「紫ちゃん、入るわよ」 帰って来てから机に向かったものの、頬杖ついてぼんやりしていた紫は、はっと背筋を伸ばして振り返った。英の母親澄子がエプロン姿で部屋に入って来た。 「英から電話があってね。今日は、帰りが遅くなるから、紫ちゃんに先に夜ご飯食べててって。どうする? もう食べるなら、用意するわよ」 「遅く?」 「ええ。生徒会のお仕事が終わらないんですって。たかだか高校の生徒会なんて思ってたけど、けっこう大変なのねえ」 実際のところ『たかだか』などとは決して思ってなどいない。 澄子にとって、二期連続で名門白鳳学園の生徒会長を務める英は自慢の息子だ。 「そうですか」 紫は、英の帰りが遅くなるという言葉に胸がざわつくのを感じながら、 「期末で…もうすぐ、夏休みだし…色々あるんだと思います」 自分に言い聞かせるように言った。 「ああ、そうよね。もうすぐ夏休みね。その前に試験もあるんでしょう?」 澄子は、紫が机の上に広げていた教科書に目をやった。 「あ、はい」 「この間の、中間もがんばっていたものね。期末試験も、がんばって」 「はい」 紫は、きゅっと唇をかんでうなずいた。 澄子は決して勉強にうるさい母親ではない。ほっといても成績優秀な英にはもちろん、紫にも、学校の成績のことで何か言ったことなどない。だからこそ紫は、しっかり勉強してよい成績を取らないといけないと思っていた。英に嫌われたくないだけでなく、自分を育ててくれている伯父と伯母にとっても、良い子どもでいたい。そのための努力は惜しまないつもりだったけれど――。 「じゃあ、もう少ししたら呼ぶから、来てね」 「はい」 澄子が出て行った後、もう一度机に向かって、そして大きな溜め息をついた。 勉強に身が入らない。こうしていても、今、英がどこで何をしているのかが気になる。 (あんな写真、見たからだ) 誰の仕業かわからないけれど、ひどいいたずら。いや、いたずらと言うより悪意か。 英とその恋人たちの写真は、ビリビリに裂いて燃やしてしまっても、紫の脳裏から消えてはくれない。 それ以前にも、何となくだけれど気がついていた。英に誰か相手がいること。英のことが好きだからわかるのだ。それでも今までは、知らないふりもできた。見ず知らずの人に妬いてもしかたないと。けれど、あの写真を見て以来、色々な想像に悩まされて、こうして勉強しようと思っても集中できない。 (英さん……) 『英にも本当に愛されてるって感じだ』 博之の言葉が浮かぶ。 『……大切にしてもらっているって、わかってますから』 嘘じゃない。 英は、自分を大切にしてくれている。 それは間違いないけれど、恋愛の対象にはなれない。 紫には、それがひどく悲しくて、辛かった。 * * * 「もう、帰るの」 「ああ、思ったより、遅くなった」 「待って。送るから」 「けっこう」 冷たく断られて、少年はシャツに伸ばしかけた手をこわばらせた。 それに気がついて、声の主はフッと微笑んで言った。 「もう遅いから。君が外を歩き回る方が心配だよ」 「英さん」 「僕なら、大丈夫。君より、安全だ」 「でも、駅まで…」 甘えた声を出す少年に、英は頬を寄せて囁いた。 「また来るよ。楽しかったね」 「英さ…」 「じゃあ」 二度目は言わせず、英は部屋を出て行った。 マンションのエントランスを出て、三階の部屋を振り返ろうとしてやめた。 (カーテンの陰から覗いていそうだ) 英は早足で駅への道を急いだ。紫が待っている。こんなに遅くなっては、さすがに心配しているだろう。今日は学校の違う相手だったから、わざわざ隣の駅まで来ることになったのを後悔した。やっぱり学校で済ませられるほうが簡単でいい。 (しばらくこの駅に降りることはないな) 自動改札機にカードを通しながら英は心で呟いた。 「紫?」 そっとドアをあけると、紫は背中を向けて机にうつぶせていた。 近づいてみると、ノートを広げたまま、その上で眠っている。組んだ腕の上に右頬を乗せて、ほんの少し眉根を寄せた顔。デスクライトに照らされて、長いまつ毛がくっきりと影を落としている。 (こんなところで寝て……) 起こそうとして、その手を止めた。しばらく紫の寝顔を見ていたい。そのあどけない顔に、胸が締め付けられる思いがした。 英にとって紫は、手折ってはいけない花だった。七歳の紫を前にして誓った、一生大切にするのだという想いは、年々自分の中で大きくなって、自分を縛り付ける。 素直で、かわいらしくて、純真な紫。 愛しすぎて、性欲の対象になどとてもできない。光源氏は紫の上を理想の恋人に育てたけれど、自分は紫が理想の姿に近づけば近づくほど、邪な気持ちを持てない。 この天使を汚す者は、例え自分でも許せない。 大勢の恋人と関係を持ちながら、本当に愛しているのは紫ひとり。 「ひどい人」 「それが嫌なら、君とは付き合えない」 「いつか罰があたりますよ」 そう言ったのは、誰だった? 紫の前髪をすくうように、人差し指でそっと触れる。 「ん……」 長いまつ毛が震えて、ゆっくりと開いた。 「あ……英さん」 寝ぼけたような、焦点のはっきりしない瞳。 「おかえりなさい」 「ただいま。こんなところで寝たら、風邪をひくぞ」 「ごめんなさい」 握った拳の背中で目をこする、無防備な顔。 抱き締めたいけれど、手が出せない。 「ほら、寝るならベッドに入れ。宿題は、ちゃんとやったのか」 「うん、大丈夫」 「博之が、迎えに行っただろ?」 「……うん」 「何か、あった?」 「何も」 「そうか」 「……遅かったね」 「ああ、ちょっと立て込んでしまってね」 「……そう」 「どうした?」 「ううん、もう……眠い……寝ます」 「おやすみ」 「おやすみなさい。英さん」 * * * 七月の第一週には期末試験があって、それが終わるとあっという間に夏休みがやって来る。試験の結果を受け取った紫は、小さく溜め息を吐いた。英のことが気になって集中できないまま受けた試験は、予想通り中間試験よりも下がっていた。 (こんな順位、恥ずかしくて見せられない……) 学年二百人中、五十位というのは、決してひどいというほどの成績ではないが、常にトップの英からみれば悲惨なものだろう。 放課後が来るのが、憂鬱だ。英は、きっと試験のことを聞くだろう。 (英さんのせいなのに) 紫は内心、呟いた。八つ当たりだとはわかっている。けれども、英が自分以外の大勢と付き合ったりしているから気になって、それで自分の成績が落ちてしまって、その結果、英に呆れられたり嫌われたりするというのは、紫にとって納得いかない悪循環だ。 「そう、英さんが悪いんだ」 つい小声で口に出してしまったときに、 「何が?」 頭の上から英の声が降ってきて、紫はひどく慌てた。 顔をあげると、英ではなく博之だった。 「お、おどかさないでください」 「おどかしたつもりはなかったけど、ゴメン」 博之は、おかしそうに眉を上げて言った。 昼休みの教室は、ほとんどの生徒が外に出ていて、紫の他には二、三人しか残ってなかったので、博之が入ってきても誰も騒がず、わからなかったのだ。 「声をかける前に、聞こえちゃったんでね。何が英のせいなんだ?」 「何でもないです」 紫は手に持っていた結果票をポケットにねじ込んだ。 「試験か?」 目ざとくそれを見た博之が聞くと 「もう。博之さんには、関係ないですから」 紫は、赤くした頬を膨らませた。 一緒に帰ったあの日以来、博之とは英抜きでも気安く話せるようになっている。むしろ最近では、紫にとって、大好きでそれゆえ少し緊張する従兄よりも、話しやすい相手といえた。 「下がったのか」 「関係ないって言ってるじゃないですか」 紫の声が、泣きそうになる。英と同じ声でそんな風に言われると、胸にズキンと来る。 「そりゃ関係ないけど、よかったら、勉強みてやるくらいできるぜ」 博之は、紫の前の椅子に後ろ向きに座ると、紫の赤くなった顔を覗き込む。博之は、英が親友と呼ぶに相応しい成績で、国語、英語、世界史などいくつかの教科では英を抜いて学年トップだった。 「まあ、英がいるから、俺の出る幕じゃないだろうけど。でも、アイツも、生徒会なんかで忙しいからな」 「……」 紫はうつむいて考えた。 英は確かに忙しい。忙しいから、勉強をみて欲しいといえない、それもある。けれど、それ以上に、英に教えてもらうということは、自分が『こんなことも知らない』馬鹿だと英に告げることのような気がして、はばかられていた。 「そうそう、今日も生徒会の打ち合わせで一緒に帰れないっていうから、それを伝えに来たんだ」 「え? そうなんですか」 「ああ、だから、俺が一緒にって思ったんだけど、何なら、アイツの終わるのを待ちながら勉強するか」 「いいんですか?」 「俺も受験生だし、一年の復習するのは勉強になる」 「受験するの?」 白鳳学園は大学までエスカレーター式の名門校だ。校内での成績が博之ほどよければ、わざわざ受験などしなくてもいいのに。と、紫は驚いて、敬語も忘れた声をあげた。 「まあ、色々考えててね。場合によっちゃ、外を受けるかもしれないし。どっちでも行けるようにしておくのさ」 「すごいですね」 「すごかないよ。ただ、私立の学費が高すぎて払えないって、脅されててね」 「そうなんですか」 紫は、いけないことを聞いてしまった思いで、眉を寄せて博之を見つめた。 「そんな悲痛な顔するなよ。冗談だから」 博之は、プッと吹き出した。 「冗談なんですか」 むっと唇を尖らせる。心配したのに。 けれども、ここの学費が高いのは事実だ。何も考えずに英と同じ学校に入ったけれど、 (僕も、甘えてちゃダメだ) 大学は、外部を受験して学費の安い国公立に行ったほうがいいのかもしれない。そうでなくても、このまま白鳳に通わせてもらえるというなら尚更、ちゃんとした成績を取らないと申し訳ない。そんな気持ちで、紫は博之に言った。 「勉強、見てもらってもいいですか?」 「ああ、いいよ。もちろん」 紫の机に頬杖をついた博之は、ニッコリと笑った。 |
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