「何?」
 紫が怯えた瞳で訊ねる。
「最初から、こうすればよかったんだ……」
 英はゆっくりと歩みよった。
 紫は逃げるように背を向けたが、狭いバスルームではすぐに捕まってしまい、英は紫の華奢な身体を背中からすっぽりと抱きしめた。湯をかぶってほんのり上気している紫の肌は滑らかでひどく気持ちがいい。英は、自分の乾いた肌に紫の肌が吸いつく感触を感動とともに味わった。
 紫の股間に手を伸ばすと
「やめて」
 紫が声をあげて抵抗する。
「しっ、大きな声を出すと聞こえる」
 耳元でたしなめた。すると
「あっ」
 耳朶をくすぐる囁きに紫の身体はピクリと震え、手の中に包んだものがわずかに反応を見せた。その感度の良さは英の心に嫉妬の火をつける。
(アイツがこんなにしたのか)
 英は、紫の顎をつかんで顔を自分の方に向けさせると、おもむろに唇を重ねた。
「んっ……」
 紫は苦しげに喉を反らして、英の腕に爪を立てた。抵抗したところで、力の差は歴然。英はかまわず、紫の舌を思う存分に蹂躙した。
(あっ、嫌だ……英さん、やめて……)
 紫が首を振ると、英の手は後頭部を押さえつけ、より深く舌を絡めてきつく吸い上げた。
「ん、くっ」
 苦しさに、紫の目尻から涙が糸をひいた。出ないと思っていた涙が一度溢れてしまうと、その後は堰を切ったようになって、紫は口づけられながら涙を流しつづける。
(嫌だ。あ…博之さん……)
 いつのまにか向き合わされた身体は、きつく抱きしめられている。紫の爪が英の肩に食い込む。散々口腔を弄っていた舌がピチャという音を立てて離れると、紫は激しく息を吸った。
「ふ…あっ…」
「紫」
 耳元で囁かれて、紫の身体は激しく反応した。愛する人と同じ声。
(博之さん)
 英の舌はそのままうなじを這い、鎖骨に口づける。頭を支えていた手は背中を抱き、そして空いた右手が紫の胸を滑る。
 胸の突起を押しつぶされて、
「やあっ」
 紫は小さく悲鳴を上げた。
 キスだけで立ち上がっていたそこは、紫の身体の中でも特に敏感なところ。きゅっと摘ままれると、全身の力が抜ける。
「あ…っ、いや、あ」
 紫がしゃがみこもうとすると、英も背中に廻していた腕の力を抜いた。紫はバスタブに背中を預けるようにして床にペタリと座った。その足の間に英が身体を割り込ませる。
「紫」
 英が囁くたびに、紫の腰がヒクッと痙攣する。
 紫はいつのまにか固く瞳を閉じていた。

「紫……愛している」
 胸の突起に口づけると、紫の手が英の頭を抱きしめた。まるで誘っているかのような動きに上目遣いに見上げると、紫は、白い喉を反らして、閉じたまぶたを震えさせている。長いまつ毛が揺れる。わずかに寄せられた眉。上気した頬。キスで赤くなった唇は薄く開かれ、そこから覗く舌先もひどく卑猥な表情に、英の胸が錐で刺されたように痛んだ。
(違う……)
 自分の知る紫ではない。
 無垢で汚れを知らないと思っていた紫が、いつの間にこんないやらしい表情(かお)を覚えたのか。
(アイツのせいか……)
思わず突起に歯を立てると、紫は悲鳴を上げた。
「あ、博之さん……」
 甘えた声が、名前を呼ぶ。
 英は、全身を強張らせた。
 目を閉じたままの紫の頬を叩く。
「あっ」
 紫はぼんやりと目を開けて、そこに博之ではなく英の顔を見つけて混乱した。
「あ…」
「博之じゃない」
 英の言葉は、冷たかった。
「アイツのことは、忘れろ」
 英にじっと見つめられて、
「う…っ、ふ……」
 バスルームの床にうずくまって、紫はポロポロと涙をこぼした。
「紫……」
 冷たく呼ぶ声は、それでも愛しいひとのそれとよく似ている。
「そん、な……簡単に、忘れ、ら……」
 嗚咽交じりに訴える紫に、英は胸を締め付けられた。
「うっ……」
「紫」
「博之さん…博之さ…ん…」
 紫は、肩を震わせて博之の名前を呼びつづける。
「紫、アイツは、お前のことを」
 復讐の道具にしたのだという英の言葉の続きを言わせず、
「嘘だ。博之さんは、そんな人じゃない」
 紫は大きくかぶりを振った。
「ばかっ」
 英は、紫を押し倒すと、貪るように全身に口づけた。
「やあっ」
 紫の白い肌に紅い痕が散る。
「止めて、嫌ぁ、ああっ……」
 泣きながら抵抗する紫に圧し掛かかって、英は紫の肌を何度も何度もきつく吸い上げた。








* * *


 母に手を引かれてやってきた君は、涙をいっぱいにためた瞳で僕を見あげて、ゆっくりと瞬きをした。
『英、紫ちゃん。今日からあなたの弟になるのよ。仲良くして、大切にしてあげてね』
 母がそっと君の手を僕に握らせた。その小さな手がきゅっと僕の指を握り締めたとき、僕は君を、一生大切にするのだと誓った。



 一生、大切に―――
(紫……)
 英は、机の引出しから、いつか紫から取り上げた百円ライターを出すと煙草に火をつけた。大きく吸って肺にためて、やりきれない思いとともに吐き出す。
 結局、紫にあれ以上のことを出来ず、英は部屋に戻った。
(できなかった……か)
 泣いていたから、紫が嫌がっていたから、だから出来なかったのだと思えれば、どんなにいいか。けれども最後まで出来なかったのは、そんな理由ではない。
(俺は……紫に欲情しなかった)
 あの時――紫の欲情に濡れた顔を見たときの、胸の痛みがよみがえる。
 あれは不快感と言ってもいいものだった。あるいは、喪失感。

 紫を愛している。それは、間違いない。
 けれども、紫は性愛の対象にはならない。

 紫が大切過ぎて、そうなのだと思っていた。
 しかし、結局のところは――
「俺にとって、紫は……本当に肉親になってた、ってことか……」
 呟いて、ほとんど吸っていない煙草の火を、灰皿代わりの空き缶のふちでもみ消した。

 弟なんかじゃないと思っていた。いつか恋人にするのだと思っていた。けれども、いざその時が来ると、身体が拒否した。ふと英は、自分自身を慰める時にも、紫を、下世話な言葉で言えば『オカズ』にすることは無かったのだと思い当たって、苦く笑った。
「紫……かわいい紫……」
 あの日、涙をためて自分を見つめた小さな顔。
『今日からあなたの弟になるのよ』
(俺の……かわいい弟……)


 翌朝、英はまだ眠っている紫のベッドの端に腰掛けて、そっと額にかかる髪をかきあげた。
「ん……」
 泣きながら眠ったため腫れぼったくなっているまぶたがゆっくりと開き、そして英の顔を認めて、瞳に怯えの色を宿した。
「悪かった」
 英の言葉をしばらく考える風に、紫は黙ったまま、赤い目でじっと見る。
「……昨日は、どうかしていた」
「英さん……」
 ホッとしたような掠れ声。
「もう、あんなことは二度としない」
 そう聞いて、紫は恥ずかしそうにコクンとうなずいた。
「もう一つ」
 英は、紫のパジャマの衿を赤い痕を隠すように直してやって、頭を下げた。
「俺のせいで、紫を傷つけてしまった。すまない」
 紫の顔が一瞬、苦しそうに歪む。けれども、すぐに元に戻って言った。
「もう、いいんだ」
「紫?」
「博之さんはそんな人じゃない。僕を傷つけるためだけに、優しくしたりしたんじゃない……そう思うんだけど、思いたいんだけど、でも……」
 布団の端を握り締め、
「やっぱり雅之くんの言ったことは本当なんだと思う。雅之くんに言われて、博之さんは僕に近づいたんだ」
「紫……」
「ずっと考えたんだ。そうしたらそういう結論になっちゃった」
 紫はきゅっと唇をかんで、そして微笑んだ。
「でもね、傷つけようとしたって言うなら、雅之くん、間違ってる」
 英は不思議そうな顔で、紫を見つめる。
「僕、こんなことでも博之さんとお付き合いできて、幸せだったから……だから、傷なんてついてない。これでお別れしてしまうのは、ちょっと辛いけど、本当なら付き合うことも無かった相手だって思ったら……」
 紫の声が詰まった。
「むしろ、いい思い出できた分、良かった…って……」
 目じりから涙が溢れて、糸を引いた。
「あ、ごめ…なさ…」
 紫は、涙を隠すように掛け布団を引きあげた。
「昨日…全部出したのに、ね……」
 布団にもぐりこんでしまった紫の背中を優しく撫でて、
「今日は、日曜だから、ゆっくり寝てろ。食事は、あとで持ってきてやるから」
 英は部屋を出て行った。


「英、昨日は帰り遅かったの? 紫ちゃんは泊りじゃなかったの?」
 母親澄子に尋ねられて、
「ああ、友だちのところで熱を出して……それで迎えに行ったんだ」
「あら、風邪? 大丈夫?」
「うん。大したことないよ。でも、今は寝てる」
「朝ごはん、お粥でもつくろうか」
「うん。でもまだ、後でいいよ。それか、置いといてくれたら、俺が温めて持っていく」
 英の返事に、澄子は笑った。
「本当に、英は紫ちゃんのことになると面倒見がいいわね。私が風邪でも、そんなに親切にはしてくれないくせに」 
「母さんが風邪のときは、紫が心配してるじゃないか」
「ああ、そうね。じゃあ、ひがまないでお粥を作りましょう」
 澄子は台所に行った。すぐに、鼻歌交じりにネギを刻む音が聞える。
英は昨夜のバスルームの騒ぎが聞かれていないことにホッとして、そして、改めて自分たちは家族なのだと意識した。

 英は、リビングのソファに深く腰掛け、目を閉じた。
 紫が、昨日ずっと考えたということを、当然、自分も考えた。紫はああ言ったが、今回のことは「誰が悪い」といったら「自分だ」とはっきり言える。後くされなく付き合った大勢の恋人たち。その一人のはずの雅之のしっぺ返し。復讐なんて言葉を使うくらい子どもなのだ、あの少年は。
 雅之の子猫のような顔が好きだった。気の強さも、仲が深まるにしたがって見せてくるわがままも、かわいいものだった。ただ、独占欲が強いのだけは、辟易した。
(傷つけて捨てたと言うつもりは無かったが……)
 夏休みの海でのことも、
『ここでキスしてくれないと、お友達のところに一緒について行くよ』
 あまりにしつこかったので、ムッとしながらキスをした。
(あれも、博之と謀っていたのか)
 親友だと思っていた男の顔が浮かんだ。
『僕、こんなことでも博之さんとお付き合いできて、幸せだったから』
(紫……)
 英は、目を開け、天井を睨んだ。
(悪いのは、俺でも……お前のことは許せない。そうだろう、博之)






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