「風邪、ですか?」
「ええ、そうなの。昨日は寒かったでしょう。それでひいたみたいで」
 受話器の向こうの、あまり心配はしていないような明るい声の主は、英の母親の澄子だ。
「大したことはないんだけど、今は寝てるのよ」
 今日中に紫に会って話をしようと決意して、緊張して掛けた電話だったが、肩透かしをくらった格好になった。英が出たときの言葉は用意していたが、これは予想外だ。
「そうですか……いえ、では、また改めます……いいえ、本当に、大丈夫です。また、学校ででも……はい」
 何か伝えることがあれば伝えるし、なんなら後で折り返しかけさせましょうかと尋ねる澄子の申し出を丁寧に辞退して、博之は受話器を置いた。
 澄子の口ぶりからすると、紫が自分と話をしたくなくて仮病を使っているとは思えない。それでは、本当に風邪をひいたのかと思うと、急に心配になった。昨日は、確かに寒かった。紫は、上着も着ずに飛び出したのだ。しばらく迷ったけれど、落ちつかず、博之は紫の家に行くことにした。
(会えなくてもいい。そばに行って様子だけでも……)
 紫の家というのは、もちろん英の家だ。英に会うことになるだろうが、英とも、いつかはきちんと話をしないといけない。
(英に会って……そして、紫のことを聞こう)
 博之は着替えると、昨日紫からもらった青いマフラーを手にとった。紫の匂いがつけばいいとあの細い首に巻いた。白い小さな顔によく似合っていた。
(そういえば……『ありがとう』って言ってない)
 あの後、そのまま紫と抱き合ってしまい、お礼の言葉も伝えてなかったことに気がついた。
(まったく……)
 自分に呆れながら、マフラーを巻いて靴をはく。
 玄関に紫の靴を見つけて、目を瞠る。
(靴もはかずに、飛び出したのか)
 胸が締め付けられて、博之は駆け出した。とにかく紫に会いたい。
  
 
 家の前まで来て、博之は深く息を吸った。紫は寝ているのだからベルを鳴らしたら、英の母親か、英自身が出てくるはずだ。どちらにしろ、紫に会う前には英と話をつけないといけない。英をだましていたと言う後ろめたさはあるものの、お互いにちゃんと話せば分かり合える。博之は、そう考えた。
 けれども――
「何しに来た」
 玄関のドアを開けた英は、博之の姿に一瞬驚いた様子だったが、すぐに冷たい瞳で見据えて、突き放すように言った。
「今さら、俺たちの前に出す顔があるのか」
 博之は、グッと拳を握って
「紫に会って話をしたい」
 言うと、英の眉がピクッと跳ねた。
「でも、その前に、お前ともきちんと話をしたいんだ」
 真っ直ぐに英の瞳を見つめる。
「話なんか、ない」
「ある。俺たち兄弟のこと」
「……雅之が、お前の弟だったとはね」
 知らなかったよ…と目で言う英の背中から、陽気な声がした。
「英? お客様?」
 澄子が顔をのぞかせて
「あら、お友だち? 上がっていただいたら」
 博之に、笑いかけた。
「いや……」
 すぐに帰る相手だからと言おうとした英を遮って、
「紫くん、風邪、大丈夫ですか」
 博之が澄子に尋ねた。英は小さく舌打ちして、
「ちょっと、出かけるから」
 嫌そうに靴をはいた。
「さあ」
 博之を促がして、玄関を出る。
 博之は澄子に頭を下げて、英の後ろに続いた。




* * *

 紫は、腫れぼったい顔に手を当てて、「やっぱり顔を洗おう」と起き上がった。
 もう、お昼をとうに過ぎている。英が持ってきてくれたお粥を食べたのでお腹はすいていないけれど、このまま横になっていたら、むしろ頭が痛くなりそうだった。冷たい水で顔を洗ってすっきりさせよう。部屋を出て洗面所に行く。リビングに伯母澄子の姿があったが、腫れた顔を見られたくないので足早に通り過ぎた。
 顔を洗って少しすっきりしていたところに、澄子が現れた。
「紫ちゃん、もう風邪、大丈夫なの?」
「えっ? あ、はい……」
 ふかふかのフェイスタオルで顔を半分隠しながら、紫はうなずいた。
 目が赤いことに気づかれないように、まつ毛を伏せながら
「英さんは……?」
 話題を探しただけの質問だったが、
「ああ、さっき友達が来て、出かけたの」
「そう……」
「たぶん松浦くんって子よ」
 澄子の言葉に、心の中で激しく驚いた。
「朝ね、電話があったのよ。その声が英によく似ててね、それが印象的で名前もすぐ覚えちゃったんだけど、さっき来てた子、同じ声だったから」
 と、そこまで言って
「あ、朝の電話は、紫ちゃんあてだったんだけどね」
 澄子は目をくるりとさせて紫を見た。
「僕……?」
「そう。風邪のことも心配してくれていたわよ」
「…………」
 紫は、心臓がドクンドクンと鳴るのを聴いた。
(博之さんが……)
「すごく男前の、ハンサムくんだったわねえ」
 澄子の言葉に返事も出来ず、紫はフラフラと洗面所を出て部屋に戻った。
(博之さんがこの家に……)
 自分に会いに来てくれたと思うのは、虫の良い考えだろうか。けれども、朝の電話は自分あてだったと言われた。
 
 博之が自分に近付いたのは、弟の復讐のため。

 昨日一晩考えて、悲しい結論に達した。
 けれども心の片隅には、それは嘘で、博之は本当に自分のことを好きなのだ――そう思いたい自分がいる。 
 なぜなら、紫自身、まだ博之のことを好きだから。
 騙されていたのだと、利用されていたのだと、そう言われても「それでも博之のことが好きだ」と言う自分がいるから。
 だから、澄子の言葉に、期待してしまう。
(博之さんは……ううん、博之さんも……僕のこと……)

「どうしよう」
 そう呟いたときには、心は決まっていた。
 博之に会って、本当のことを聞きたい。
 昨日自分は博之と話もしないで飛び出してしまった。博之の逸らされた瞳に全てを悟った――そう思って。でも、本当にそうだったのか。 



 聞きたい。
 博之さんの気持ち。
 そして伝えたい。自分の気持ち。
 こんなにも―――博之さんが好き。



 慌てて支度をして玄関に出ると、澄子が驚いた様子で声を掛けてきた。風邪を心配する声に大丈夫だと返事して、高鳴る心臓に急かされながら家を出る。二人がどこに行ったのかは、わからない。けれどもこの近くなら、心当たりのある店を全部探して見つけて見せる。この近くでなくたって、一日中探してでも、絶対に―――。

 それほど心はやらせて飛び出した紫だったが、玄関を出て百メートルも行かないうちに、立ち止まった。前から英が歩いて来る。
 博之の姿はない。
「英さん……」
 博之のことを目で問うと、英は持っていた青いマフラーを差し出した。
「これを、返しに来たよ」
(あ……)
 昨日自分が贈った誕生日プレゼント。
 あっけなく下ろされた幕に、紫は、呆然と佇んだ。







(プレゼントを、返しに来ただけ――)
 会いに来てくれたと思ったのに。
 自分からのプレゼント、手元においておくのも嫌だったのだろうか。
 紫は貧血を起こす前のように、目の前が暗くなって、指先が冷たくなった。
「俺が預かっとくから」
 そう言って、英の手がマフラーをたたむのを、紫は黙って見た。さっきまでの高揚した気持ちが嘘のよう。倒れないように自分を支えるのがやっと。うつむいて自分のつま先を見たとたん、パタパタと落ちたのが涙とわかって、
(ばか)
 やっぱり泣いてしまったと、紫は唇をかんだ。
「紫……」
 呼びかけた英の声も、掠れている。
「そんなに、アイツが好きか……まだ……」
「……大丈夫」
 下を向いたまま応えると、
「お前のことは、俺が絶対幸せにするから」
 英がひどく真剣に言った。


 
 次の日、紫は珍しく学校に行きたくなくて、
「本当に風邪をひいていれば、休めたのに」
 何度か額に手をあてた。
 結局、根が真面目なので仮病も使えず、いつものように英と並んで学校に行く。当然、博之が途中で一緒になることはなかった。ずっと沈んだ顔の紫に、英はいつもにまして優しい。靴箱前の恒例行事のときは、
「元気出せよ」
 紫の前髪をかきあげるように撫ぜると、そのままそっと髪の毛に口づけた。その場にいた生徒たちがザワリとした。
「英さん?」
 驚いて見返すと、英は優しく微笑んだ。
 紫は、
(たぶん、心配してくれてるんだ……)
 そう思って、小さくうなずいた。






 その日の放課後、英が迎えに来るのを教室で待っていると、
「たいへん、たいへん〜っ!!」
 一足先に帰ったはずの川島が教室に駆け込んできた。紫のところに駆け寄って
「生徒会長が!」
 口から泡を飛ばして、紫の腕をつかむ。
「英さんがどうしたの?」
「い、いいから、早く」
 紫の腕をつかんだまま、川島は走った。
「ま、待って……」
 紫には、わけがわからない。
「どうしたの?」
 腕を引っ張られながら尋ねると、
「喧嘩」
「えっ?」
「会長が、裏庭の奥で、大喧嘩」
 川島の短い応えに、紫は目を瞠った。


 裏庭の最奥にある原っぱに続く道は、大勢の三年生で封鎖されていた。
「はいはい、ここから先は立ち入り禁止」
「見世物じゃないのよ」
 まだ下校していなかった生徒たちが噂を聞きつけて集まって来るのを、
「ほら、一年坊主はさっさと帰れ」
 奥に行かせまいと押し返している。
 川島も同様にあしらわれたのだが
「すみませんっ」
 紫が叫ぶと、
「紫の上だ」
「どうする?」
 三年の男二人が顔を見合わせた。
「もちろん、通し」
 応えたのは、生徒会役員のひとりだ。
「ただし、君だけ」
 紫を通して、川島を引き止める。
 紫は、一瞬ちゅうちょしたけれども、川島が目でうなずいたのを見て駆け出した。
 裏庭の林の奥にはドッヂボールくらい出来そうなスペースがあるのだが、そこで今、英が喧嘩をしているという。
 相手というのは、まさか――
「博之さんっ」
 三年生数十名のバリケードの向こうで、英と殴りあいの喧嘩をしているのは、紛れもなく博之だった。
 上着を脱いだ二人が、シャツの前がはだけ、裾が出るのもかまわず、拳を交わしている。もうどのくらいの間こうしているのか、二人の姿はボロボロだった。それでも動きに疲れはない。博之のパンチが英の頬をかすり、英の蹴り上げた足が博之の脇腹をえぐる。博之は、一瞬体勢を崩すがすぐに立ち直って、拳を英の鳩尾に食い込ませた。
「な、何で……」
 唇を震わせる。愕然と立ちすくんだ紫の耳に
「よう、お姫様のご登場」
 谷山の声が飛び込んできた。見ると、三年生ばかりのギャラリーの一角に、谷山を含むいわゆる不良の集団があった。三年生の頭(ヘッド)を取り囲んでしゃがんでいる。さすがに、この連中は入口でとめられなかったのか。
「こっち来いよ」
 紫は、言われるまま谷山のところに行った。
「おねがい。あの喧嘩を止めて」
 必死の思いで言うと、
「何でだよ、いいじゃねぇか。こんなん、滅多に見れないぜ」
 谷山は笑った。
「そうそう」
 隣に座る三年の不良が、
「どっちもすげえ。噂はダテじゃなかったんだな」
 二人の喧嘩を見ながら嬉しそうに目を輝かせる。
「見ろよ。狼と虎の闘いって感じだぜ」
「くうっ、俺らも混ざりてえな」
 のんきな言葉に、紫は悲鳴を上げた。
「ばかなこと言ってないで、止めてくださいっ」
「バカじゃねえよ」
「そう。欲しいもの手に入れるために闘うってのは、生き物の原理だ」
「サル山のボスもそうだけどな」
「でっけぇ猿だな」
 不良たちに相手にされずに、紫は半泣きになる。
「そんな、英さんは殴り合いの喧嘩なんかする人じゃありません。博之さんだって」
「だから珍しいんだろ。大人しく見てろよ。お姫様」
 不良の頭は、おかしそうに横目で見た。
「そんな……」
 紫は、仕方なく自分で止めようとした。
「やめて!」
 大声で叫んでも、二人の耳には届いていない。いや、聴こえていても、無視しているのかもしれない。
「やめて、英さん、博之さんっ」
 紫の声に、ギャラリーの歓声はいっそう激しくなる。
 英の拳が博之の顎にヒットして、博之が地面に倒れた。
 圧し掛かった英を、博之の足が蹴り上げる。
「やめて、二人ともっ」
 紫は悲鳴をあげた。泣きながら、隣にいる谷山の腕をつかむ。
「お願い、谷山くん、二人を止めて」
 大きな目からポロポロと涙をこぼす紫を、谷山は困った顔で見て、
「白石さん、いいっスかね? 止めても」
 頭に尋ねた。
「もったいねえけどな」
 本気で言っているらしい頭に、
「泣かれると弱いんですよ」
 谷山はヘヘっと笑った。二人の会話に、頭を金色にした別の生徒が割り込んでくる。
「で、どうやって止めるんだよ、タニ」
「こうやんですよ」
 谷山は、紫の手をひいて、ギャラリーの輪の中に飛び出すと、
「せいっ」
 紫をいきなり押し倒した。
「きゃぁっ」
 突然の事に悲鳴をあげる紫。そのまま谷山の唇が項に滑り落ちてきたので
「やめてっ」
 必死に抵抗すると、
「やめろっ!!」
 博之とも英ともわからぬ声がした。
 地面に倒れたまま紫が見ると、博之が谷山を引きずっている。
「はいはい、何もしてませんって」
 いつかのように谷山は、両手を上げて降参のポーズ。
「紫」
 その間に、英が紫を助け起こす。
「大丈夫か」
「英さんこそ……」
 青痣を作った英の方が、よほど痛々しい。
 紫は、普段ネクタイの曲がりすら許さない英が、シャツもズボンも全身ボロボロになっているのを見て、言葉を失った。
 視線を感じて、ゆっくりと首を巡らすと、やはりボロボロになった博之と目が合った。二人が見つめ合ったのに気がついて、英は立ち上がった。
 ギャラリーのひとりに近寄ると、その生徒は英に紙袋を渡した。英は、その中からマリンブルーのマフラーを取り出し、ゆっくりと博之に近付いた。
 博之は紫を見つめたまま。
英は、紫のそばまで行って、そのマフラーを紫の首に巻いた。
 博之と見つめ合っていた紫が、ぼんやりと英に視線を移す。英は、
「これが、この勝負の賞品」
 トンと紫の背中を押して、紫ごとマフラーを博之の胸に押しやった。



『欲しいもの手に入れるために闘うってのは、原理だ』

 ついさっき聞いた誰かの言葉が、紫の頭にリフレインした。


 

 




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