「もう食べないの?」 「いえ」 挨拶回りの後、三間坂と一緒にお昼を食べることになった雪兎は、困惑していた。 「全然すすんでないじゃないか、もっと食べないと」 「はあ」 伊月からは昼飯抜きといわれていた。 それなのに今、雪兎は、赤坂の正月風の大きな壷花が美しい料亭で、ランチとは思えない豪勢な食事をとっているのだ。 「遠慮をすることは無いんだよ。それとも私と一緒では食がすすまないのかな」 「いいえ、そんなことはありません」 雪兎は、慌てて首を横に振った。 課長の機嫌を損ねることも良くないと思ったが、元々、食べることは大好きなのだ。 「じゃあ、もっと食べなさい」 「はい」 「おまえ、昼、何食った」 会社に戻って席に着くなり、伊月が言った。 「え?」 フラフラと目を泳がせる雪兎の口の周りは、油でテラテラに光っている。 「天ぷらか?」 「えっ! 何でわかったの?!」 雪兎は、目を丸くした。 「ちゃんと拭いたのに」 あらためて、口の周りをこする。 「ああ、ちょっとやそっと拭いたくらいじゃ取れないほど、油を摂取したわけだな」 伊月は低く唸った。 「ご、ごめんなさい。でも、課長にご馳走になって……断れないよ」 「まあ、しかたない」 伊月は、肩をすくめた。 「初日だしな。課長も、気を使ってくれたんだろう。でも、明日からダイエットだぞ」 「うん」 ところが、初日だけだと思った三間坂の誘いは、その日だけではなかった。しかも、毎日の昼食だけでなく、時節柄多い新年会や接待の場にまでも雪兎を一緒に連れて行き、何故か知らねど「食べなさい、飲みなさい」と熱心に勧めるのだ。飲み会の帰りには三間坂がタクシーで送ってくれるので、電車に乗ることも最寄駅から家まで歩くことも無くなり、蓄積されたカロリーは、確実に脂肪と化していった。 「なんか、ウサちゃん先輩、ますます丸くなりましたねぇ」 「うん」 リフレッシュルームに向かう途中、すれ違いざまに美晴に話し掛けられ、雪兎はうなずいた。 雪兎のスーツは、とっくのとうに赤いハンガーサイズになっていたが、それすらキツい今日この頃。 「おまえ、俺との約束忘れたわけじゃないだろうな」 「憶えてるよ」 正月休みに貯えた脂肪を十日で落とすと約束した。 「ちなみに今何キロだ」 訊ねられて、雪兎はブンブンと首を振った。とてもじゃないけれど口には出せない。 (年末から、プラス20キロなんて……) 夏越しの牝馬ですら、ここまで太ったら人気を落とす。いや、馬はもともと体重が4〜500キロあるのだ。ベスト体重50キロの雪兎が増えていい数字ではない。 雪兎だって努力はしたのだ。満員電車で目の前の座席が空いても我慢して立ったし、女の子たちから、お地蔵さんのお供えのように積み上げられた饅頭や焼き菓子(帰省土産)も、食べたいのを我慢して他の人に譲った。 けれどもそんな小さな努力は、課長の「食え食え攻撃」の前では、風の前の塵に等しかった。 「その腹、どうなってるんだ」 リフレッシュルームの椅子に腰掛けた雪兎の腹は、窮屈そうに折りたたまれている。三段腹の肉の間に指を差し込んで、伊月は言った。 「何か隠してんじゃねえか」 「何を」 「小銭とか輪ゴムとか、百円ライターとか」 「車のシートの隙間じゃないんだから」 「靴下は自分で履けるんだろうな」 「……履けるよ」 雪兎は、悲しい気持ちで呟いた。 「古島くん、ここにいたのか」 三間坂が、いなくなった雪兎を探して、呼びにきた。 「席を外すときには、ひと言、声を掛けてくれないと」 やんわりとたしなめられて、雪兎は素直に謝った。 「すみません」 「午後から新橋の支店に行く。ついでに銀座でうまいものでも食おう」 その言葉に、伊月の顔が引きつった。 「課長」 「なんだい」 「あまり古島に食べさせないで下さい」 「なぜ?」 自分の金で部下にご馳走して何が悪い――という目で、三間坂は伊月を睨んだ。 「ご覧のとおり彼は、最近、異常に体重が増加しています。このままでは身体を壊しかねません。少しダイエットさせた方が」 伊月がそこまで言うと、 「ダイエット?!」 三間坂は芝居じみた声をあげた。肩をすくめるポーズも芝居っぽい。 「彼の体重が100キロを超えた、とか言うのならともかく。この程度だったら身体を壊すほどのことではない。むしろ、ある程度の脂肪は身体には必要なんだ」 (ある程度じゃないだろう!!)と、伊月は心の中で叫んだ。 「それより、急なダイエットの方が身体には良くない」 三間坂は、課長らしい説教モードに入った。 「聞いた話だと、古島くんは、太ったりやせたり繰り返しているらしいじゃないか。そのほうがよほど身体に悪いんじゃないかな。もうそんな無理なことはしないほうがいい。今のままでいたまえ」 「この体型で?」 信じられないと言う顔で、伊月は、雪ウサギならぬ、雪だるまになった雪兎を見た。 「さあ、でかけよう」 三間坂は雪兎の手を引いて歩き始めた。 「あ、はい」 三間坂に連れられながら、心配そうに後を何度も振り返る雪兎の様子は、誘拐される子供というか―― (とさつ場に連行されるブタ……) ブヒブヒ、という鳴き声までが聞こえてきそうで、切なかった。 「なあ、課長、古島のこと、えらくお気に入りだな」 席に戻ると佐々木が話し掛けてきた。部内では数少ない同期だ。 「ああ」 うなずきながら、伊月の心中は面白くない。 そう、誰がどう見ても、課長は雪兎をかわいがりすぎている。 「変な噂聞いたんだけど、三間坂課長、わざわざ希望してこの部に来たらしいぜ」 「それが何で変なんだ」 「だって、今度の四月には部長になるって言われてたんだぜ。何も、こんな中途半端な時期に異動することないじゃないか、エリートなんだよ?」 「……まあ、そうだな」 「そして、あの古島に対する執着ぶり。実は、古島を側におきたくて、うちの部に来たんじゃないかって」 「…………」 当然ながら伊月と雪兎の関係は知らない佐々木だが、雪兎が新人のころから面倒を見ている伊月に、忠告のつもりで言った。 「課長、MBA取るのにアメリカ行ってたらしいけど、ホモだって噂だぜ」 「…………」 「だとしたら、デブ専って奴なのかな」 「でぶせんって、何?」 ホモでも、あまりその世界には詳しくない雪兎だ。 「何か先生のことかな」 ごくせんと一緒になっている。 その日の夜、伊月は、いてもたってもいられずに雪兎のマンションに押しかけた。だからと言って、甘いムードになるわけではない。伊月は、警告に来たのだ。 「お前みたいな、デブが好きなホモのことだよ」 「うそっ」 あの課長が、と雪兎は驚いた。しかし、言われてみれば、 「あいつに何かされなかったか」 「なにか、って……」 心当たりは、いくつかあった。 「ほっぺた、さわられた」 「何っ?」 伊月は、目をむいた。 「あと、お腹、撫でられたり、お尻も……」 「なんでそんなこと許しているんだっ、おまえはっ!!」 「だって、そんなにしつこくしないし、相手は課長だし」 「そういう考えと態度が、セクハラを増長させんだよっ」 伊月は、怒りに顔を赤くして叫んだ。 「二度とあいつに近づくな!」 「無理だよ。課長だもん」 「あいつはデブ専だぞ! おまえをブクブク太らせて、いつか食ってやろうと思ってんだ」 「えええ」 その夜、雪兎の見た夢は、自分がヘンゼルとグレーテルになっていて(いや、一人だから、そのどっちかなのだが)お菓子の家に閉じ込められ、魔法使いの課長に、もっと食べて太れ太れと、生クリームたっぷりのケーキを口に押し込まれる夢だった。 「古島くん」 何度目かの呼びかけに、 「あ、は、はいっ」 雪兎は、あわてて振り返った。 「どうしたんだい、ぼんやりして。お腹がすいたのかな」 「いいえ!」 「そういえば、今日のお昼は少なかったかな」 そんなはずはない。今日は広島郷土料理の店に連れて行かれて、広島風お好み焼き、焼き牡蠣、酢牡蠣、牡蠣フライの牡蠣づくしに、最後は尾道ラーメンまで食べさせられたのだ。 三間坂は、立ち上がって、雪兎に近づいてきた。 「古島くん」 後から覆い被さるようにしてデスクに手をつく。ハッと気がつくと、信じられないことに、周りには人がいなかった。女性陣は研修会、男性陣は、二月決算月に入ったので、それぞれ現場支援で忙しく出かけているのだ。 (絶対、二人っきりになるなって言われていたのに……) 雪兎は身体を硬くした。――というのは気持ちを例えた言葉で、実際の雪兎の身体はポリウレタン素材のクッションなみに柔らかい。 「何を作っているのかな」 パソコンの資料を覗き込むようにした三間坂の顔が、その柔らかくてスベスベの雪兎の頬に近づく。後から頬ずりをされ、気が遠くなりかけた雪兎は、 「でぶせん」 思わず口走っていた。 三間坂の目がすうっと細められ、誰もいないオフィスに緊張が走る。 雪兎はあわてた。 「じゃなくて、えびせん!」 「えびせん?」 「そう、須藤さんたちからもらっていたんです、お土産のえびせん」 机の中から、えびせんべいの袋を出す。甘いお菓子は遠慮していたが、煎餅ならいいかとついついもらったものである。 「ああ、えびせんね」 三間坂は、目じりを下げて、 「あ、ちょっと待って、いいものがあるから」 思い出したように自分の席に戻ると、机の中から取り出したのはマヨネーズ。 「えびせんはね、こうしてマヨネーズを塗るととってもおいしいんだよ」 えびせんの上に、うねうねと黄色いマヨネーズがとぐろを巻く。 「わあ、おいしそう」 つられて食べてハッとする。また何カロリーも摂取してしまった。 「どうして、課長、マヨネーズを机の中になんていれているんですかっ」 雪兎が叫ぶと、ふふふ、と三間坂は笑った。 「君もマヨネーズは冷蔵庫に入れないといけないと思ってる派なんだね。大丈夫、実はマヨネーズは常温でも平気なんだよ。むしろ常温の方がいい」――油がたっぷりだから。 雪兎は、そんな派閥に入ったこともなければ、聞いたのもそんなことではなかったのだが、とりあえず妖しい雰囲気だけは去ったので、もう何も言わずに「えびせんマヨ掛け」を平らげた。 |
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