愛してる。 愛してる。 わかったの。 本当に愛しているのは、博之さん。 教えてくれて、ありがとう。 でも、これ以上好きにさせないで。おかしくなってしまうから。 * * * 「大丈夫か」 ひどく心配そうな声に、紫はゆっくりと目を開けた。辺りが暗いのは、もう日が落ちてしまったからか。家を出てきたのは午前中だったのに。身体を動かすと、下半身に痛みが走って、思わず呻き声が出た。 「大丈夫か?」 同じ台詞を繰り返して背中を支えてくれた恋人に、照れくさい笑みを贈る。 「ごめんなさい……」 「謝るのは俺だろう。無理させて」 「ううん」 紫は首を振って、博之の言葉を遮った。 「無理なんかしてない。僕……」 嬉しい…と小さく呟いて、博之の胸に顔を埋める。 途中で気を失ってしまったらしく、最後は覚えていないのだけれど、それでも胸いっぱいに満たされた想いに紫は喜びを噛み締めた。 「博之さん…」 名前を呼ぶと、ぎゅっと抱き締められた。 紫は、不意に泣きたくなった。 幸せすぎて涙が出るなんて、今まで誰も教えてくれなかった。 「ありがとう、博之さん」 そっと見上げてお礼を言うと、博之は不思議そうに、 「何?」 「僕のこと、好きになってくれて」 瞬間、博之はまるで泣きそうな表情をした。けれども、すぐにいつもの顔で 「バカ」 笑ってもう一度、紫を抱き締めた。 (紫……) 博之は、紫の頭を肩口に押し付けた。 今の自分の顔を見られないように。 「送って行くよ」 「うん……でも、バス停まででいいよ」 もうすぐ博之の母親の帰ってくる時間だといわれて、紫は身繕いを済ませた。身体は多少痛むけれど、歩けないほどではない。 「英さんに……」 言った方がいいのかどうか、戸惑う視線で尋ねると 「英には、まだ内緒にしてくれないか」 博之が言った。 「アイツは、親友だから……言うときは、俺の口から言いたい。でも、アイツ、紫のこと、本当に大切にしているから……許してもらえないかもしれない」 博之の言葉に、紫は不安そうに瞳を揺らした。博之は安心させるように微笑んで、紫の頭をクシャッと撫ぜた。 「許してもらえなくても、紫を諦めるなんてできない。でも……できれば、英にもわかってもらいたいから」 「博之さん」 「だから、もう少し待ってくれ。時期が来たら、俺からちゃんというから、まだ……」 「はい」 紫はコクンとうなずいた。 自分でも、英に告げるのは気がひける。英に大切にされているのはよくわかっている。それに、一時は本気で好きになりかけた相手だ。 (その親友と――) 恥ずかしくて、自分の口からなんてとても言えない。博之が自分に任せろというのなら、そうしてもらった方がいい。 「じゃあ、やっぱり今日はバス停までね」 小首を傾げて微笑むと、博之の唇が降りてきた。 そして、夏休みが終わって二学期が始まっても、二人の関係は秘密のまま続いた。 毎日の登下校も以前と変わらなかったが、紫はしばしば理由を作っては、英の目を逃れて博之の家に行った。英を騙しているという後ろめたさよりも、秘密の恋のときめきが大きい。博之の母親は、離婚後、以前務めていた会社にパートとして再就職したとのことで、学校が終わってすぐの博之の家には誰もいなく、二人は思う存分愛し合う時間が持てた。生まれて初めての激しい恋に、紫はすっかり夢中になっていた。 夏休み明けの試験の結果が出た日、紫は博之の家に向かっていた。その日は、三年生は校外模試で早く帰宅している。博之のおかげで、トップ5とはいかなかったものの、総合で学年七位という結果に、紫は浮かれていた。早く博之に知らせたい。 (そういえば、お礼するって言ってたんだ。どうしよう) まだ恋人同士になる前の話。つい二ヶ月前の話なのに、ずいぶん遠い日のことのよう。 (何にしようかな) もうすぐ博之の誕生日だということも思い出して、紫は口許を緩めた。 玄関の呼び鈴を押そうと指を延ばしかけたとき、突然、ドアが開いた。 「きゃ」 「あ…」 男にしては長い髪の華奢な少年。勝気そうな瞳が驚いたように見開かれ、そのままじっと紫を見つめる。 この目の前の少年には、見覚えがある。あの日、博之と言い争っていた。 (弟さん?) 今日も同じ場面に出くわしてしまったのか、その後ろから出てきた博之が、紫の顔を見ると気まずそうに眉を寄せた。 紫は自分が立ちふさがってしまっている事に気がついて、急いで一歩下がって道を空けた。けれども、弟、雅之は動かない。ゆっくりと観察するように紫を眺めると、後ろを向いて訊ねた。 「兄さん、この人、誰?」 博之は、一瞬、眉間のしわを深くして 「源紫くん。前に話したことあるだろ」 固い声で答えた。 「ああ、やっぱり」 雅之は紫に向き直ると、 「話は聞いてるよ。はじめまして。弟の雅之です」 ニッと笑った。 「あ、こ、こんにちは。はじめまして。源紫です。よろしくお願いします」 紫は慌てて頭を下げた。そして、 「僕も、博之さんから、雅之さんのことはうかがっています」 そう付け加えると、雅之の顔が面白そうに歪んだ。 「へえ、そう」 雅之は踵を返して、玄関の中に戻った。 「雅之?」 博之が訝しげに問うと、 「気が変わった。せっかく紫が遊びにきてくれたんだから、色々話しでもしよう」 履いていた靴を脱ぎ始める。 「雅之」 「いいでしょ。それともお邪魔かな」 雅之は、紫を振り向いて聞いた。 「いいえっ」 紫がブンブン首を横に振ると、 「よかった。一度話がしたかったんだよ」 雅之は、きれいな笑みを浮かべた。 雅之から聞いていた通り、兄弟なのに全然似ていない、どこか冷たく感じられる美貌の少年に、紫は何だかわからない不安な気持ちをかきたてられた。 「へえ、それじゃあ、今は伯父さんの家で暮らしてるの。従兄もいるんだ」 「はい」 「そういうのって、どうなの? 親戚っていっても、気を使うよね」 「いいえ――」 雅之の浴びせ掛けるような質問に、紫は礼儀正しく答えた。博之の弟なのだから、と自分に言い聞かせて。一方、雅之の方は、紫と同じ歳だと聞いているが全く遠慮がない。口調も慣れなれしいを通り越して、不躾。 「でも、やっぱり、本当の家族じゃないしね」 「雅之、よさないか。大体、ひとの家のことを根掘り葉掘り聞くんじゃない」 「いいじゃん。僕、紫のことよく知りたいんだモン。ね、紫」 初対面から呼び捨てにされ、紫は気後れする。 そんな紫を上目遣いに見ながら、雅之はまだ質問を続ける。 「その従兄って? どんな人?」 「え?」 「イジメられたりとかない?」 「あるわけないだろ」 「兄さんには、聞いてないよ」 口を挟んだ博之に雅之が唇を尖らす。紫は慌てて取り成した。 「あっ、いいえ、そんな、イジメなんて……むしろ、本当に大事にしてもらってます」 「そう」 「雅之、もういいだろう。紫は、俺に会いに来たんだから、お前はもう帰れ」 「なんだよ。邪魔者扱いするなよ」 雅之がふて腐れたように言ったその時、電話が鳴った。玄関に置いてあるそれを取るには、部屋を出て行かねばならないが、博之はすぐに動かなかった。 電話のベルは、しつこく鳴り続ける。 「兄さん、電話」 「わかってる」 渋々立ち上がった博之の背を見送って、雅之は苦笑して、 「僕が、紫をいじめるとか思ってンのかな」 ねえ、と紫を振り返る。そして綺麗な顔を紫に寄せると、突然、言った。 「兄さんと、もう、寝た?」 ドキッと心臓が跳ねて、紫の顔が真っ赤に染まった。それだけで、答えを言ったも同じ。 「ああ、そうなんだ」 肩をすくめて、雅之はクスクスと笑った。 「やっぱり。そうだよねえ。そうだと思ってたんだけれど。兄さん、本当のこと言わないから」 紫は、目の前の少年が恐ろしくなった。 (何だろう…嫌な感じ……) 雅之は、その紫の怯えた瞳を覗き込むように見つめる。 「兄さんのこと、好き?」 紫は、声も出せず、ただうなずいた。好きなのは本当だから。 「そう」 何がおかしいのか、雅之はクスクス笑いを止めない。 「……何ですか」 自分の気持ちをばかにされたような気になって、紫が思い切って口を開いたときに、博之が戻ってきた。雅之が、さっと立ち上がる。 「邪魔者は帰るよ」 「雅之?」 入れ違いに部屋を出ようとした雅之を、とっさに博之の腕が遮る。雅之は、それを振りほどいて、 「恋人と仲良くね」 意味深な視線を送る。 見交わす兄弟の視線が何を意味するのかなどと、紫が知るよしもない。けれども、雅之の言動に自分への悪意を感じ取った紫は、 (ひょっとして、僕が博之さんと付き合っているのが気に入らないのかな……) そう考えて、暗い気持ちになった。 「悪かった」 雅之が帰った後、博之はボソリと言った。 「ううん」 首を横に振っても、紫の表情は硬い。 「アイツのことは……気にしないでくれ」 博之の男らしい顔も、曇っている。 「僕、嫌われてるのかな。雅之くんに」 「え……」 「男のくせに、博之さんと付き合ってるから」 普通に考えたらそうだろうと紫は納得した。 「いや……」 博之は、言葉を濁した。はっきりとした否定でないのが、紫の胸を疼かせた。 「雅之くんが僕のこと嫌いでも、博之さんは、僕のこと好きでいてくれる?」 すがりつく紫の視線を、博之は真っ直ぐ受け止められなかった。フッと逃げるように逸らされた視線に、紫はひどく傷付いた。 「嘘……」 涙がジワリと溢れてくる。 「やっぱり……僕より、弟の……」 「違う。そうじゃない」 うつむいて細い肩を震わせた紫を抱き寄せる。 「そうじゃないんだ」 「博之さん」 「そうじゃなくて……」 呟きは誰に向かってのものなのか。博之は、じっと紫を抱き締めたまま、視線をさまよわせた。 結局その日、紫は、そのまま博之の家を出た。何か思い詰めたような博之とは会話も続かず、紫は、肝心の試験の結果も告げないまま、いつものバスに乗って帰った。 いつも博之の家に行くと必ず抱いてくれていたのに、それもなかった。はしたないとは思うけれど、不安になった気持ちが余計に身体のつながりを欲していたのに。 トクンと紫の心臓が鳴る。 「抱かれなかった」と考えたことで、抱かれているときの感覚をよみがえらせて。 (博之さん……) バスの窓に映る自分の顔が欲情しているのがわかって、紫はうつむいて瞳を閉じた。 「紫、どこに行っていたんだ」 家に帰ると、英が険しい顔をして待っていた。 「えっ? あ、あの、友だちの家、あの」 とっさに同級生の川島の名前を出そうかと思ったら、先に英が言った。 「川島くんから、電話があったよ」 「えっ」 思わず口許を押さえた紫に、英はゆっくり近づいた。 「この前、川島くんの家で宿題をして、ごちそうになったと言っていただろう」 紫は青ざめた。 四日前、博之の家で思わず長居をしていたら博之の母親が帰ってきて、夕飯をご馳走になってしまった。遅くなった言い訳に川島の名前を出してしまったのは、いつものこと。 (川島くんに、言ってなかった……) もともとアリバイ工作など得意ではない。 「お礼を言ったら、不思議がられたよ」 英は、不機嫌さを隠そうともせずに、紫に詰め寄った。 「誰のところに、行っていたんだ?」 |
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