「博之さん、料理するの?」 「いや。でも、何か一つくらい一緒に作ろうかと思って」 博之は、それまでレンジで温めるだけの惣菜を詰め込んでいた買い物かごの中に、肉と玉ねぎとジャガイモを入れた。 「カレー?」 「だとキャンプになるから、シチュー」 棚からシチューの素を二個取って入れる。 「作れるの?」 「うちの親が作ってるの見た。なんかただひたすら煮込んでるだけって感じだったから、今から火にかけたら夜食べられるだろ」 「すごい」 紫は目を丸くする。 「いや、すごいってな料理じゃなかった気がする」 「ううん、すごいよ。だって僕、何も作れないもん」 「まあ、食べられればね」 レジに向かおうとする博之に、 「ニンジンは?」 紫が尋ねると、博之はウエッという顔をして 「ニンジンはパス」 「えっ?」 きょとんと聞き返す紫に、笑い掛けて言う。 「俺、ニンジンと椎茸はダメ。あと、ナマコも納豆も」 「信じられない。博之さんが」 「好き嫌い多いわりに、デカくなっただろ」 「何でも食べそうなのに」 「あはは……」 紫も一緒に笑って 「でも、そういうこと聞けて、何だか嬉しい」 そう言ってから 「変?」 困ったような顔で博之を見上げる。 その顔がかわいらしすぎて、博之は、抱きしめたくなる衝動を抑えるのが苦しかった。 博之の家の台所で、紫はせっせと野菜を洗った。博之は鍋に水をコップで量りながら入れる。火にかけると同時に肉を投げ込むので紫は慌てた。 「肉、炒めるとか、しなくていいの?」 「火が通れば一緒だって」 そして、玉ねぎも表面の茶色の皮だけ剥いて、根っこの部分をちぎり取るとそのまま放り込んだ。 「切らないの?」 「どうせ溶けるんだよ。たしか」 「ええっ? うそ」 「ホント、ホント」 そしてジャガイモまでそのまま入れようとするので、紫は慌てて 「ジャガイモの皮は剥かないとダメって、実習で習った」 博之の手からそれを奪い取る。 「博之さん、ダイナミックすぎるよ」 「なるべく包丁使わないですむようにって思ったんだけど。大丈夫か?」 「やっぱり、僕が剥くの?」 上目使いで睨む紫に肩をすくめて見せると、プッと頬を膨らまして、それでもなんとかさまになる手つきで皮を剥き始めた。 よく見ると、目がものすごく真剣だ。 博之は、台所の椅子に座ってその横顔をじっと見つめた。 今日で終わらせよう。 そう決心した。 これ以上紫をだまし続けることはできない。 本当のことを言って許してもらえないかという甘い期待もした。 けれど――― 『自分だけ幸せになろうとするの?』 『僕だけ不幸にしておいて、自分は幸せになろうなんて……許さない』 『そんなことしたら、あの二人殺して、僕も死んでやる―――』 (雅之……) 必死の目をした弟の顔が浮かんでくる。 馬鹿なことをしたと思う。 傷ついた雅之があまりに哀れで、復讐などという子どもじみた考えに乗ってしまった。 雅之のシナリオにそって芝居して、英に気に入られ、そして、紫に近づき―――。 博之は、紫の横顔に胸を詰まらせた。小さな白い顔は横顔だとなおさら整った造詣を印象付ける。額から鼻にかけての優美な曲線。唇がほんの少し尖って薄く開いているのは、真剣な証拠。手もとをじっと見つめる瞳が瞬きするたびに、長いまつ毛が揺れている。 この少年を、いつからこんなに好きになってしまったのか。 (たぶん……初めて会ったときから……) 思わずシャッターを押したあの裏庭での出会いから、実は惹かれていたのだ。雅之の計画に乗ったふりをして、紫と過ごす時間はいつも心から楽しかった。 「紫」 思わずその名を口に出してしまうと、紫はキッと振り返った。 「もう、さっきから人の顔ジロジロ見てっ」 頬を赤く染めている。 「集中しようと思ったのに、博之さんが見るからできなかったよ」 台所の流しには、分厚い皮の破片が飛び散っている。 博之は立ち上がると、紫の華奢な身体を抱きしめた。 「あっ」 「紫……」 愛しさが優って、自分でも、どうにもならない衝動。博之は、腕に力をこめる。 「あ、危な、い……」 紫は、手にもっていた包丁とジャガイモを慌てて流しの中に落とす。 博之の唇が紫のそれに噛み付くように重なると 「んっ」 紫は、濡れた手で博之のセーターを掴んだ。 博之の舌が紫の口腔に押し入って、まだ怯えている舌を絡め取る。 「んぅ…」 紫は喉を反らして、指にきゅっと力を入れた。溺れるものがそうするように、博之の身体にしがみつく。博之は大きな手で紫の背中を慈しむように何度も撫でさすり、角度を変えて唇を貪った。 (紫……紫……) 博之の舌が、激しく蹂躙する。 「んっ、あ…まっ…」 紫が身体をよじった。唇を離して喘ぐ 「待って、博之さん……苦し…っ」 紫の囁きを飲み込むように、博之はもう一度唇を重ね、いつまでも紫を抱きしめた。 不意に鳴った電話の音で、博之は我に返った。腕の中の紫は、口づけだけでグッタリとしている。鳴り止まない電話のベルにそっと身体を離すと、紫はそのままずるずるとしゃがみこんでしまった。 「紫」 呼びかけると、恥ずかしいのか下を向いたまま 「デンワ」 掠れた声でポソリと言った。出ろということなのだろう。博之は、 「すぐ戻る」 そう言って台所を出た。 「はい、松浦です」 しつこいほどになり続けているベルに嫌な予感を覚えながら受話器を取ると、 「兄さん? 誕生日おめでとう」 予想した通り、雅之だった。 「紫、来てるんでしょう。二人だけの誕生日パーティー、楽しんでる?」 妙に明るい声が耳に障る。 「…………」 「せっかくだからいっぱい楽しんでよ。ごちそう並べて、プレゼントもらって。ケーキにろうそく立てて、明かり消して。そのまま、思いっきりアマい夜を迎えてね」 受話器の向こうでクスクス笑いながらしゃべり続ける雅之に、博之は黙ったまま。 「聞いてる? 兄さん」 「……雅之、俺は」 ようやく博之が口を開くと、 「兄さん、この間、僕が言ったこと覚えてるよね」 雅之はガラリと口調を変えた。低い声が囁く。 「紫に勝手に変なことしゃべらないでよ。言ったよね。僕の計画、だいなしにするようなことしたら、僕、キレちゃって何するかわからないよ」 「お前は、酷いことのできるヤツじゃない」 「できるよ」 切りつけるような短い返事。一瞬の沈黙のあと、雅之は静かに囁いた。「できるんだよ、兄さん……」 「雅之」 「楽しんでね。来年は無いんだから、思い出になる素敵な誕生日を」 唐突に切れた電話。 受話器を握り締めたまま、博之はしばらく動けなかった。 台所に戻ると、紫はまだペタリと床に座ったままだった。 「なんだ、そんなところにまだ座ってるのか」 博之が言うと、 「ひど…っ」 紫は赤い顔で睨んだ。誰のせいだと思っているの? という顔。 「ゴメン、悪かった」 紫の腕をとって立たせてやりながら、博之は謝った。 「紫のエプロン姿があんまりかわいかったんで、ちょっとサカってしまいマシタ。許してください」 「もう……」 紫はクスッと笑って、照れたように 「シチュー、ジャガイモもニンジンも無いのになっちゃうよ」 見れば、グラグラと沸騰している鍋には肉と玉ねぎしか入っていない。 「ジャガイモは欲しい」 博之は流しに放り出されている剥きかけのジャガイモを取り上げると、大きく四つに割った。割ったあとでまだ残っている皮を手早く剥いていく。 「あ、その方が早いね」 「だろ」 「だったら、最初から博之さんが剥けばよかったんだよ」 キスで赤くなった唇をかわいらしく尖らせる紫に、博之はおかしそうに笑う。 雅之の最後の台詞が頭をよぎる。 『楽しんでね。来年は無いんだから、思い出になる素敵な誕生日を』 シチューの鍋を弱火にかけて、二人はローテーブルの上に買ってきたご馳走を並べた。出来合いのオードブルでも、ケーキと並ぶと『いかにも』といった雰囲気になる。お酒は飲めない紫の為に、博之がオレンジジュースをグラスに注ぐ。紫はその博之の大きな筋張った手をうっとり見つめた。 「何?」 「ううん、手が大きいなって思って」 「何、今さら」 「だって、ペットボトルが小さく見える」 「ははあ、紫、これ片手で持てない?」 「持てます。ただ、重いから両手じゃないと危ないだけで」 「じゃ、両手でいいから、俺の注いで」 開けたばかりのお徳用1.5リットルペットボトルは、紫の手に余った。両手でしずしずと注ぐと、 「なんか、お酌されてるみたいだな」 博之は、笑った。 「お酌くらいするよ。博之さん、お誕生日だもん」 紫も笑って、そして「あっ」と立ち上がった。台所の椅子におきっぱなしにしていた大切なものを取りに行く。 「どうした」 見上げる博之のそばに、きちんと膝をそろえて座る。 「これ、お誕生日のプレゼント」 紙袋から綺麗にラッピングされた包みを出す。 「あ、ああ……」 博之は、受け取って 「開けるぞ」 「うん」 丁寧に包装紙をはがした。中から出てきた、高校生が持つにしては高級そうなマフラーに 「ワオ…なんか…フンパツさせた?」 目を丸くした。 「うふふ……」 紫はご満悦な表情で 「これね、雅之くんも一緒に選んでくれたんだよ」 瞬間、博之は自分の片頬が痙攣したのを感じた。 「僕がプレゼントを選んでいるときに、偶然会って」 (偶然……) 偶然などであるはずが無い。 博之は雅之の電話を思い出して、顔を強張らせた。 『僕、キレちゃって何するかわからないよ』 (あいつ、一体、何を考えている) 思わず目を閉じた博之に、 「博之さん?」 紫は不安そうな瞳を向けた。 「えっ? ああ、ゴメン」 謝られて余計に不安な顔になった紫に、博之は言い訳するように言った。 「アイツ、雅之、また何か変なこと言ったんじゃないかと思って」 「そんなこと」 紫は首を振った。 「雅之くん、この間のこと、謝ってくれた」 頬に血を上らせて 「僕と博之さんのこと、応援してくれるって」 うつむいて嬉しそうに口許をほころばした紫に、博之は何も言えず、プレゼントのマフラーをゆっくりと広げた。 柔らかな手触りと温もりは紫の肌を思わせる。 そっと紫の首に巻くと、 「博之さんのマフラーだよ?」 小首を傾げてきょとんとする。 鮮やかなマリンブルーは、紫の白い肌にも、とても似合った。 「どうせなら、紫の匂いつきにしたい」 「何、言って……」 恥ずかしそうに口ごもって、紫はマフラーに顎を埋めると、博之にきゅっと抱きついた。 その背中を抱きしめながら、博之は迷っていた。 本当のことを、どうやって告げるべきなのか。 いや、果たして……告げるべきなのかどうか。 |
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