「紫くん」
 博之が姿を現すと、教室がざわりと揺れた。
「博之さん?」
「英が生徒会の仕事で帰れなくなって、代理」
「え?」
「ダメ? 俺じゃ不服かな」
 一年の教室に、躊躇せず入ってくる。
 まだ帰らずに残っていた生徒たちはその長身を見上げて思わず知らず溜め息をついた。紫は、鞄を持って立ち上がった。
「いいえ。でも、それでしたら、ひとりで帰れますよ?」
「それは困るよ、英に頼まれたんだから」
 さりげなく、紫の鞄を取り上げる。
「あ、自分で持てます」
「うん。そこまで、ね。逃げられないように」
 博之は笑って踵を返した。紫は慌ててその後ろを追いかける。
「逃げませんから、鞄、返してください」
「ああ、そうだな」
 校舎を出たところで「はい」と差し出されたそれを受け取りながら、紫は、博之に初めて会ったときのことを思い出した。あの時は、フイルムを返してくれと言ったのだった。あれから、もう一ヶ月近く経つ。博之はいつのまにか英ととても親しくなっていて、登下校が一緒になることもしばしばだったけれど、こうして二人で帰るのは初めてだ。何だか緊張して、紫は話題を探した。
「あ、あの」
「ん?」
「カメラ……」
 共通の話題を探ると、どうしてもあの日の話になってしまう。
「あの、初めて会ったとき、カメラ持って来てましたよね。あんな立派なの、どうして学校に?」
「ああ、あれね。俺、前の学校では写真部だったんだよ」
「写真部?」
「ああ、親父がカメラマンだったんだ。その影響で、子供の頃から写真好きでさ」
「そうだったんですか」
 うなずいてから『だった』という表現に、
「お父さんって……」
 言いかけて、やっぱり聞くべきではないと言葉を飲み込んだ。
 博之はそれを察して、明るく言った。
「ああ、悪い。誤解させてしまったな。親父は元気だよ。カメラも続けてるし」
「あ」
 そうなんだとホッとしたのもつかの間、
「だった、って言うのは『親父だった』って意味。うち、両親が離婚しててね。俺は母親の方についたんだ。だから、つい変な言い方して。悪かった」
「そんな、博之さんが謝ることじゃないです」
 紫は慌てた。どっちにしても言い辛い話だったのだ。
「僕こそ、ごめんなさい」
「何で? 別に隠してることじゃないし。俺が転校してきたのも、母親の実家の近くに住むことになったからさ。まあ、もともと住んでた所も隣みたいなもんだけど」
「そうなんですか。……知らなかった」
「隠してもいないけど、わざわざする話でもないしな」
 博之は、うつむいた紫の肩をポンと叩いた。
「そんな顔するなよ。話、変える?」
「あ、いえ」
 紫は赤くなった。自分が話題を探していたことがばれているようで恥ずかしくなった。
「紫くんって、かわいいね」
「えっ?」
 あまりにも変わってしまった話題に、心臓がドキッと鳴った。
「英にも本当に愛されてるって感じだ」
「…………」
 照れてしまった紫が黙っていると、
「否定しないんだね」
 クスと博之は笑った。
「あ、いいえ、そんな」
「過保護すぎてうっとうしくなったりしない? あ、英には言わないでくれよ」
 しまった、と、わざとらしく口許を押さえた博之に、紫は小さく笑って、
「うっとうしいなんて……大切にしてもらっているって、わかってますから」
 頬を染めて、はにかんだ。
「そう……うらやましいな」
「えっ?」
「ああ、いや。俺にも弟がいてね。父親の方に引き取られてるんだ。二つ違いで、紫くんと同じ歳」
「そうなんですか」
 うまく言葉が見つからないで、やっぱり黙ってしまう紫に、
「ゴメン、また話を戻してるよな、俺。英と紫くんが仲いいから、つい思い出してね」
「弟さんと、仲よかったんですね」
「ああ、英ほどじゃないけれどね、猫っかわいがりしてたよ」
 見えない猫の頭を撫で回す博之に、紫はクスクスと笑った。
「どんな感じの人なんだろう。博之さんに似ていますか?」
「全然。俺は親父似なんだけど、弟は母親の方に似ていてね。性格も、甘ったれで、気が強くて、わがまま」
「そんな……」
「でも、まあ、かわいいんだよ。たった一人の弟だからね」
「会えないと、寂しいですね」
「いや、会おうと思えば会えるよ。ただ、一緒に暮らしてないってだけでね」
「ああ、そうですよね」
「俺の話しても、つまらないな。紫くんのことも聞かせてよ」
「え? 何も話すことないですよ」
「好きなものとか、こととか、人とか」
「ええ?」


 話し上手な博之のリードで、その後、思いのほか会話が弾んだ。英以外の上級生とこれほど親しく話したのは初めてで、紫は何だか不思議な気持ちになって、ポツリと言った。
「やっぱり、英さんと似ているから話しやすいのかな」
「似てる?」
「はい。あ、あの声が……」
「声?」
「誰かに言われませんでしたか?」
「さあ……ああ、言われたこともあったかな。自分では特に似ているとは思わないけど」
「自分で聞くのと、人が聞くのと違うんですよ」
「そうなんだ?」
「ほら、留守番電話に入れた自分の声って違って聞こえるでしょう? あとビデオに撮ったときとか」
「ああ」
「人が聞いているのは、そっちの声なんですよ」
「そうか、そしたら、俺の声って紫くんには英とそっくりに聞こえてるんだね」
「ええ」
 紫が微笑んでうなずくと、博之は突然身体を折り曲げて、紫の耳元に唇を寄せた。
「紫」
 唇が耳に触れるほど近くでいきなり囁かれて、紫は心臓を跳ね上げ、カッと顔に血を上らせた。
「な、なん…」
「似てた?」
 博之がおかしそうに笑う。紫は博之の吐息のかかった右の耳を押さえて、口をパクパクさせる。
「何か言って欲しい台詞があったら、言ってあげるよ。ほら、英が言わなさそうなこととか」
「な、そんな、そんなの」
 心臓がバクバクする。
「ふざけないで下さい」
 紫は家に着くまで赤くなったままで、博之はその愛らしい横顔を眺めて薄く笑った。









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