おしゃべりして、キスして。
 ケーキ食べて、キスして。
 ほんの少しだけと舐めてみたアルコールに、紫の頬は上気して
「博之さん、お誕生日おめでとう」
 今日「好き」と同じくらい繰り返された言葉。
「何度目だよ」
「いいでしょ。言いたいんだから」
「こんなに祝ってもらえたのは初めてだな。今まで誕生日なんてどうでもいいと思ってた」
「どうでもよくないよ。博之さんが生まれなかったら、僕たちこうして会えなかったんだよ。僕にとっても特別な日」
「紫」
「毎年、こうして二人でお祝いしようね」
(毎年……)
 博之はその言葉を胸の中で噛み締めた。
 結局、何も言い出せないまま夜がふけていく。目の前の無垢な笑顔を一生失ってしまうのかと思うと、本当のことを話す決心がつかない。
 来年の誕生日を、自分はどう過ごすのだろう。
(一度でもこんな幸せな誕生日を過ごしてしまったら……)
「ね、博之さん」
 紫の瞳が誘うように揺れる。こらえきれない何度目かのキスを唇に落としたとき、ふいに玄関から物音がした。足音が響いて、突然部屋のドアが開く。
「紫っ」
 抱き合って身を寄せていた二人が振り返ると、そこには
「英?」
「英さん……」
 顔面蒼白にした英が立っていた。
 づかづかと乗り込んで、紫の腕を掴むと博之から引き離す。
「やめろ」
 止めようとした博之を
「うるさい」
 怒鳴りつけて、英は紫を引き摺るようにした。
「痛いっ」
 紫が悲鳴をあげる。
(何故、英が?)
 博之は一瞬、訳がわからず呆然としたが、英の後ろから部屋に入って来た雅之を見て声をあげた。
「雅之、お前」
「なんだ。まだ寝てなかったの。ちょっと早すぎたか」
 残念そうな口ぶりで言った雅之の、人差し指の先で銀色のハートのホルダーについた鍵がクルクルと回る。
「それは」
「ああ、この間、母さんに言って、貰ったんだ。兄さんの誕生日にビックリさせてあげたいからって」
 雅之は、ニッコリ微笑んだ。
「ビックリしたでしょ?」
 博之がカッとして雅之に掴みかかるのと、
「いやだ、離してっ」
「紫っ」
 叫び声と共に「パン!」という乾いた音が部屋に響いたのが、同時だった。
 振り返ると、紫が左の頬を押さえてうずくまっている。
「紫」
 駆け寄ろうとして、英に遮られる。
「近寄るな」
「英」
「俺に隠れて、一体どういうつもりだ」
 眦をつり上げた英に、博之が口を開こうとすると、
「博之さんは悪くない」
 殴られた左頬を真っ赤にして紫がキッと顔をあげた。英は怒りにまかせてもう一度手を振り上げる。それを博之が止め、そして、雅之の哄笑。
「あはははは……そうだよ、悪いのは英さん、あなただ。あなたのせいなんだよ、全部」
「何だって」
 三十分前に雅之からの電話で、紫が博之と寝ていると聞き、訳もわからず飛んで来た英。雅之が博之の弟だと知らされたのは、この家に着いてからだ。
「どういう意味だ。お前は、一体……」
「全部、あなたに復讐する為に、僕が考えたことだもの」
 雅之は引きつる頬で不自然に微笑んで、英を見つめた。
「親友だと思っていた男に最愛のお姫様を傷モノにされて、どんな気分?」
「な…」
「全部僕が仕組んだんだ。兄さんがあなたのいる白鳳に転校することがわかってからね。ねえ、不自然だと思わなかった? あなたとそっくりな考え方をする転校生なんて。本当の兄さんは、あなたとは全然違う。でも、僕が教えたんだよ。あなたの考え方。趣味も、好きなものも。あなたに近づいて親友ヅラする為にね」
 話しながら次第に頬を紅潮させて、なおも雅之はしゃべり続ける。
「同じクラスになれたのは偶然だけど、こんなにうまくいくなんてね。あなたは、兄さんのこと信じきって……笑っちゃう、海まで行ったりして。あの時、僕があそこにいたの偶然なんかじゃないよ。そして、すっかり騙されて、兄さんに大切な紫を取られたんだ。もう何度もセックスしてるってよ。どう? 大切すぎて手を出せないとか言ってる隙に」
「やめろ、雅之」
 叫んだのは、博之だった。
 紫は、ぼうっと雅之の言葉を聞いている。けれども、何を言っているのかわからないといった顔で、ペタリと座ったままフローリングの床を見つめている。
「兄さんは、僕があなたにされたみたいに、紫の心も身体も傷つけて、そしてあなたへの復讐にしようとしたんだ。英さん」
「もういい、雅之っ」
 博之の二度目の叫びに、紫はゆっくりと顔を上げた。ぼんやりと博之の顔を見る。二人の視線が絡んで、目をそらしたのは博之だった。


 瞬間、紫の中で何かが壊れる音がした。


「嘘だ」
 紫は弾かれたバネのように立ち上がると、部屋を飛び出した。
 英は、雅之の言葉に金縛りにあったように固まっていたが、それを見て慌てて後を追った。部屋を出て行きざま振り返って
「一生、許さない」
 雅之をギッと睨んで、呪いのような言葉を吐き捨てる。
 雅之は、その英の背中を見送りひときわ高く笑った。
「聞いた? 兄さん、一生許さないって……」
 博之は雅之を見て苦しげに眉根を寄せた。
「一生だって…あははは……」
 笑いながら涙を流し続ける弟の姿に、兄は胸を詰まらせる。
「嬉しい……ただ捨てられたんじゃない……一生覚えていてもらえるんだよ」
「雅之……」
 散々な誕生日プレゼントを怒る気持ちは、もう、博之の中から消えていた。
 弟もまた、英を本気で愛しているのだ。
「……ゴメンね……兄さん……」
 床にうずくまってポツリと言った雅之の背中をそっと撫ぜる。


 本当は、紫を追いかけたかった。
 追いかけて、嘘だと言いたかった。

 けれども、自分が雅之の計画に乗って紫に近づいたのは事実だ。
 自分を偽って、英に取り入ったことも。



 
 呆然と自分を見つめた紫の顔が頭から消えない。
(紫……)
 最悪の形で知らしてしまった。







* * *

 嘘だ。嘘だ。
 博之さんが、僕を騙していたなんて。
 英さんに復讐するために、僕に近づいたなんて。

 嘘だ。

 あのキスが偽物なんて。
 あの―――。



「お姫様?」
 すれ違った男にいきなり腕をつかまれて、紫は反射的に振り解こうとした。けれども、相手はより強い力で紫の細腕を捕らえる。
「こんな所で会えるなんて、偶然もいいところだな。赤い糸?」
 街灯の下で口元に薄笑いを浮かべているのは谷山だった。いつもの夜遊びの帰りらしい。
「そんな格好でどうしたんだよ」
 上着も着ずに飛び出した紫は、靴すら履いていない。
「襲われて、逃げてきたって感じだな」
 上から下まで舐めるように見られて、紫は嫌悪感に身体を震わせると激しく暴れた。
「いやだ、離して」
「何だよ。まるで俺が襲ってるみたいじゃねえか」
 両手で両手首を掴まれて、身動きを封じられた。その時、
「その手を離せ」
 よく知る声に、ハッと振り向くと、紫を追いかけてきた英が立っていた。
 紫の胸がズキンとうずいた。無意識に博之の声だと期待した自分を知る。
「またかよ」
 谷山は、露骨に嫌な顔をして紫の手を離した。白鳳学園の生徒会長を怒らせて得になるとは思っていない。不良とはいえ、谷山は馬鹿ではなかった。
「二度あることはって言うけど、三度目は誰が邪魔すんのかな」
 うんざりといった風に、両手を降参のポーズに軽く上げ、谷山はチラリと紫を見て、そのままさっさと歩き出した。
「じゃあな、そんなカッコじゃ、風邪ひくぜ」
 英はその後ろ姿をきつく睨みつけながら、紫の肩を抱いた。
「大丈夫か」
「…………」
 英は自分のジャケットを脱ぐと紫に着せ掛け、
「そこの通りでタクシーを拾うから」
 裸足の紫を抱き上げた。
「あっ」
「大人しくしていろ」
「……歩ける」
「怪我するといけない」
 それきり英は黙ってしまい、紫も何もいえなかった。紫の頭の中では、まだ雅之の声が繰り返されている。

『兄さんは、僕があなたにされたみたいに、紫の心も身体も傷つけて、そしてあなたへの復讐にしようとしたんだ。英さん』

 信じたくないけれど、それが本当だとしたら、英は雅之とつき合っていたのだ。あの写真の恋人たちのように。そして――――
(捨てた?)
 英がたくさんの恋人たちと、どんな付き合いをしてきたのかなどわからない。けれど、少なくとも、雅之は英を恨んでいて、それで博之を使って復讐しようとしたのだ。自分を傷つけることが英に対する復讐なのだといわれたことを思い出して、紫はふいに可笑しくなった。
(だったら、僕が今、こんな思いをしているのは、英さんのせいじゃないか)
 なのに、その男の胸にすがり付いて、傷ついた心を慰めてもらおうとしている。
 英がタクシーを止めて、紫をそっと後部座席に降ろした。
「お兄さん、病人かい?」
「ええ、なので、家まで急いでください」
 英が住所を告げると、運転手は心配する言葉をかけたが、二人とも返事をしなかった。バックミラーに映る二人が抱き合うように座っているのを、運転手は好奇心で何度も盗み見たが、話し掛けることは出来なかった。

 家につくと、英は紫をまっすぐバスルームへと連れて行った。
「お湯、張ったままだから。身体冷えてるから、温まるんだ」
「…………」
 紫は黙って従った。英がドアの外に消えてから、ぎこちない手つきで服を脱ぐ。指が悴んで上手くボタンを外せない。
 確かに身体も心も冷え切っている。お風呂に入って、ゆっくりと身体を伸ばしたら、少しは頭が働くだろうか。タクシーに乗ってから後、紫の頭の中は混乱していた。雅之のこと、英のこと、そして、博之のこと、自分のこと。何が正しいのか嘘なのか、誰が悪いのか誰も悪くないのか、どうしてこんなことになってしまったのか、考えるほど、わからなくなる。
 泣きたいのに、涙も出ない。
 最後に目をそらした博之の顔を思い浮かべると、胸が苦しくなって鼻の奥が痛くなるから泣けそうなのだけれど、何かが詰まったようになっていて、涙が出ない。
(涙も凍ってるのかな……)
 お湯を浴びると、冷えた身体にはその熱さが痛いほどだった。水でうめようかと思ったけれど、思い直してもう一度ゆっくりかぶった。少しずつ慣らしていけばいい。洗面器で三度目のお湯をすくった時に、背中でドアの開く音がして、紫はギクリと振り返った。

 裸の英がいた。
(英さん?)








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