夏休みに入っても、週に二日から三日、紫は博之の家に教科書と参考書そして宿題のプリントの束を持って訪ねて行った。博之は嫌な顔一つせず、自分の勉強を中断して紫の宿題を見てくれた。

「もう宿題はほとんど終わりだな。まだ休み半分残ってんのに」
「博之さんのおかげです。本当にありがとうございます」
 紫は深々と頭を下げた。博之には本当に感謝している。宿題をみてもらっただけじゃない。わからないところを丁寧に教えてもらって、紫は自分が前よりずっと、数学も英語もよくわかるようになったのを実感している。
「夏休み明けの試験が楽しみなんて、自分でも信じられない」
 思わず独り言のように呟くと、
「トップ10は間違いないな」 
 博之が言った。
「え、そんなに良くはならないでしょう。急に」
 紫は照れる。けれども同時に、ひょっとしたらそれくらい「いけるかも」と思う自分がいる。
「大丈夫だよ。紫は頭いい。理解早いし」
「そんなこと……」
 今までいつも英と比べていた紫は、自分の頭が良いなどと思ったこともなかった。こうして博之と勉強するまでは。
 博之の言葉に頬を赤く染めた紫に、
「トップ5に入ったら、お礼をもらおうかな」
 博之は、思わせぶりな口ぶりで言った。
「あ、はい」
 紫はすぐに返事した。
「あの、試験の結果とか関係なくても、お礼します。だって、専属で家庭教師してもらったようなものだし」
 真面目な顔で言うものだから、博之は困ったように笑った。
「いや、そんな風に言われたら、却って要求できなくなったな」
「何ですか? 何でも言って下さい」
「いいよ」
「よくないです」
 紫は博之に詰め寄った。その時、つい力を込めてローテーブルに手をついたら、折りたたみ式の足が内側に倒れ、
「きゃ…」
 テーブルが傾いだのと同時に、紫の身体も博之の方に倒れこんだ。
「っと」
 とっさに紫を支えた博之と、まるで抱き合うような格好になり、
「…………」
 二人はしばらく固まったまま見つめあった。


 紫は自分の心臓が、ゆっくりと奏で出すのを聞いた。次第に音が早くなる。腕を引くことも、目をそらすこともできない。ましてや、口を利くなんて―――。
 黙ったままの紫の耳に、
「大丈夫か」
 ひどく優しい声が聞こえた。大好きな英とよく似た少し低めの甘い声。
「足、しっかりはまってなかったんだな」
 紫をそっと押し返すように座らせて、博之は、ひしゃげたように倒れたローテーブルの足を元に戻した。
 カチッという音がやけにはっきりと耳に響いて、紫はたった今目が覚めたようにまばたきを繰り返した。
「ごめんなさい」
「いいよ。何で謝る」
 何事もなかったかのように、博之はテーブルの上の宿題のプリントを整え、教科書を重ねる。
 紫は、まだ騒いでいる心臓を気にしながら、やはり何でもなかった風を装って言った。
「お礼、本当に考えていてくださいね」
 博之は、参考書をパラパラと手の中でめくりながら
「海、行かないか」
 ポツリと言った。
「えっ?」
「今なら、まだクラゲも出ないだろうし」
 紫の顔を見ず、下を向いたままぶっきらぼうに言う。
「海?」
「いや、やっぱりいい。悪い。今のなし」
 博之は片手をあげて、紫を振り返った。
「お礼考えろとかいうから、何か調子にのったみたいだ」
「ま、待って」
 紫は慌てて、その手を押さえた。
 海に行くのがお礼になるのかどうか全然わからないが、せっかく博之が誘ってくれたのだ。
「行こう。海」
「マジ?」
「あ、行き、ましょう」
 慌てて敬語を忘れた。紫が言い直すと、博之がくしゃっと笑った。
「もう敬語、使わなくていいよ」

 それから二人で話し合って、三日後、本当ならまた勉強のために博之の家に来る予定だった日に、海に行くことにした。神奈川と千葉のどっちにするか悩んで、何となく混んでいなさそうな千葉の海にした。
「じゃあ、朝、駅で待ち合わせな」
「はいっ」
 紫は頬を輝かせてうなずいた。頭の中は、青い海と白い波、湧き上がる入道雲や眩しい太陽などのイメージでいっぱいになっている。
(お礼だから、お弁当持っていったほうがいいかなあ)
 伯母さんに何て言ってお願いしようかと、紫はウキウキと家に帰った。
 
 
 家に帰ると珍しく英が玄関まで迎えに出てきた。英の顔を見て紫はドキリとした。
 今の今まで英のことを忘れていたのが不思議。
「お帰り、紫」
「た、ただいま」
「待ってたんだよ。遅いから心配した」
「え…」
 まだ六時前、そんなに遅い時間ではないはずだ。
「図書館だって聞いたから、呼びにいったんだけど」
 英の言葉に背中がヒヤリとした。
「あ、あの、途中で飽きて、街に出て……」
 懸命に言い訳を探すと、英はあっさりとうなずいた。
「突然だけど、父さんが来週から仕事で中国に行くことになって」
「えっ?」
「だから、予定していたお墓参りを今週行くっていうから」
(あ……)
 紫の両親の墓は父方の実家の山梨にある。東京から日帰りできないこともないが、祖父母が楽しみにしているので、毎年お盆休みを利用して行って三日ほど泊まっている。
「今週、って……」
「急なんだけど、明日の夜に出るって」
 渋滞を避けて、いつも出発を夜にしていた。
「だから、紫にも早く伝えないとと思ってね。何か、予定入れてたか?」
 英の問い掛けに、紫は力なく首をふって
「ううん……何も……」
 ぼんやりと返事した。


 山梨に向かう車の中で、紫は博之の声を思い出していた。あの夜、一晩中悩んで、悩んでもどうしようもなくて、翌日、英に知られないようにそっと抜け出して、公衆電話から博之に告げた。
「そういうことなら、しょうがないよ」
 博之は笑ってくれたけれど、その声にどこかがっかりした響はなかっただろうか。いやむしろ、
(がっかりした声を、聞きたかった……)
 紫が楽しみにした海を、行けなくなって残念だと、博之にも思って欲しかった。
(博之さん……)
 海に行けないとわかったとき、信じられないくらい紫は落ち込んだ。
 両親のお墓参りは毎年大切にしている行事であり、山梨の祖父母に会うことも夏の楽しい計画の一つなのに、博之と一緒に行くはずだった海が遠くなったことに、思わず涙が出るほど悲しくなった。
「海なら、また今度、行けるさ」
 博之は言ったけれど、本当だろうか。その時「それじゃ、いつ」と決めてしまわなかったことが悔やまれる。山梨から戻ったころには、それこそ海にはクラゲがうようよいて、海水浴どころではないのではないか。
 高速道路の対向車線に光る赤いランプをぼうっと見つめながらそんなことを考えていると
「紫?」
 呼びかけられて、ピクンと身体を震わせた。
「酔ったか?」
 心配そうな英が顔を覗き込む。
「う、ううん」
 博之の声かと思った。
(何で……)
 今までは博之の声を聞いて、英とよく似ていると感じていた。博之の声に英を重ねていた。それが、今、英の声に博之を思い出す。
(僕……)
 ザワザワと胸が騒ぐ。この気持ちは、なんなのか。
 答えはわかっている気がするのだけれど、認めるのは怖い。
「どうした、紫」
 英の手が優しく前髪をかきあげる。ひやりとした感触に、紫は瞳を閉じた。
「眠い?」
「うん……」
「じゃあ肩貸すから、寄っかかれよ」
 英の手が紫の頭を引き寄せて、肩に乗せた。
 紫はその声にも博之を思い、そんな自分に罪悪感を覚えた。


 お墓参りがすんだ後のわずか二、三日が、紫にはとても焦れったく感じられた。今までは優しい祖父母に迎えられ、冷えたスイカを食べて、昼は英と二人で山を歩いたり、川をのぞいたり、夜には縁側で花火。そんな小さなことでも楽しく感じた田舎の夏休みだったのが、今年は早く東京に帰りたくてたまらない。そんな気持ちは、英にも伝わってしまったようで
「紫、どうしたんだ? 何かおかしいぞ」
 本気で心配されてしまった。
「べ、別に……」
「明日はダムの方まで行って釣りでもしようかと思ったんだけど、そんなんじゃ落っこちそうだし、危なっかしくて連れて行けないな」
「うん」
 紫がうなずくと、英は目を丸くした。
「冗談のつもりだったんだけど……本当に行きたくないのか?」
「あ…うん……」
 うつむいてしまうと、英は
「去年は、すごく喜んでいたじゃないか」
 まるで咎めるように言う。
「川遊び、好きだったろ?」
「……川より、海、行きたかった」
 心の中の呟きを、思わず声にしていた。
「海?」
 聞き返されて、紫はハッとした。
「ううん、ごめんなさい、何でもないの」
 慌てて否定しても、聞かれてしまったものは消せない。
「海に行きたいのか?」
「え、ううん。そうじゃ、な……」
 紫はどうしていいかわからず、口ごもる。
「山梨に海はないからなぁ」
 英は腕を組んでしばらく考えて、
「帰ったらすぐ、連れて行ってやるよ」
 紫を見て、ニッコリと微笑んだ。
(あ……違うのに……)
 そう思っても、口には出せない。
 どうしようと途方にくれた紫だったが、英の案で、思いがけなく嬉しい海水浴を楽しめることとなった。



「博之さんも?」
 思わず声がはしゃいでしまって、紫は慌てて自分を落ち着かせた。
「ああ、二人っきりで海っていうのも何だから。アイツにも弟がいるって言ってたから誘ったんだ。大勢の方が楽しいだろう」
「うん」
 遠慮がちながらも紫の瞳が輝くので、
「何だ。二人きりがいいとか言ってくれるかと思ったら、博之が行くのがやたら嬉しそうじゃないか」
 冗談ともつかない口調で英は紫の額を小突いた。
「だって、大勢の方が楽しいでしょう。海は」
 英の言葉をそのまま引用して、紫は昂ぶる気持ちを知られないよう、ごまかした。
「まあね」
「お弁当、おばさんに作ってもらおうね」
「ああ」
「おかずは何がいいかなあ」
「母さんが考えてくれるよ」
 子どものように無邪気に喜ぶ紫に、英は目を細める。
 英は、博之と紫が二人だけで何度も会っているなど、全く知らない。だから、紫の心の中に生まれている新しい恋心にも気づくはずがない。最愛の紫と親友の博之に裏切られる日がくることなど知るよしもない。

 そしてまた、紫自身も、これから自分の身に起こることを予想するなど、当然、できなかった。


 三人の関係は、ゆっくりと崩れていく。
  









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