「ヤバ……」
 古島雪兎
(こじまゆきと)は、思わず声に出していた。
 約二週間ぶりに乗った体重計。目盛を見てつぶやいたのではない。数字を見ようとして、ただ下を向いただけでは自らの腹に隠されて、目盛が見えなかったのである。
「いったい何キロになったんだろう」
 腰を曲げて覗き込んで、今度こそ本当にヤバいと青ざめた。

「いいか、休みの間に5キロ以上太ったら、ただじゃおかないからな!」

 恋人であり、同じ会社の先輩でもある伊月貴彦
(いづきたかひこ)の声がよみがえる。
 こうなることはわかっていて、5キロの猶予をくれた彼も、さすがにこの数字には怒髪天を突くに違いない。仕事納め早々に実家に帰ることになった為、年末とお正月を一緒に過ごすことが出来なかった恋人の怒った顔を思い浮かべて、雪兎は年始だというのに会社を休みたくなった。けれども社会人三年目ともなれば、そんな理由で休むわけにはいかないことも知っている。そもそも一日や二日休んだ所で解決する問題ではないのだ。
(せめて一週間あれば……)
 雪兎は、暗い気持でタンスに向かった。
 結婚した姉が譲ってくれた独身男性には不釣合いなほど大きな洋服ダンスの中には、デパートの衣料品売り場のようにサイズの違うスーツが並んでいて、わかりやすいようにハンガーには、赤、オレンジ、黄色、青のしるしが付いている。サイズが違うと言っても丈は同じ、横幅が違うだけ。
「これかな」
 未練がましく黄色のハンガーを手に取る。
「う、ダメだ」
 スーツのズボンのボタンがかけられない。いくらお正月中、ずっとスウェットパンツで過ごしていたとはいえ、ここまでひどいとは想定外だ。思いっきり息を吸ってボタンをとめてはみたけれど、ファスナーが途中までしか上がらない。グッと力を入れたら、次の瞬間、かわいそうなボタンは悲鳴をあげてはじけ飛んだ。
「しかたないや……」
 悲しいけれど、オレンジのハンガーのスーツにする。
「よいしょ」
 まだちょっとキツイけれど、もうひとつ上の赤のサイズを着ていったら、それこそ何を言われるかわからない。下手するとまたお昼を食べさせてもらえない。雪兎は、かつて実際に伊月に受けた仕打ちを思い出して背中を丸めた。




 正月明けの電車は、まだ学生がいないせいか、いつものような混雑は無く、三人掛けの席の一つが空いたのを目ざとく見つけて、雪兎は尻を押し込んだ。
 これで、会社のある東京駅まで座っていける。
 小さな幸せに顔をほころばせて目を閉じた瞬間、伊月に言われたことを思い出した。
「電車では立て! 絶対に座るな!!」
「あ……」
 一瞬腰を浮かしかけたけれど――40分の睡眠タイムの誘惑には勝てず、雪兎は、再び瞳を閉じた。



 案の定、会社に着いた雪兎の姿を見たとたん、伊月は切れ長の目を吊り上げた。
「お前、いったい、この正月どんだけ食ってたんだっ!」
「え、と…」
「体重計は、毎日乗ってたのか。何キロだっ、いったい何キロになったっ」
「ええと……」
「伊月主任、そんなに言ったらかわいそうですよ」
 雪兎は、後輩の須藤美晴に庇われる。
「ウサちゃん先輩は、太ってもかわいいんです」
 おっとりとした口調で言われて、
「あ、ありがと」
 思わず頭を下げると、
「礼を言うな、礼をっ」
 伊月は、本気で怒っていた。
「何がウサちゃんだ。ブタだろ、これじゃ。雪ブタだ」
「ひどい、主任。社内人権問題委員会に言いつけますよ」
 美晴は唇を尖らせて伊月を睨んだ後、雪兎を見て言った。
「ウサちゃん先輩は、太ってもこんなに美少年なんだから、いいんですよぉ。私は、痩せているときより、今日みたいにポチャポチャした先輩の方がかわいくて好きです」
「そんなのは、須藤、お前だけだ」
「ちがいますよう。敦子先輩も篠原先輩もよっちゃんも美紀ちゃんも、みんな、太ってるときのほうがいいって言ってました。かわいいでしょ、甘やかされすぎたペットみたいで」
「お前らもまとめて人問委員会行きだな」
 伊月は呆れたように美晴を押しのけ、
「それで、本当に、何キロなんだ」
 雪兎を上から覗き込むようにして威圧した。
「年末、最後に会ったときから、プラス何キロなんだ」
「えっと」
 毎日乗るように言われていた体重計だが、クリスマスイブの前日に計って以来、なんとなく見たくなくて避けていた。実家に帰ってからは、無いのをいいことに乗らずに済ませていた。今朝、しぶしぶ乗ってみたところが「アレ」だったのだ。
「プラス……12キロ」
 口の中で、モゴモゴつぶやく。
「はい?」
「プラス、12キロです」
 思い切っていうと、伊月の額に青筋が浮かんだのを、雪兎は(見たくないけれど)見てしまった。
「たかが中ニ週でプラス12キロ、お前はどこのヘボ厩舎の馬だ」
「うま」
「駄馬だ。駄馬」
「だ、だば……」
 シャバダバ ダバダバ シャバダバ ダバダバ
 昔懐かし11PM(若いお方はご存知あるまい)のテーマソングにあわせて、丸々と太った馬が雪兎の脳内を重そうに駆け巡る。
「ひどいよ」
「ひどいのはお前の腹だ」
 伊月は、雪兎の上着を捲り上げる。と、
「……ベルトは?」
「あ、忘れてた」
 ベルトも無いのに、ウエストにズボンが食い込んでいる。
「お前、これから一週間、昼飯抜きな」
 伊月はブリブリと怒ったまま、自席に戻った。


 取り残された雪兎は、美晴に、
「かわいそう、雪兎先輩」
 イイコイイコと、子どものように頭をなでられた。身長は、女の子の美晴とそれほど変わらない雪兎だ。
「気にすること無いですよ。女子はみんな雪兎先輩の味方です」
 美晴は持っていた紙袋をゴソゴソ探り、
「はい。実家のお土産、藤い屋のもみじ饅頭。たくさんどうぞ」
「わあ、こんなにありがとう」
「食うなっ!!」
 マッハのスピードで戻ってきた伊月が、雪兎の両手に乗っていたのを全て取り上げた。
「いいか」
 伊月は、雪兎の腕を取り、部屋の隅に引っ張っていく。
「お前、これ以上太ったら、絶交だぞ」
「う」
 子どものような脅しだが、雪兎にはこれが一番効くのだ。いじめられた子どものような顔で伊月を見返す。
 伊月は眉間にしわを寄せ、噛んで含めるように言い聞かせる。
「俺はなあ、痩せてて、華奢な、お前が好きなんだよ」
「や、やせるよ。また」
「当たり前だ。何日で」
「に、二週間」
「バカ、十日だ。十日以内に戻せよ」
「うん……」
 雪兎は極端に太りやすい体質だった。太りやすいと同時に、幸い、やせることも比較的容易にやってのける。筋肉の方が落ちにくいと言うが、雪兎の体にまとわり付いているのは脂肪だけなのだろう。入社一年目の話、雪兎が増えすぎた体重を某ダイエットサプリメントであっという間に落とした時には「歩く広告塔」とまで呼ばれ、女子社員がいっせいにそのサプリメントに飛びついたものだ。残念ながら、誰も雪兎のようにはいかなかったが。
 今では、雪兎の特異体質は社内でも有名になっていて、季節の変わり目ごとに増減する体重も、月の満ち欠けをめでるように温かく見守られていた。



 ひそひそと二人が話をしていたところ、いきなりドアが開いて、部長と背の高い男が入ってきた。男は、高そうなスーツを身につけて、いかにもエリート然としている。その端正な顔には、雪兎も見覚えがあった。経営企画室の課長だ。
「新年早々、急な話だが」
 と、前置きをした部長は、前の課長が実家の都合で突然九州に帰ることになり、その男、三間坂丈一郎
(みまさかじょういちろう)が、雪兎たちの新しい上司だと告げた。
「三間坂課長のことは、わざわざ紹介しなくても知っているだろうが……」
 部長の口から語られる三間坂の経歴や評判は、雪兎たちの耳にもよく届いていた。まだ三十代半ばの若さで、本社の中でもエリートが集まる経営企画室の課長となり、実績を挙げ、役員からも覚えがめでたい。その勢いは、ひょっとしたら初の四十代の取締役が出るかもしれないと噂されているほどの男だ。
「なんでそんなひとが……」
 いまさら、現場により近い営業推進室に着任するのか。
「部長に上がる前の布石かもな」
 伊月は、三間坂の俳優のように整った顔を見ながら、小声でささやいた。

「古島くん」
 自席でいつものようにパソコンをいじっていた雪兎は、三間坂に呼ばれて、
「は、はいっ」
 ポテポテという足音が聴こえてきそうな動作で、課長席に駆け寄った。
「君には、今日から僕の補佐として働いてもらう」
「えっ」
 突然の言葉に、雪兎のつぶらな瞳が見開かれる。
「どうして」
 思わず小さく漏らすと、三間坂は微笑んだ。
「前の磯貝課長も、君のことを『よく気がつく上に、仕事でもミスの無い、とても優秀な部下だ』と誉めていたよ」
 エリート課長から告げられた手放しの誉め言葉に、雪兎は、赤ん坊のような頬を薔薇色に染めた。
「よろしくたのむよ」
「は、はい」
 顔を上気させたまま、頭を下げる雪兎を、伊月がじっと睨んでいた。




「おい、ちょっと付き合え」
「えっ、うん」
 席に戻った雪兎は、伊月に引きずられるような格好で分煙室に連れ込まれた。雪兎の会社のビルも昨今の流行の御多分に洩れず、全館禁煙になっている。各フロアーの両端にあるリフレッシュルームと名付けられた分煙室だけがタバコの吸える場所。最もタバコを吸うのは伊月だけだったが、二人きりで話をするときなど、人の少ない北側の狭い方の部屋に連れて来られた。今も、周りには誰もいない。
「何だよ、さっきの」
「何のこと?」
「課長に呼ばれて、顔を赤くしてんじゃねえよ」
「べ、別に」
「別に、じゃないだろ、このデブ」
 伊月は、雪兎のほっぺたを引っ張った。
「いひゃ、いひゃいよ」
「こんな、ブクブク太りやがってっ」
「やら、やめれってばっ」
 伊月の手を振り解いて、ますますふくれてしまった頬を押さえる。
「痛いよ、貴彦」
 雪兎が涙ぐむと、
「お前が、あんな顔するからだ」
 伊月は、ふいに切ないような声を出した。
「貴彦?」
「雪兎……」
 伊月が雪兎の肩に手をかけたとき、
「古島くん」
 呼びかけとともにドアが開いた。三間坂が立っている。
「あ、課長」
「これから、関係各所に挨拶回りに行く。君も同行してくれ」
「は、はい」
 三間坂は、雪兎の背中を押すようにして部屋の外に出すと、チラリと伊月を振り返った。
 一瞬、二人の男の間に火花が散ったかのように見えたが、そのことに雪兎が気づくはずも無い。


「古島くんは、タバコを吸うのかい」
 リフレッシュルームを出て、三間坂が尋ねる。
「えっ、あ、いいえ、僕は」
「そう、それならいいんだ」
 三間坂はニッコリ笑った。
「タバコなんか吸ったら、君のその白くて滑らかな肌が、くすんでしまうからね」
 すっ…と、指の先で頬を撫ぜられ、雪兎はきょとんと首をかしげた。







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