷部さんは、お忍びで市中見回りをする時の着流し姿だった。伸びたヒゲが連日の激務をうかがわせる。けれどもその瞳は疲れに濁ることなく澄んだまま、今は俺のことを心配そうに見つめている。 「大丈夫か? 梅若」 (あ…) 何で知ってるんだろう。俺が不安でたまらない気持ち。 「長谷部さんっ」 俺は、思わず長谷部さんの胸に飛び込んでしまった。甘えてるって言われてもしょうがないけど本当に不安で、誰かに抱き締めてもらいたかった。 「国光が……国光が」 「ああ、大変だったな」 長谷部さんの言葉に、俺は顔を上げた。 「知ってるの?」 「あ? ああ、もちろん。いや、その斬られた侍と国光先生の関係を知ったのはついさっきなんだが」 「何? 何のこと? 教えて」 「えっ?」 聞いてないのかと長谷部さんが話してくれたのは、俺にとってはまさに初めて聞く話。 昨日の夜、辻斬り弁慶に斬られた八番目の被害者が―― 「国光の、お兄さん?」 「ああ。真行冬馬(しんぎょう とうま)、幕府の表御祐筆組頭を務める真行光実(みつざね)殿の嫡男で、国光先生の実の兄上だ」 それが『冬馬様』――― (そんな……辻斬りに……) あまりのことにしばらく呆然とした。 「じ、じゃあ、国光の実家っていうのは」 「直参旗本三百石の真行家だ。俺もこのことがあるまで知らなかった」 「直参…」 将軍様にもお目見えできる。国光、そんな立派な家柄だったなんて。 「真行家のほうでも、絵師歌川国光との関係はずっと隠していたようだ」 「えっ」 「もう十何年も前に国光先生は勘当されているんだそうだ、家からは」 「勘当? でも、今朝、うちに呼びに来たよ」 「ああ、それをうちの連中が見て、俺に知らせてくれたのさ。念のため殺された武士の屋敷を見張っていたら、そこから出た駕篭が歌川国光の家に行ったって、驚いてね」 「…………」 殺されたのがお兄さんだったなんて。そして、明け方、国光を連れて行った駕篭。 「なんだか……嫌な予感がする……」 「梅若」 背中にまわった腕にそっと力が込められて、俺はハッとした。 まだ長谷部さんに抱きついたままだったんだ。 「ご、ごめんなさい」 そっと身体を離したら 「いいサ」 長谷部さんはクスッと笑った。 「俺でよけりゃァ、いつでも力になってやる。それを言いたくて来たんだ」 「あ、ありがとう」 感動で、頬が熱くなる。 「とにかく、真行家も総領が殺されたって一大事だ。国光先生から連絡なくっても、慌てるんじゃねえぜ」 「う、うん」 「あの先生がお前の傍からいなくなるなんてぇことは、あるわきゃねえんだから」 「うん」 コクンとうなずいたら、長谷部さんは目を細めて俺の頭を撫ぜてくれた。 「じゃあ、また寄らせてもらう」 「ありがとう、長谷部さん」 本当に心強い。 出ていく長谷部さんの背中に、思わず両手を合わせてしまったよ。 「梅、聞いたよ」 昼前には、雪太郎が飛んできた。 「大丈夫。アタシが聞いたのはその北町の同心からで、別に噂になってるってぇわけじゃないからね」 「あ、うん」 別に噂まで気にしたわけじゃないけれど、 「雪太郎、火盗改めだけじゃなくって、北町の同心とも仲いいんだ」 不思議に思って聞いてみた。そうしたら、 「仲いいってわけじゃないよ、あっちが言い寄ってくるだけさ。でも、まあ、アタシもたまには相手がいないと、色々と」 な、何を言い出すんだろう。 雪太郎は、コホンと咳を一つして 「まあ、そんなことはどうでもいいよ。とにかく、国光先生のいない間、寂しいだろうから、アタシがここに泊まってあげるからね」 「ええっ、それは」 正直、困る。 心配してくれるのは嬉しいし、俺としても国光のいない家で夜を過ごすのは寂しい気がするけれど、でも国光のいない間に他の誰かをこの家に泊めたなんてこと知られたら、どんなに怒られるか。しかもそれが、もと白雪太夫の雪太郎。 (ダメ ダメ ダメ ダメッ!) 国光は、とってもヤキモチ妬きなんだから。 「ねっ、梅」 「ダメだよ」 「どうして?」 雪太郎は女みたいに整った顔を悲しそうにしかめた。 いつもはぞっとするような美人顔ですましているから、こんな顔されるとものすごく悪いことをしたみたいに思えて困ってしまう。まあ、それが雪太郎のねらいなんだろうけれど。 「どうしてって、そんなことしたら国光が」 「大丈夫だよ。先生だって、梅若をここに一人で置いているのは心細いだろうし」 「いや」 「変な男が夜這いをかけてこないように、アタシが守ってあげる」 (あんたの方が、こわいって……) その昔さらわれた時、キスされたこと忘れてないぞ。 「ダメ。とにかく、国光以外の男をここに泊めちゃ、ダメなんだ」 「アタシのことは、男なんて思わなくていいんだよ」 赤い唇を歪めて笑う。 「勘弁して」 しかし、雪太郎のおかげで、長谷部さんが来てくれた後も晴れなかった気持ちが少し楽になったのも事実。 「泊めるのはダメだけど、遊びになら来て」 「毎日? ずっといても?」 「う、うん……」 どうせ出かけるような気分じゃないし。 「よしわかった。じゃァ、ちょっと買出しにいってくるね」 雪太郎は嬉しそうに、来た時と同じ勢いで駆け出していった。 「買出し?」 一刻後、戻ってきた雪太郎は菊川の下男を一人従えていた。 「庭に回って、縁側に並べておくれ」 「へい」 大きな風呂敷包みを、運んでいく。 「何? どうしたんだ、あれ」 「菊川で、仕出しを作らせたのサ」 雪太郎は自慢気に笑った。 「このお江戸で指折りのご馳走を食べさせてあげるよ」 「えっ」 「徳三、それ並べ終わったら、お酒の燗仕度しておくれ」 テキパキと指示を出している。 「ああ、あとは大丈夫。帰っていいよ」 「へい」 いつも思うんだけれど、雪太郎はどうして菊川でこんな大きな顔ができるんだろう。以前白雪太夫だった頃に尾張中納言様と関係があったことは知っているけれど、でも、今の雪太郎と関係があるとは思えない。 とにかく菊川では、雪太郎を大事にしないといけない何かがあるんだろう。そうとしか思えないご馳走を前にして、俺は溜め息をついた。 「いったい何人で食べる気だ?」 「アタシと梅の二人っきりだよ、もちろん」 「じゃあ、三日分くらいあるな」 「冬だから悪くならないよ。三ヶ日持つ正月用と同じだもの」 「半月も早くお正月か」 「どうせ本当の正月は、一緒に過ごしてはくれないんだろ……アタシとは」 縁側に座った雪太郎の流し目が俺を見上げる。 「…………」 お正月、もちろん国光と一緒に過ごすつもりだ。でも、国光のお兄さんが亡くなったのだから喪中。突然そのことに気がついて、俺はその豪華な料理から後退さった。国光の家に不幸があったのに、こんなことできない。 雪太郎は、俺の考えを読み取ったらしく、 「ひとが亡くなったときはね、ご馳走食べて、見送ってあげるんだよ」 俺の腕を引いた。 「お葬式ってそうだろ。アタシも一座の人間が死んだときはそりゃァ派手にお酒を飲んだもんだ」 「雪太郎」 「ねっ、だから、一緒に飲もう。部屋の中でもいいんだけれど、せっかくきれいな庭もあるしね」 雪太郎に促されて、俺も縁側に座った。 「朝から食べてないんだろ。食べないと元気でないし、心配事があるときはお酒もいいもんだよ」 「雪…」 雪太郎なりに俺のことを心配してくれたんだ。 「うん、ありがとう」 俺が言うと、雪太郎は寒椿の花のように艶やかに微笑んだ。 「ほら、飲んで、飲んで」 寒い中での熱燗っていうのは、なかなかオツだ。つまみもさすがに、名高い『菊川』、最高に美味しい。数の子、田作、伊達巻、たたき牛蒡、酢の物に、甘く煮た豆……現代にいた頃は正月にこういう料理を見ると「うえっ」って思って、カレーやハンバーグを食べさせろって騒いだ俺も、こっちにきてからは味覚が変わった。牛蒡の甘辛さにピリッときいた山椒とか、この酢の物や田楽の味噌にも使われてる柚子のフワッとした香りとか、すごく美味しいって感じる。それから最近江戸で大ブームの豆腐、蘭学者青木昆陽が栽培を盛んにしたという甘薯(サツマイモのこと)、これらを使った料理がまた、珍しくてなんとも――。 「いい仕事してますねえ」 「菊川の板さんは、日本一だよ」 雪太郎も、お酒で頬を赤くして、いい調子になっている。 「ほら、飲まないと身体が冷えるよ」 「うん」 勧められるままについつい飲んで、気がついたら眠ってしまった。 そのころ国光に一大事が起きているなんてつゆ知らず。 |
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