もうだめだ。
 課長がいる限り、体重は落とせない。
 雪兎は、ギブアップした。課長がいなくなるか、自分が課長のそばを離れるかしなければ、カロリー摂取過多地獄は続くのだ。
 しかし恐ろしいことに、もともと太りやすい生活習慣が身についている雪兎にとって、地獄と言いつつ三間坂の与えてくれる環境は天国でもあった。

 いよいよ、今持っている中で一番大きいスーツでもウエストが入らなくなってしまい、会社のビル内のリフォームショップに大急ぎの「お直し」を雪兎が依頼した日、伊月が意を決して三間坂と対峙した。

「お話があります」
「なんだい、深刻な顔で。まさか辞職願かな」
「いえ」
「冗談なんだから、そんなに怖い顔をしないでくれたまえ」
 互いに冷たいオーラを放ちつつ会議室に向かう二人を、雪兎はあわてて追いかけた。



「わかっていたよ。君たちの関係は」
 長い脚をゆっくりと組んで、三間坂は言った。
 知っていながら雪兎にちょっかいを出すわけは、伊月が考えた通り。
「私も、秋口に(丸々と肥えた)雪兎を見て以来、ずっと恋焦がれていたんだ」
 それから痩せたり太ったりを繰り返す雪兎の姿にヤキモキして、前任の磯貝課長を失脚させて九州に飛ばし、雪兎の上司として近づいた。
「でも、申し訳ありませんが、雪兎は俺の恋人です」
 あきらめて手を引けと、目の光で訴える。
「恋人、ねえ」
 クスと三間坂は笑った。
「何がおかしいんです」
 伊月はムッとした。
「最近、君たち、セックスしてるの?」
 三間坂の唐突な問いに伊月は息を飲み、そばで聞いていた雪兎は、言われた意味に気がついて真っ赤になった。
「そっ」
 そんなことは余計なお世話だ、と伊月が言う前に、三間坂がたたみ込んだ。
「できないんだろ、太ってしまった雪兎じゃあ。それで本当に恋人だと、愛していると、言えるのかな」
「何?」
「太っていたら、君は雪兎を愛せないのかい」
 三間坂の切れ長の目が、伊月を見つめる。
「美醜なんて、皮一枚、いやこの場合は肉ひとかたまりの問題だ。本当に愛しているのなら、そんな外見ごときに誰がこだわるものか。それなのに君は……。そんなことで恋人だなどと、よく言えたものだな」
 言われて、伊月は言葉に詰まった。
 ちょっと落ち着いて考えれば、三間坂だって「太った雪兎」が好きなのだから伊月のことは言えないのだが、言葉としての正論を突きつけられて冷静な判断力を欠いている。伊月が言葉を失っていると、
「無理しなくていいよ」
 ポツリと、雪兎が言った。
「貴彦が好きなタイプって、ジャニーズ系の、しかも痩せて華奢な子だもん」
 一瞬、唇を噛んで、また口を開く。
「もともと貴彦が僕のこと好きになってくれたの、僕が就活で、一番げっそりしていた時だし……」
 伊月は、その時のことを思い出していた。初めて会ったとき、雪兎は、就職活動のストレスと夏バテが重なり、人並み以上に痩せていた。儚げで頼りなさげなその姿に、伊月はひと目で恋に落ちた。他のOB訪問の学生とは明らかに差別して、面接の対策まで懇切丁寧に指導し、無事に内定をもらったと言うメールをもらったときには、自分のこと以上に喜んだ。
 そして、待ちに待った入社式の日、卒業旅行での食べ過ぎが原因で面変わりした雪兎を、伊月はとうとう見つけ出すことが出来なかった。
 入社しなかったのか――と、ガックリ落ち込んだ伊月の前に、丸々と太った雪兎が転がるように走ってきた、あの衝撃は一生忘れない。
 あれから三年、雪兎との付き合いは、食うか食われるか、いや違う、食うか食わさないかの戦いだった。「痩せろ」という自分の命令に、いつも雪兎は、文句も言わずに一生懸命従った。一週間夕食を抜いたり、こんにゃくしか食べさせなかったりしたこともある。それでも、一度も、恨み言を言われたことは無かった。

「ごめんね、こんなに太って」
 雪兎の声に、記憶が中断する。
「僕、いつも、貴彦の為に何とか痩せたいって、がんばったけど、今回はもう無理みたいだ」
 雪兎の顔が、泣きそうに歪んだ。
「僕、もう貴彦の恋人じゃいられないよ」
「な……」
 何を言うんだと、言おうとした声は、雪兎の悲痛な声にかき消される。
「だって僕、もう、こんなに醜くなっちゃったよ。貴彦に、嘘もついたんだ! 靴下、履けるって言ったけど、本当はもう前かがみじゃ履けなくて、床に横座りして履いてるんだ!! 体重計だって、もう怖くて乗れなくって……」
 ヒックと大きくしゃくりあげ、雪兎の、普段は大きな、今は盛り上がった頬の肉のために細くなった、瞳から涙がこぼれる。

「ごめん、貴彦。僕、もう……」
 疲れたんだ――と「フランダースの犬」のネロ少年のように呟いて、雪兎は駆け出していった。ドスドスと。

「ふっ、靴下なんて……私なら、毎朝履かせてあげるね」
 三間坂がその後を追う。
 伊月は、ただ呆然とその場に取り残された。

 そのまま早退して、次の日も会社を休んだ。

 伊月にとって、体調不良を理由にズル休みするなど初めての経験だったが、それだけ精神的に参っていたし、何しろ、ゆっくりと考えたかった。―――雪兎のこと。
 最後に見た雪兎の、大福のような顔が頭を離れない。
 涙をためて『ごめんね』と言った。
『僕、もう貴彦の恋人じゃいられないよ』

 そうなのか?
 太って醜くなった雪兎は、もう恋人ではないのか。

 丸一日考えて、何がなんだかわからなくなり、そして疲れ果てて眠った後の頭で、伊月はようやく思い当たった。
 これまでどんなに雪兎が太っても、一度だって、恋人でなくなった日は無かった。
 激太りの雪兎を痩せさせるのに必死で、確かに甘い語らいこそ無かったけれど、それでも、結婚式の誓いのように「痩せ
(め)るときも太(すこ)やかなるときも」二人は愛し合っていた。それでなくては、あれだけのダイエットができるはずがない。雪兎がどんなに太っても再び痩せることが出来たのは、二人の愛の力だ。

「ちくしょう、なんでもっと早く気がつかないんだよ」

 スッキリした頭で会社に向かう。雪兎に会ったら、はっきり言おう。

「おまえが太っていようが、痩せていようが、愛している」
  
   



 けれども、その言葉を言うべき相手は、いなかった。


「雪兎?」
 きれいに片付けられた机の上に、目を瞠る。
「あ、伊月主任、もうお身体大丈夫なんですかぁ」
「おい、雪兎、どうしたんだ」
 出社してきた美晴に訊ねる。
「ウサちゃん先輩は、中国です」
「中国……って、広島?」
「それは私の実家。ちなみに中・四国のカナメです。二人が行ったのは、パンダの中国です」
「二人?」
 ハッとして、課長席を見ると、そこもノート型パソコンが無くなっている。
「なんで、二人って、課長と?」
「はーい、そうなんです。うちの会社、来年、中国進出するらしくって、前からプロジェクトが立ち上がっていたみたいなんですよ。それで、課長が地ならしに行ったんですけれど、ウサちゃん先輩まで一緒に連れて行ってしまったんですよう」
 美晴は不服そうに言う。
「お気に入りなのはわかりますけどねえ、ウサちゃん先輩は、私たちにもお気に入りなのにぃ。私たちの癒しを返して欲し〜い」
 美晴の主張は耳に入らず、伊月は声を震わせた。
「一緒って……いつ帰ってくるんだ」
「えっ? ああ、出張」
 美晴は、思い出すように首をかしげて、
「確か、ニヶ月くらい戻れないって、言ってましたよ」
「に……」
(そんなに長い間、あの三間坂と――)
 伊月は、ガックリと椅子に座り込んだ。


 何てことだ。
 ようやく自分の気持ちがはっきりしたというのに。
 そして、雪兎に「愛している」というはずだったのに。


 二ヶ月、いや、一週間でも朝晩一緒にいたならば、あの三間坂が何もしないはずがない。

「靴下」
「えっ、なんですか?」
「……いや、なんでもない」
 三間坂は、今ごろ雪兎の靴下を履かせてやっているのだろうか。

 額に両手を当て、一瞬、泣きそうになった顔を隠すように俯いた。
 失った物の大きさに、今さら気がつく愚か者。

「主任、大丈夫ですか?」
「ああ」
「無理しないでください。なんなら、今日も帰られたら……」
「……いや、大丈夫だ」
「でも」
「いいから」
 今独りになったら、気が狂いそうだ。 


 
 そして、それから一週間。
 三間坂と雪兎のことを考えないように、半分やけになって仕事をしていた伊月のもとに、一通の国際電報が届いた。差出人は三間坂。

 雪兎危篤。即、来られたし。

「雪兎っ?!」






 雪兎は北京の病院に入院していた。
「雪兎はっ?」
 三間坂の顔を見つけて、伊月は駆け寄った。
「ああ」
 三間坂は、苦々しげに伊月を見て、
「こっちだ」
 病室に案内する。
「幸い、意識は取り戻したよ。まったく、何て無茶を……」
 三間坂は、怒っていた。
「危篤って、一体何が……」
 わけもわからずただただ心配で、電報を受け取った足で駆けつけて来たのだ。
「川の水を飲んだんだよ」
「川?」
「ヘドロと藻で真ミドリ色のね、一口でも飲んだら一週間は腹を下すだろうって言ってたら、いきなり手にすくって、ゴクゴク飲んでしまった」
「な、なんで、そんなこと……」
「わからないのかい」
 眉間にしわを寄せる三間坂の顔には、今まで一度も見せたことのない、敗北の色が滲んでいた。
「雪兎……」

 
 ベッドの中の白い顔は、十日前に見た時より二回り以上小さくなっていた。
「あ、貴彦……」
 驚きに小さく呟いて、そして雪兎は、瞳を濡らした。
「この……ばか」
 本当は違うことが言いたかったのに、伊月の口から出たのはこんな言葉。それでも、雪兎は、嬉しそうに笑った。
「うん……ごめんね」

「ずいぶん痩せてしまっただろう」
 三間坂が病室を出て行きながら言う。
「どうも中国の食べ物が口に合わなかったらしい。こちらに来てからほとんど食事をとらず、挙句の果てがこれだ。さすがの私も、お手上げだよ」





「やっぱり、僕、貴彦の恋人でいたいんだ。もうちょっとで元に戻るから、そうしたら、また恋人にしてくれる?」
 二人きりの病室で、雪兎は恥ずかしそうに頬を染めて言った。
「ばか、もういいんだよ」
 伊月は、雪兎を布団ごと抱きしめる。
「おまえが、この布団十枚分くらいぶ厚くなっても……愛してる」




 そうして、雪兎は「もう太らないようにするね」と甘えた声を出し、伊月のほうは「もうニ度と無理なダイエットはさせない」と誓ったのだが、それらの言葉は、直後にやって来たバレンタインデイとホワイトデイで、けっこうあっさり覆された。まあ、そんなものである。







END


ここまでお読みいただいてありがとうございます。

少々、ご無沙汰していましたが、皆様お元気でしたでしょうか。


私はお正月から新年会にかけて、食べすぎ 飲みすぎ もうどうにもとまらない 困っちゃ〜う♪ 
(また若い人にはわからないこといって、ゴメン・笑) なんて勢いのまま、広島にも行って来まして、
お好み焼き共和国で広島風お好み焼き、宮島で焼き牡蠣、酢牡蠣、
泊めていただいたおうちで牡蠣フライや天ぷらの数々
男たちの大和のロケセットを見に行った帰りには豚の背油たっぷりの尾道ラーメンまで平らげて、
本当に洋服箪笥の中で着用可能なものが4分の1も無い!という状態に追いこまれています。

ここでバーゲンの誘惑に負けてワンサイズ上の服を買ってしまったら、
去年の夏から秋にかけて取り憑かれたように買ったものがすべて無駄になってしまう!
と言うことで、週5日の会社勤めを中2日で同じ服着て我慢しています。あーあ。

そんな私の広島旅行記念です。
もちろんこのお話はフィクションで、実際のもぐもぐとは何の関係もなければ、
けっして、こんな状態にあこがれているということでもありません。
ただ、デブが書いてみたかったのさ。私よりデブを……。

ご感想などいただけると、とっても嬉しいです。

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