「何でここでいきなり3が出てきたんだって、思ってるだろ」
「う、うん」
「この式を使ったからだ」
「ああ」
「数学なんて公式を暗記してたら、たいがいの問題は解ける」
「そうだよね、あ、ですよね」
 言い直しながら、うなずく紫に、
「嘘だよ」
 博之は、クスッと笑う。
「え?」
 鉛筆を握ったまま顔をあげると、博之の優しい瞳が見返してきた。
 放課後の教室。
 図書館じゃ話が出来ないからと、誰もいない教室に残って二人で勉強を始めた。まずは今回の試験で一番できなかった数学から。テスト範囲の問題集を広げて、もう一時間近くも、博之は、熱心に教えてくれている。
「肝心なのは、こういう問題を解くときはこの方程式を使うって暗記することじゃない。もともとの公式だって、それが発見されるまでの過程があるんだから、それをちゃんと理解しておかないとな。公式を頭のタンスにギュウギュウ詰め込んでるだけじゃ、肝心なときにどの引き出しを開けていいかわかんないだろ」
「はい」
 見つめる紫の瞳があまりに真剣で真っ直ぐなので、
「そういや、俺の親父のタンスがまさにそれでさ。何でもかんでもギュウギュウ突っ込んでて、肝心のときにアレが無いとかコレが無いとか」
 博之は、照れを隠してまぜかえした。
「なっ、こっちの式の展開は、中学で習ったのと変わらないだろ」
「はい」
 紫は、博之に数学を教わりながら、不思議な気持ちになってきた。中学の頃、こうやって英にも式の展開を教わったことがあるけれど、それよりずっとよくわかる。
「博之さんって、教えるのうまい?」
「ん? ああ、まあ、弟によく教えてたから」
「ああ、そうなんですね」
 自分と同い歳の、博之の弟の話は前にも聞いている。
「英は、教えるのは下手だろ?」
 博之は、親指と人差し指でシャープペンシルをクルクルと器用に回しながら訊ねた。
 紫が何と答えていいかためらっていると、博之は勝手に話を続ける。
「数学の成績は俺より英のほうがいいんだよ。アイツは、本当に頭がいい。だからこんな公式もキッチリ頭の中に入っていて、それがグチャグチャになるヤツのことがわからない。うちの母親が、片づけできない親父を理解できないのと同じでね」
 博之は母親の声色を真似て言った。
「何でこんな簡単なこともできないの? ってさ」
 紫は、コクリとうなずいた。
 英に教わることで気が引けるのは、まさにそれ。決して冷たい言い方では無いけれど「何でわからないかなぁ」と困った顔で微笑まれると、もうそれ以上聞けなくなってしまって、わかったふりをするのがやっと。
「わからなかったら、そのつど止めて聞いてくれよ。急がば回れってね」
 そう言って問題集のページを繰る博之を見ながら、紫は感激していた。
「ありがとう、博之さん。僕、がんばります」


 それでも、がんばって成績をあげたいのは、英のためだ。
 英に呆れられないように。馬鹿な子だって嫌われないように。

 紫の気持ちを知ってか知らずか、博之は大きくうなずいて、
「じゃあ、次はこれやろうか」
新しい問題を指した。





「紫? 今日は帰り遅かったんだって?」
 家に帰ってきた英は、ずっと前に戻っていると思っていた紫がついさっき帰ってきたのだと母親に聞いて、不思議そうな顔で訊ねてきた。
「博之が一緒に帰ったんじゃないのか」
「あ、う、ううん」
 紫は首を振った。
「ちょっと残って勉強していたの」
「勉強?」
「僕、期末試験の結果が悪くって」
 聞かれる前に自分から言ってしまえというのは、博之の意見。
 英に聞かれたら辛いとこぼしたら、そう言われた。
「その、試験のとき、ちょっと具合悪くって……」
 嘘をつく後ろめたさに、顔が熱くなる。けれども、馬鹿な子だと思われるよりはまし。
「それで調子が出なくて、今回、散々だったの。だから、残って勉強してた」
「誰と?」
 英の声に問い詰めるような色がにじむ。
「クラスの友だち。川島君。その子も、今回、ちょっと悪くって」
 紫は、心の中で川島に手を合わせる。
「そうか」
 英はちょっと安心したようにうなずいて、それでも釘をさした。
「帰りが遅くなると色々と危ないから、今度から勉強は家でするんだな。それなら、俺もみてやれるし」
 紫はあいまいにうなずいた。
 心の中で、今度は英に謝る。
(ごめんなさい。でも、僕、英さんに呆れられたくないんだ)
 博之に勉強を教えてもらうことは、秘密にすることにした。もし英が知ったら、どうして自分じゃなくて博之なのだと不快に思うだろう。間違っても教え方が上手じゃないからとか言えない。それに、英には『紫は頭が良い子だ』と思われていたい。
(変な質問をしても、博之さんは困った顔もしないし、笑わないでちゃんと答えてくれるし……)
「英さんも忙しいから、時々は川島君とかと一緒に勉強するかもしれない。えっと…他にも、みんな残ってたりするし……僕、あんまりクラスの子と一緒にいること無いから、そういうのも……」
 口ごもるのは博之に教えてもらった言い訳の嘘が後ろめたいから、けれども英は紫のひどく困ったような顔を見て、ふと考えた。
「そういえば、高校に入ってからは俺ベッタリだな」
 中学と高校、別々の学校だった時は、当然、今のように送り迎えもしなかった。家を出る時間も違っていたから。それが、紫が英のいる白鳳学園に入学して、姫などと呼ばれたりするものだから、突然危険を感じてしまって―――。
「悪かった。お前だって、クラスに友だちを作るべきだ」
 英はもともと、紫を大切にしたい、大事に育てて理想の少年に近づけたい、そう考えている。誰ひとり友だちがいないなんて、かわいそうだし、そもそも人としていかがなものか。
「川島君だっけ、知ってるよ。紫を送りに行った時、何度か会っているしね」
 気になる相手は、チェック済み。
「彼ならいいんじゃないか? 友だちとして」
「う…うん…」
 友だちにもお墨付きを与えないと気がすまない。英の過保護はますます酷くなっているのだが、あいにく二人とも気づいていない。
「じゃあ、放課後用事ができたときは、前もって言うんだぞ」
「はい」
 紫は、
(これで博之さんと勉強できる時間が作れる)
 心の中で呟いて、そして天使のような微笑を見せた。
「ありがとう。英さん」





* * *


 六時間目も終わったというのにまだ日は高く、教室の外ではうるさいくらいに蝉が鳴いている。博之は、その大合唱に、弟と一緒に虫取り網を振り回した遠い夏を思い出し、そういえばあの網も虫かごもいつの間になくなってしまったのだろうと、最後に使ったのはいつだったろうと、考えた。
 そこに、帰り支度をした英がやって来た。
「博之、今日この後、予定入ってるのか」
「え? ああ、今日はちょっと」
「ふられたか。博之にまで」
 博之の机に手をついて体重をあずけるように立つ姿も、嫌味なほどにキマっている。
(意識してやってるのか?)
 博之は口許を緩めた。
「何か?」
「いや。今日は、紫も用事があると言うから、帰りにお前とどこかに寄ろうかと思ったんだけど」
「それは身に余る幸せ。だったんだが、悪いな、今日は……」
「ああ、いいよ。特に俺も行きたいところがあって誘っているわけじゃないし」
「恋人のところにでも行けば」
「誰のことだよ?」
「ってくらい大勢いるんだよな」
 博之が呆れた顔を作って見せると、博之は苦笑した。

「暑いな。あと三日で夏休みか」
「ああ。博之は、本当に受験するのか?」
「うーん、わからない」
「三年になって白鳳に転入して来て、わざわざ外部受けるなんてお前くらいだ」
「そういうヤツがいてもいいだろ」
「俺は、お前と一緒に、うちの大学部に行きたいんだけどな」
 何気なくこぼした英の言葉に、博之の瞳の奥が一瞬かげった。けれども、それは英の気づくところではない。
「俺も、せっかくお近づきになれた源氏の君とは離れたくないな」
 ふざけたように言う博之に
「だったら、一緒に白鳳大に行こう」
 英は真剣に言った。博之はさり気ない仕草で目をそらして
「まあ、まだ時間はあるし、色々考えるさ」
「つれないな。今日はふられてばっかりだ」
 英はつまらなそうに机に腰掛けた。
「だから、慰めてもらえ」
「ああ、そうする」
 視線を宙に浮かせた英に、博之は、
(いったい誰を思い浮かべてる? 英)
 心の中で訊ねた。





「博之さん」
 バス停に設えられたわずかばかりの日陰を作る屋根の下で、紫は博之を待っていた。
「待たせたな」
「ううん。この一つ前のバスで来たばっかりです」
「でも、暑かったろ? さっさと家に行こう」


 前回の勉強会で、博之は紫を家に誘った。
 二人で勉強していることを英に内緒にしたいのなら、学校の教室で残ってやるというのは、
「すぐバレちゃうんじゃないの?」
 との言葉に、紫はほんの少し考え、
「そうですね」
 素直にうなずいた。
「うち、母親いるから、変なことはできないし」
 安心しろ、という博之に、紫は
「そんなこと心配していません」
 言ってしまってから、言葉の意味を考えてうろたえた。
「そんなことって、何だ? 何を心配しないって?」
 ニヤニヤ笑う博之に
「ひ、博之さんが変なこと言ったからです」
「変なことって?」
「だ、だから……ああ、もうっ」
 真っ赤になる紫を嬉しそうにからかいながら、博之は、裏門から少し歩いた先にあるバス停へ案内した。電車でも帰れるがバスも走っている。
「バスの方が少し時間がかかるけど、バス停に着いてから家までがすぐなんだ。うち駅からは遠いんだよ。自転車がないと」
 そして、博之の家での時間をかけての勉強会は、紫にとって面白いほど理解が進んだ。自分の頭がどんどん良くなるように感じるのは、ものすごい快感だった。

 だから、三回目のこの日を、紫はとても楽しみにしていた。
今日は、初めから博之の家の近くのバス停で待ち合わせをした。並んで帰るところを、英に見つからないため。
「今日、英に帰り誘われたよ」
「え? それで?」
「他に用があるからって断ったら、それだけだったけど」
「そうですか」
「悪いなって思う?」
「え?」
「英に嘘ついて」
 博之の言葉に、紫は戸惑うようにまつ毛を震わせた。
「僕は……」
「ダメだよ、そんな顔したら」
 うつむきかけた紫の頭を、博之の大きな手がクシャリと撫でる。
「秘密の特訓であっといわせたいだけだろ。英を」
「…………」
「大好きな英に、誉められるようにがんばるんだろ」
「博之さん」
「悪いことしているわけじゃないんだから、もっと堂々としてろよ」
 パンと紫の背中を叩いて、
「まあ、カマかけるよな質問した俺が悪いんだけどね」
 博之は明るく笑った。


「ただいま」
「お帰りなさい」
 博之が玄関を開けると、博之の母親が顔を出した。博之には似ていない、線の細い華奢な美人だ。けれどもその外見に似合わずかなり気が強いのだと、前回、博之が紫に囁いている。
「紫くん、いらっしゃい。今日は、紫くんが来るっていうから、アンジェリーナのケーキ買って来たのよ」
「え? あ、すみません」
 ペコリと頭を下げると、
「すぐ食べるわよね」
「頭使ってからだよ。なあ」
 博之が紫の背中を押す。
「あ、はい」
「もう。じゃあ、あとで持っていくわね。何時くらい?」
「一時間後」
「夕食前に、大丈夫?」
 母親らしい心配をすると、
「大丈夫か?」
 博之が紫の顔を見る。
「あ、はい。今日は、帰ってからだと七時過ぎちゃうから」
「だな」
 と、そこに電話が鳴った。
「あら」
 そばにいた母親が受話器を取り上げて
「雅之?」
 大きな声を出すと、紫の背中に当てられていた博之の手が一瞬ピクリとした。紫は博之を見上げた。博之の顔がこわばったように見えたのは、気のせいだろうか。
「元気? そう。もう夏休みでしょう。休みに入ったら家に来なさい。どうせあの人は出っ放しなんでしょう」
 はしゃいだ声を出す母親の声に、ゆっくり近づいて行く。博之は、それが自分あての電話だとわかっているようだった。
「ええ、ええ、待って」
 母親は博之を振り返って受話器を差し出した。
「博之、雅之よ。話が終わったら、もう一回代わって」
「ああ」
 電話を代わった博之は、ボソボソと話し始めた。
 ああとか、いやとか、そうかとか、不明瞭な会話に、ほんの少し訝しい気持ちになって紫は小首をかしげた。いつもの博之と何となく違う。
「今、人が来てるから……ああ…わかってる…じゃあな」
 すぐに電話の会話は終わって、博之は受話器を母親に返した。
「ひょっとして、弟さんですか?」
 紫が尋ねると、
「あ、ああ」
 博之は困った顔を隠しきれず、それを言い訳するようにペラペラと言葉をつないだ。
「ちょっと今、もめててね。いや、別に大したことじゃないんだ。ちょっと……。アイツもわがままなところがあるから」
 博之と対照的に弾んだ母親の声を聞きながら、二人は部屋に入った。
(すごく仲がいいって思ってたんだけど)
 紫は、博之から聞いた弟の話を思い出して、もう一度心の中で首をかしげた。










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