「話す?」
 雅之が、猫科の動物を思わせる切れ長の瞳を見開いた。
「ああ」
「何言ってんの」
「もうおしまいにしたい。こんなこと」
「冗談でしょ、今さら」
 博之に呼び出された自宅近くの喫茶店。
 雅之は、向かいに座る兄の端正な顔をきつく睨んだ。
「兄さんは、僕のために何でもしてくれるんじゃなかったの」
「そのつもりだった。でも、英も紫も、お前が言っているようなヤツじゃなかった」
「何だよ、それ。僕が、嘘ついてるって?」
「そうじゃない。お前が、英を恨んでいる気持ちはわかる……でも……」
 博之が言葉に詰まると、
「でも? でも、何だよ。あの紫には罪はない? 情が移った?」
「頼む、雅之……俺は……」
「ダメだよ」
 雅之は壮絶な笑みを浮かべた。
「雅之」
「兄さんは、紫を傷つけて、そのことで英を傷つける……そういう約束でしょう」
 作った笑みはすぐに消え、紅茶のカップを持つ雅之の手がカタカタと震える。
「紫のこと夢中にさせて、心も身体も全部奪って、そして、相手が幸せの絶頂で一番浮かれている時に、容赦なく、捨ててやるんだ。立ち直れないくらい、ボロボロにしてやって…………この僕が、されたみたいにね」
 自分の指先が震えていることが悔しいように、雅之は両手を固く握りしめた。
 関節が白く浮き上がる。


 雅之が英に会ったのは、中学三年の秋。偶然、駅のホームで目があって、微笑んだ英に雅之は一目で恋に落ちた。ちょうど両親の離婚問題が深刻化していたときでもあり、英の美しさも優しさも、そして暖かい手も唇も、雅之の心を癒し、危ない薬のように誘惑して、夢中にさせた。

 雅之は、信じていた――英が自分の一生の恋人だと。



 しかし、真実はすぐに告げられた。
 英の一番は、自分じゃない。
 一緒に住んでいる従弟の紫―――穢れを知らない天使。

『あの子には、こんなこと出来ないんだ……大切すぎてね』

 なんて残酷な、ひどい男。
 その紫と同じ年の自分に、こんな淫らな真似までさせて。

『ひどい人』
『それが嫌なら、君とは付き合えない』
『いつか……罰があたりますよ』
 そう返した声は、自分のものとは思えないほど、固くしわがれていた。





「大体、兄さんが英に近づけたのは、僕のおかげでしょ。僕が、英の趣味や考え方なんかいちいち教えていたから。だから、今、親友ヅラしてそばに居られて、そしてあの従弟とも………」
 思いつめた顔で自分の両手を睨んでいる雅之に、博之は何も言えなかった。
「それなのに、自分だけ幸せになろうとするの? 全部話して、そして、許してもらって、正式にあのアマちゃんの恋人になろうって?」
 はっ、と雅之は笑った。
 悪ぶった笑いが、博之の胸をえぐる。

 こんな顔をする子じゃなかった。
 やんちゃで、ワガママで、生意気だったけれど、いつも何か楽しそうに笑っていて――。
 それが、泣きながら胸に飛び込んできた。
『許せない』と―――。

「許さないよ」
 雅之が、今度は自分に向かって言う。
「僕だけ不幸にしておいて、自分は幸せになろうなんて……許さない」
 あの日と同じ、涙をためた瞳がきつい光を放つ。
 博之は、大きく溜め息をついた。
「わかってる」
「兄さん?」
「自分だけ、幸せになんて思ってないさ。ちゃんと話して、紫とは別れる」
 穏やかに告げられた博之の言葉に、雅之は顔を強張らせた。
「これ以上、嘘は重ねたくない。これ以上、紫を傷つけるのも嫌だ」
「兄さん」
「英にもちゃんと話をして、お前に謝らせる」
「そんなこと、望んでないっ」
「雅之」
「計画は、そのままだよ。英には、最愛のお姫様が他の男に汚されたことを一番ショックな方法で知ってもらう」
 雅之は、言い捨てて立ち上がった。
「待て」
 博之の止める言葉も無視して出て行こうとした雅之だったが、
「兄さん、もしも、英や紫にしゃべったりしたら、本当に許さないよ」
 釘を刺すために、戻ってきた。
「そんなことしたら、あの二人殺して、僕も死んでやる」
「雅…」





* * *

 その数日後、雅之が、買い物をする紫を見つけることが出来たのは偶然ではない。
「あの子、あの店に入ってったよ」
「独りだった?」
「ああ」
 サングラスを胸ポケットにしまいながら雅之にうなずいたのは、天城(あまぎ)という、雅之の父親のアシスタントをしている修業中のカメラマンだ。フリーの仕事柄、時間も自由になるので、お気に入りの雅之に頼まれると興信所のまねごともやってのける。
「この間まで追っかけていたのの弟?」
「正確には従弟」
「似てないな」
「うん」
「今日は、写真はいいのか?」
 天城はニヤニヤと笑いながらタバコに火をつける。
 雅之は、その顔をひと睨みして、
「今日はいらない。撮って欲しいときは、そう言うから」
 紫がいるという店に入って行った。
 学校帰りの紫を天城に頼んで見張ってもらっていたのは、二人きりで話をしたかったから。
「紫」
 声をかけると、紫はひどく驚いて、手にしていた薄手のマフラーを落としてしまった。
「あ」
「あーあ」
 雅之はそれを拾い上げると、パンパンと軽く叩いて
「大丈夫、汚れてない」
 紫の見ていた棚に戻した。
「兄さんに、誕生日のプレゼント?」
 尋ねられても、紫はすぐには返事が出来なかった。
 突然現れた雅之に驚いているというのも勿論だが、自分が博之にプレゼントをするということが雅之には不快ではないかと考えてしまったためだ。紫のその表情に、雅之はフッと吹き出して言った。
「いやだな。苛められてる子犬みたいな顔しないでよ」
「えっ…あの」
「悪かったね。この間、僕が色々言ったりしたから」
 雅之は、棚の上からマリンブルーのマフラーを取って
「ねえ、兄さん、こういう色が似合うと思うよ」
 紫に手渡した。
「え?」
 きょとんとした紫に、雅之は微笑んだ。
「誤解してるかもしんないから、ちゃんと言っとくけど、僕は、紫が兄さんとつきあってること反対してないよ。むしろ、応援してる」
 意外な言葉に、紫はぼうっと雅之の顔を見返した。
「あの後、兄さんと気まずくなったんだって? 悪かったって思ってるんだ。僕としては、ちょっとからかっただけのつもりだったんだけど。ごめんね」
「え、い、いいえ」
 紫は頬を染めて首を振った。
 嫌われていると思っていた雅之から優しい言葉をもらって、舞い上がってしまう。
「ねえ、誕生日は、二人きりでお祝いするんでしょ」
 切れ長の綺麗な目を細める雅之に、
「あ、はい」
 今度は素直にコクンとうなずく。少しはにかんだ仕草が、とてもかわいらしい。
 雅之は、胸の中のどす黒い感情をおくびにも出さずに囁いた。
「わざわざ何か買わなくっても、紫が一晩一緒に過ごしてくれるならそれが最高のプレゼントだと思うよ」
 紫は真っ赤になってうつむく。
 雅之は、自分の復讐の日が近いことを感じて、内心ほくそえんだ。





 カウントダウン―――
 兄さんの言うとおり、さっさと終わらせてしまおう。
 もう十分、あの子は兄さんに夢中になっている。

 あの人に全てを知らせよう。

 あなたの大切なお姫様は、とっくに、他の男に汚されています。
 大事に育てて来たのにね。
 何より大切に守っていたのにね。

 自分のせいだと知って、あなたどうする?





 博之の誕生日は、初秋というのに風が強くてずいぶん肌寒く、紫は思い切って買ったカシミア混のマフラーがすぐにでも使ってもらえそうで嬉しかった。
 雅之にも一緒に選んでもらったそれは、高校生のお小遣いで買うには高価なもので、レジで包んでもらう間ずっとドキドキしていた。
「気に入ってくれるかな」
 雅之には、紫が選んだものなら「なんだって大喜びで受け取るよ」と言われたけれど、やっぱりつき合って初めての誕生日だから、本当に気に入ってもらえるものにしたい。マフラーの深い青色は二人で泳いだ海の色にも似ていて、紫もすぐに気に入ったもの。
 紙袋の中をもう一度確かめて、バス停までの道を急いだ。


 出かけに英に呼び止められたときには心臓が飛び出しそうになったけれど、今回は前もって準備していたから何とかごまかせた。
(川島くんやお姉さんには、申し訳なかったけど……)
 川島が英と電話で話をしたという次の日、紫は川島に怒られた。
「俺の名前を使うなら前もって言ってくれれば、絶対バレないように協力してやったのに」
 川島としては、自分の機転が利かなかったばかりに紫の嘘がばれたということが悔しかったらしい。知らされていなかったとはいえ、せっかく紫が自分を頼ってくれたというのに。だから今回の件を相談すると、一も二もなく
「よっし! 今度こそリベンジだ」
 川島は、張り切った。
「たまには過保護な源氏の君に内緒で羽根を伸ばしたい、ってのもわかるよ」
 自分も親に嘘をついて外泊することの多い川島だから、今回の紫のアリバイ作りには実に積極的に、そして用意周到に、協力してくれた。どこに泊まるとも言ってないのに、
「その日は俺の家でみんなで遊ぶことにしろよ。下手に『勉強します』なんて言うと嘘っぽいから、親も認めた子どもの集まりって感じの方がいいんだ。実際、うちってよくみんな呼んでるしね、そういうの好きでさぁ。何ならうちのアネキから紫の家に電話させてもいいぜ」
「あ、ありがとう」
 結局、川島の姉が伯母澄子に電話をしてくれた。一体どういう話になっているのかも、紫はよくわからなかったが、
「大丈夫。うちじゃよくあることだから」
「本当に?」
「俺、アネキと共同戦線張っててさ。アネキのアリバイ工作は、俺の役目なんだよ」
「そうなの」
 何だか心苦しくはあったけれど、博之の家に泊まれることになって、紫は単純に喜んだ。


 バスの窓から見える景色がよく知るものに変わって、機械のアナウンスが博之の家の停留所を告げる。紫は、プレゼントの袋を握り締めて駆け下りた。
「紫」
「博之さん。どうして」
バス停に立つ博之の姿に、紫は目を瞠った。家で待っていると思っていたのに。
「一緒に買い物しようと思って」
「時間、知らせてなかったのに」
「大体、これくらいかなって思ったよ」
 微笑む博之の右手にそっと指を伸ばして、握ってみたら冷たくなっている。
「冷たいよ。ずっと待ってたんでしょ?」
「かっこ悪いこと、言わせるなよ」
「そんな……かっこ悪いことじゃないよ」
 紫は、博之の手を両手で包んだ。博之はされるままにしていたが、
「さ、ごちそう買いに行こう」
 その手で紫の左手を握りなおして、歩き始めた。
「ケーキは買ってきたよ」
 プレゼントを入れてきた紙袋には、苺のケーキも入っている。
「さんきゅ。でも、ケーキは晩ごはんにはならないだろ」
「あ、うん……」
 晩ごはんという言葉に、紫は鼓動を早くする。
(本当に泊まるんだ)
 身体を重ねたことは何度もあっても、朝までずっと一緒にいたことはない。二人で一つのベッドに眠って目を覚ますというのは、どんな気持ちだろう。紫は、心臓が高鳴るのを抑え切れない。


 博之と紫が商店街で仲睦まじく買出しをしていたその頃、雅之は、誰もいない家でひとりソファに寝そべって、壁の時計を見ながら含み笑いで呟いていた。

「ハッピーバースディ、兄さん」

 カウントダウン―――









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