待ち合わせの場所にいたのは、博之一人だった。
「あれ」
 英は左右を見て、誰もいないのを確認して訊いた。
「弟は?」
「それが、アイツ風邪ひいたらしくて。バカがひく夏風邪。腹こわしてて、外出られないってさ」
「そうなのか」
 意外にも、思った以上にがっかりした様子の英に
「俺一人でも、混ざって良かった? 三人じゃ嫌だ?」
 博之はふざけた調子で訊いた。
 英はフッと笑って
「いいよ、当たり前だろ。ただ、ちょっと、博之の弟ってのが見たかったんだよ」
「ああ……俺も、紹介したかったよ」
 二人の会話を聞きながら、紫はドキドキと高鳴る胸を静めようと努力していた。本当ならば、博之と二人で行くはずだった海。こうして三人で行くことは何だか後ろめたいような、それでもウキウキ浮き立つ気持ち。英に内緒の、博之と二人だけの秘密を思うと、落ちつかなくてくすぐったい。
「紫くん、久し振り」
 最近じゃ紫と呼び捨てだったのに、英の前では『君づけ』して呼ぶ博之に、紫は笑みをこらえてコクンとうなずいた。
「こんにちは、博之さん」
「元気だった? 山梨に行ってたって?」
「はい」
 ほんの少しよそよそしい会話にも、秘密を共有する甘い疼きを覚えて、紫は胸の前にかかえていたバックをギュッと抱き締めた。
 それを見た博之が
「すごい荷物だな」
 ちょっと驚いたように目をみはると
「弁当が入ってるんだよ」
 笑いながら、英が答えた。
「一昨日くらいから、あれ作ってこれ作って、ってうるさいの。今朝、親、五時起き」
「そんなこと言ってないよ。あ、でも…そんなに、早かったの?」
 朝、四人でも多すぎるほどのお弁当を差し出してくれた伯母の顔を思い出し、紫は申し訳なさそうに眉を寄せた。
「冗談だよ。せいぜい六時かな。紫を喜ばせようと思って張り切ったんだから、いいんだよ」
 英が紫の頭を撫ぜた。
 博之はそんな様子を微笑んでみている。
 紫は、博之の前で英に触れられるのが、何だか落ちつかない。
「クラゲ……」
「え?」
「いませんよね、まだ」
 紫の言葉に、英はいったい何を?という顔で軽く首をかしげ、博之はクスリと笑った。博之と紫がその瞬間、目で会話したのを、英は全く気づかなかった。



 日曜を避けたとはいえ、一家の主も夏休みを取る八月のド真ん中。千葉の海水浴場は、学生は勿論、大勢の家族連れでもにぎわっていた。
「紫くん、そんなもの着たまま海に入るのか」
 水着になってもTシャツを脱がない紫に、博之が尋ねた。
「あ、変ですか」
 正直、もう立派に大人の体型になっている英や博之の前に、自分の貧弱な身体を晒すのは恥ずかしい。濡らしてもいいように、浮き輪やお弁当といっしょに、海パンの上に着る大きなTシャツを持ってきた紫は、モジモジとTシャツの裾を引っ張った。
「変じゃ…ないが」
 口元に手をやり考える顔の博之。英が口を挟む。
「いいんだよ。紫は、焼けるとすぐ真っ赤になって、ひどいと火傷みたい になるんだから、あまり日にあてない方がいいんだ」
 博之は、英を振り返って
「他の男に見せたくないって?」
 耳元に口を寄せて囁いた。
「バァカ」
 英が博之を小突く。紫はきょとんと小首をかしげる。
「じゃあ、さっそくひと泳ぎするか、十二時になったら昼メシにしよう」



 ひと泳ぎといっても、紫は泳げない。浮き輪を膨らませては見たものの、結局波打ち際で足を濡らす程度。それでも浅瀬に座って波が腹や腰を打つの感じるのは楽しかった。波が引いていくときに、身体が砂に沈んでいく気がする。砂の中に手を潜らせて、ぎゅっと握って、指の間からはみ出していく濡れた砂の感触を面白がっていると、
「なんだ。泳げないのか」
 いつのまにか隣に立つ博之が、上から笑う。
「俺が、教えてやろうか」
「あいにく。……教えるなら俺がやるよ」
 博之と泳いで来たらしい英が、紫の隣に腰をおろす。
「なあ、紫」
 すると、博之は
「教えるなら、俺の方が上手いと思うぞ」
 紫にだけわかる言葉。紫は、胸がきゅっとした。
「まあ、それもメシ食ってからだな」
 博之が、眩しそうに空を見上げた。
「一時過ぎるくらいが一番売店混むから、今のうち、昼飯にしよう」
「売店? お弁当、たくさん持ってきたよ」
 泥をはらいながら立ち上がる紫に、
「カキ氷は持って来てないだろ? せっかく海に来たんなら、そういうのも楽しまないと」
 博之は、片目を瞑った。濡れた前髪もセクシーで、紫の心臓が跳ねた。慌てて、悟られないように、
「じゃあ、お昼用意する」
 紫は、自分たちの借りたパラソルに向かって駆け出した。




 あまりにもたくさんの量に、とても全部食べられないのではないかと心配した紫だったが、博之が軽く三人前は食べてくれた。
「お前の胃は、どうなってるんだ」
 英が呆れた声を出す。
「健康な高校男子なら、フツーでしょう」
 唐揚げを手づかみで食べて、油のついた親指をペロリと舐める。
「じゃあ、俺と紫は健康な高校男子じゃないと?」
「あははは……英はともかくね」
 紫を見て、
「紫くんは、もうちょっと食べたほうがいいな。筋肉、つかないぞ」
「紫に筋肉なんていらない。想像させないでくれ」
 英が心底嫌そうに言う。紫は、自分の二の腕を見た。
 隣に座る博之に比べたら、一回りどころか、二回り以上も細い。きれいに筋肉のついた博之の腕を盗み見て、羨望の溜め息を飲み込んだ。
「ほら、肉食べろよ」
「あ、はい」
「英も、ほら、肉」
「はいはい」
 英が素直に唐揚げを受け取って食べているのを見て、
(英さん、本当に博之さんのこと、好きなんだな)
 紫は、微笑んだ。
 完璧すぎて、友人たちにも一目置かれる立場の英に、こんな風に親しく振舞う相手は、今までいなかった。英が心を許しているということが、それだけ博之が立派な男なのだという証拠だ。紫は嬉しくなって、口元が緩むのを抑えきれなかった。
「何?」
「どうした?」
 二人に見つめられて、紫は、赤くなった。
「あ、あの、お弁当、おいしいねって……」
 自分でも、トンチンカンなこと言ったと思った。ぷっと吹き出されて、ますます赤くなる。
「こだわってたからな。弁当」
「いや、本当うまいよ。おばさんにヨロシク言って」
 二人から笑われても、紫は幸せな気持ちでいっぱいだった。
 博之が、ちらりと腕のダイバーウォッチを見た。
「あ、売店、もう混んでるかな」
「カキ氷か?」
「ああ、英、買ってきてくれない」
「はい? 何で、俺?」
「俺、腹いっぱいで動けねえんだもんよ」
 わざとらしく腹をさする博之。
「だったら、氷なんか食うな」
 眉間にしわを刻む英。
「あ、僕、買って来ます」
 紫が立ち上がろうとすると、
「いや」
「待て」
 二人が同時に言って、顔を見合わせ、クスッと笑った。
「ほら、お前が行かないと、紫くんが迷子になるぞ」
「しかたない」
 英が博之に手を差し出した。
「そのかわり、お前のオゴリ」
「ラジャー、ボス」
 海水浴用のナイロン製の財布を投げる。英は、パシッと片手で受けて
「ボスにパシリやらせるか」
 笑いながら、小さく見える売店の方に歩いていった。



 二人っきりになると、紫はそわそわし始めた。
「あ、あの……」
「うん?」
「この間は、ごめんなさい。その、急に約束キャンセルして」
「海なら、今、来てるじゃないか」
「あ、うん……でも」
「まあ、二人っきりじゃなかったのは、残念だけど」
「そっ…」
「冗談。英には言うなよ。アイツ、やきもち焼きだから」
 紫は、熱くなった頬に無意識に手をやって、
(冗談じゃなくてもいいのに)
 心で思った。

 二人して、紫が山梨に行っていた間の出来事などを話していたのだが、ふと気がつくと英の帰りが遅い。博之も、
「遅いな」
 ダイバーズウォッチを見て、
「こりゃ、ナンパでもされてんのかな」
 男らしい眉をふざけたように寄せて、紫を見た。
「ナンパ?」
 思わずオウム返しに呟いた紫だったが、その可能性は、十分あった。
 なにしろ三人でいたときから、大勢の水着の女の子たちが、チラチラとこっちを見ていたし、たった今でも、博之には熱い視線が注がれている。あの女子大生らしいグループは、今にも声をかけてきそうな感じ。

「だったらいつまでも待っててもしかたないし、俺たちも泳ぎに行こう」
 博之が立ち上がった。
「え? そんな、ダメですよ」
 買いに行かせておいて、いなくなるなんて。
 紫は焦って腰を浮かす。勿論引き止めるつもりでだ。けれども博之は、紫の腕を取って、浮き輪を拾い上げると、そのままズンズンと海の方に引っ張っていった。
「大丈夫。俺たちがいなかったら、海に入ってると思うよ。すぐ、追いかけてくる」
「でも、場所」
「さっき俺たちが泳いだ辺りなら、気が付いて来るよ」
「博之さん」
「ちょっとだけ、二人で泳ごう、紫」
「あ……」
『紫』と呼びかけられて、体温が二度も上がった気がした。博之に掴まれている腕が急に意識されてくる。触られているところが熱くて、チリチリと痛いようにも感じてしまうのは、日に焼けたせいだけじゃない。
「ほら、泳ぎ教えてやるから、それ脱げ」
「えっ」
「泳ぐのには、邪魔だって」
「あ、はい」
 女の子じゃあるまいし、ここでTシャツを脱ぐのを恥ずかしがったら、余計変に思われる。紫は、Tシャツを脱いで丸めた。博之は、それを取りあげると
「これで、英にも目印になるよ」
 広げて石で押さえるようにして置いた。
「目印に……」
 なるのかなと、怪しい気持ちで紫が頭をひねると、博之が笑った。
「ほら、行くぞ」
 紫の手を握って、走り出す。
「や、ちょ、っ……」
 博之に引きずられるようにして沖に向かって走る紫の足元で、バシャバシャと海水が跳ねる。
「待って……待って、転ぶ」
「大丈夫」
「ダメ、転ぶ」
 水が膝まで来て、走りにくいといったらない。
「ほら、走れ、走れ」
 それでも博之は、容赦なく紫を引っ張る。
「博之さんっ」
 いつのまにか腰まで海水に浸かって、紫が砂に足を取られてグラリとすると、博之はくるりと振り返った。
「きゃ」
 水の中によろけた紫を両手で支える。そのまま紫の両腕を取って、スイと引き寄せた。
「あ……」
「足つかないで。そのまま、俺に身体預けて」
 親が小さな子供に泳ぎを教える時のように、紫の手を引いて、後ろ向きに歩く。
「博之さん」
「じっとしてるだけで、ちゃんと浮くから」
 博之に言われて、硬くなりかけた身体をそっと伸ばす。確かに海水は、プールよりも浮きやすい。博之に引かれて水の中を移動するのは、泳いでいるようで気持ち良い。
「そんなに頭上げないで」
「でも、波」
 ときおり高くなる波に顔を叩かれるのが嫌だ。
「ああ、そうだな」
 博之は、紫の手を持ったまま、両手を自分の背中に廻した。紫の身体がぐんと前に進んで、頭が博之のみぞおちに触れそうになる。
「えっ?」
 顔を上げると
「俺の身体が、波よけになるだろ?」
 微笑まれて、紫はカッと熱くなった。真っ赤になったに違いない顔を隠して下を向くと、目の前に博之の引き締まった腹があり、目のやり場に困る。
(もう……何考えてるんだよ、僕……)

「ほら、自分でつかまって」
 博之が、紫の手を自分の肩に寄せた。
「へ?」
 気が付けば、博之の身体も肩まで海水に浸かっている。
「ち、ちょっと待って」
 自分より二十センチも背の高い博之がこうだとすると―――
「こ、こ、ここ、僕、足つかない……」
「うん」
「やだ、もどって……」
「足の届くところじゃ、練習にならない」
「嫌だ。本当に、僕、泳げないんです。戻って。浅いところ」
「俺がいるから、大丈夫だって」
「だって」
「だから、ほら、つかまってろよ」
「やっ」
 肩に回された手を、自ら博之の首に巻きつけた。すぐ近くに博之の顔。紫は、自分の心臓がうるさいくらいに鳴り出すのを聞いて、耳まで赤くなった。これ以上近づいたら、心臓の音を聞かれてしまう。
「お願い…戻ってください……」
 声を震わせる紫の耳元で、博之は、これ以上なく甘い声で囁く。
「俺がいる。だから、紫は安心してつかまっていればいいんだ」
「博之さん……」






 Tシャツを置いた場所に戻ってみると、紫の、これも置いてきてしまっていた浮き輪を枕がわりに、英が寝そべっていた。
「あ、英さん」
 紫の声に、憮然とした顔で起き上がる。
「悪いな。待ちくたびれて、先に遊んでた」
「ひとにカキ氷買いに行かせてね」
「なかなか戻ってこないからさ。ナンパでもされて、そっちについて行っちまったのかと」
 博之は、悪びれることなく白い歯を見せた。
「バカ言うな」
 英は、Tシャツを投げつける。博之は、それをひと払いして砂を落として、紫に渡した。紫は、何となく英の顔をまっすぐ見られずに、モソモソとそれに手を通す。
「二人で、何していたんだ?」
 英の問い詰めるような視線も、
「泳ぎの練習。紫くん、ずいぶん上達したよ。ねっ」
 博之は、にこやかにかわす。泳ぎの練習。紫には、とてもそれだけではなかったけれど、博之がそういうのだからそうなのだろう。
「うん……ありがとう、博之さん」
 そして、英に
「ごめんなさい……」
 色々な意味をこめて謝った。
「心配させないでくれ……」
 英の返事もまた、色々な意味がこもったものだった。
「カキ氷が無駄になってしまったよ」
「ああ。それにしても、本当に何で遅かったんだ」
 博之の問いかけに、英は不機嫌そうに眉をひそめてポツリと言った。
「偶然……知り合いに会ってね」
「……へえ」


 その後、機嫌の悪かった英に、紫は自分と博之のことが原因かとビクビクしたが、どうもそれだけではなかったらしい。売店で偶然会ったという相手が関係しているようだった。折しも、天候もあやしくなってきたので、
「雨が来る前に、帰ろう」
 博之の言葉に、帰り支度をした。

 英には、あまり楽しい思い出にはならなかったようだが、紫にとっては忘れられない海になった。




 帰りの電車で、疲れて眠る紫の耳に、心地よい甘い声が聴こえた。
「紫……愛してる……」
 耳によく馴染んだその声は、一体どちらの声なのか。

(どっちでもない……だって、二人とも、こんなこというはずないもん)
 夢だ。
 でも、夢の中でも、自分が聞きたいのは、誰の声?
 言ってほしいのは―――。


 まぶたの裏には、まだ波しぶきが舞っている。眩しい日差し。よく焼けたたくましい肩。自分の身体を支えてくれた頼もしく力強い腕。
(博之さん……)









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