カチャリと扉の開く音がして、博之のスウェットの上下を着た雅之がリビングに入って来た。
「おはよう」
「ああ……」
 テーブルに肘をついて考えごとをしていた博之は、うつむいたままぼんやりと答えて、そして気がついたように
「おはよう」
 振り返って、わずかに口の端を上げた。その兄の顔を見て、雅之は眉根を寄せた。
「寝てないの?」
「えっ? いや……寝たよ」
 ウソばっかり――博之の返事に雅之は小さく呟いて、
「ああ、おなかすいた。何か食べるものある?」
 ことさら明るい声を出した。
「鍋の中にシチューが入ってる」
「ふうん、いただき」
 雅之は台所に消え、博之は再び目を伏せる。


 そのシチューを紫と一緒に作ったのが、ほんの昨日のことだと言うのが信じられない。真剣な顔でジャガイモの皮を剥く紫の横顔が浮かんでくる。
『もうっ、博之さんが見るから――』
 赤く染めた頬を膨らませて睨んだ顔も、ひどくかわいらしかった。
 もう二度とあんな顔を見せてくれることはないのだろう。
 そう思うと、胸がヒリヒリと痛む。
「兄さん、これ、具は肉だけなの?」
 台所から雅之の声。
「他のは、溶けたんだろう……」
 ニンジンが嫌いだと言ったら、おかしそうに笑った。
『でも、そういうこと聞けて、何だか嬉しい。―――変?』
「紫……」
 組んだ手に額をあずけてその名を呼ぶ。閉じたまぶたの裏に映る顔。一晩中思い悩んだけれど、諦めきれない愛しい紫。


 チン、と、場違いなほど高い音が響いて、雅之が湯気の立つシチューの皿を持って来た。博之の向かいの席に座って、フウフウと大げさに冷ましながら食べ始める。
「美味しいよ」
「……そうか」
「兄さんも食べたら?」
「……後でな」
 気乗りしない返事に、雅之はカチャンとスプーンを置いた。
「もう……」
 唸ったきり黙っている弟に、
「どうした?」
 博之は顔を上げて、静かに尋ねた。雅之は、上目遣いで博之を睨んで叫んだ。
「どこがいいのさ、あんなアマちゃんっ」
 博之は、一瞬目を丸くして雅之を見返し、そして初めて雅之の顔をはっきりと見て微笑んだ。
「お前こそ、あんなヤツのどこがいいんだ?」
 雅之は顔をカッと赤くした。
「なあ、雅之。俺は、お前が英のことを恨んでいるんだと思ってた。あんな復讐計画なんか考えるくらい」
 雅之は唇を噛む。
「でも、昨日、アイツに一生覚えててもらえるのが嬉しい、って」
「やめてよ、兄さん」
「お前、まだ英のこと、好きなんだよな」
「やめてってばっ」
 声を荒げる雅之は、確かに泣きながら寝たに違いないウサギの目をしている。
 博之は、ポツリと言った。
「俺たちは、馬鹿だよ」
「…………」
「二人とも一番好きな相手を傷つけて――」
 そして、自分も傷ついている―――飲み込んだ言葉は、雅之にも伝わっている。
「しょうがないじゃないか」
 いつも強気の雅之には不似合いな、か細い声。
「見たでしょう。あの人は紫を追いかけて行った」
 あの後、二人がどうしたのか。雅之には嫌というほど想像がついた。 それは、真実ではなかったとしても、雅之に、英が完全に遠くに行ってしまったと思わせるには十分だった。
 けれども、博之は――
「それでいいのか?」
「兄さん?」
「それで、諦め切れるのか」
「何を言ってるの?」 
 博之は、真剣な瞳でまっすぐ雅之を見つめた。
「俺は、嫌だ」
 雅之は、目を見開いて兄の顔を見つめる。
「一晩中、考えた。お前のこと、英のこと、そして紫のこと。正直、さっきまで悩んでいた。お前のその顔を見るまで」
 博之の言葉に、雅之は黙ったまま。
「お前が本当に英を憎んでいるんなら、それで割り切ろうとも考えた。あの二人には、近づかない。けど、お前だって英のことを、口ではどう言ったところで、まだ諦めきれてないんだ。そして、俺も」
 博之は、静かに、そして力強く言った。
「紫が好きだ。英には、渡せない」
 雅之は、瞬間、泣きそうに顔を歪めた。
「そんなこと言ったって、もう」
「もう――何だ?」
「…………」
「俺は、紫にひどいことをした。だから謝りたい。だけど近付いた理由は別にして、紫のことは本当に好きだったってことを、伝えたい」
「……それで?」
「お前にも許してもらいたいんだ、雅之」
 何を? 雅之は、柳眉を不審気に寄せた。
「お前が、それこそ憎んでいるかも知れない紫と俺が、付き合うことになっても……」
「はっ」
 雅之は、吹き出した。
「馬鹿じゃないの。甘いなぁ、兄さん。こんな真似しといて、今さら『本当に好きでした』で許してもらえると思ってんの」
 露悪的に笑ってみせる雅之に、博之は微笑んで、手を伸ばし頭を撫ぜた。
「許してもらえるまでがんばろうって、決心したんだよ。いいか?」
 しばらく見つめ合った後、雅之は博之の手をそっと握って下ろした。
「僕は、やっぱりあのアマちゃんは、大嫌いだよ」
 立ち上がって、背中を向ける。
「僕の大好きな人を、全部奪っていく」
「雅之」
 背中を向けたまま、
「でも、兄さんが、英さんから紫を奪うって言うんなら、それは、ちょっと胸がすくかもね」
 言い捨てて、部屋を出て行った。
 天邪鬼な弟の許しの言葉に、博之は苦笑する。


 まだ、許してもらえるかどうかもわからない。
 英とのことも決着をつけないといけない。

 何も解決はしていないけれど、それでも自分の気持ちが固まって、博之は胸中の靄が晴れた気分だった。










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