本当は、前から知っていた。
 気がつかないふりをしていただけ。
 何も知らないふりをしていただけ。

 だって、知りたくなかったから。
 英さんは、僕だけの英さんでいてほしかったから。





* * *


 教室を飛び出してしまった紫は、まだ遅刻ギリギリの生徒が駆け込んでくる正門の方には行きづらく、自然と裏庭へ続く道を選んだ。
 白鳳学園は、都内にしては珍しい広大な敷地を持った学園で、裏庭と言っても正規のグラウンド以上に広い。銀杏や欅、桜などの樹がよく計算されて植えられ、遊歩道も整えられたそこは、校舎から離れるにしたがってまるで森のように緑を深くする。大多数の真面目な生徒にとっては勉強の合間の息抜きに、そして少数の真面目でない生徒にとっては授業をサボって隠れるのに絶好の場所だった。
 もちろん紫は、今まで一度も授業をサボったことなどない。入学して以来、裏庭を歩いたのは昼休みか放課後の二、三度だけだ。だから、午前の陽が緑の影を落とす初夏の森の清々しさは今日初めて経験するものだったが、残念ながら今の紫には、それを気持ちよいと思える余裕は無かった。
 胸に抱き締めていた鞄をそっと開いて、封筒を取り出す。周りに誰もいないことを確かめて、もう一度ゆっくりと写真を見た。四枚、五枚。わざわざ大きく引き伸ばされたそれは、英と見知らぬ男子生徒が抱き合っていたり、顔を寄せ合っていたり。中には、明らかに性的な接触をしていると思われるものもあった。男子生徒の顔は、同じものもあったが、少なくとも三人は違う。


『源氏の君はその名の通り、多くの姫をお持ちのようですよ』


 ご丁寧にA4のコピー用紙に印刷された手紙まで入っていた。



 紫は唇を噛んで、写真と手紙をビリビリに破った。捨てたいと思ったけれど、破片すら誰にも見せられない。小さくなったそれをもう一度封筒に戻すと、鞄に押し込んだ。
銀杏の樹に寄りかかって、溜め息をついた。
(いったい、誰がこんな……)
 心の中で呟いたとき、パシャッというシャッター音がして、紫はビクッと振り向いた。
「誰っ」
 短く叫ぶと、
「失礼、思わず指が動いた」
 欅の陰から、一眼レフのカメラを持った男子生徒が現れた。
 少し長めの黒い髪。背の高い英よりもまだ大きいその生徒は、ひどく整った顔で微笑んだ。
「木陰に佇む美少年。って、めったに無いシャッターチャンスだったんでね」
「返してください」
「え?」
「フイルム。返して……勝手に撮ったりしないで」
 紫は声を震わせた。たった今見た英の写真のことを考えると、目の前の男子がひどくいやらしく感じられた。
(まさか……この人が……)
 怯えた瞳で見つめると、その生徒は首をかしげて、
「写真、そんなに嫌いだった?」
 何の悪気もなさそうに聞いてきた。
「嫌いです」
 紫が必死の顔で吐き捨てると、
「そうか、ゴメン」
 そう言って、さっさとフイルムを取り出し、そのまま感光させてしまう。
「あ……」
「これでいい?」
 男は紫を見て、また微笑んだ。
 紫は顔に血が上った。その彼の態度に比べて、自分の言動があまりに過敏すぎたことに。
「ごめんなさい」
「何?」
「他の物も、写していたんでしょう」
「ああ、別に……」
 答えながら、使えなくなったフイルムをどうしようかと思案して、そのまま学生服のポケットに入れ、
「消して惜しいようなものは、他には、無かったからね」
 紫の写真以外は、と言う意味を匂わせる。
「でも、やっぱり隠し撮りはよくなかった。謝るよ」
 優しい声に、紫はハッとした。
「似てる……」
 心の中で呟いたつもりが、思わず口に出していて、
「何が?」
 と、訊ねられて、慌てた。
「何でもないです」
 声が、英に似ている。緊張していた最初は気づかなかったけれど、少し低めの柔らかな声はいつも聞いている英のそれによく似ていた。
「気になるな。何が似ているって?」
 からかうような響きを持つとますます似ていて、紫は近づいてきた彼をかわすと、
「すみません。失礼します」
 ペコッと頭を下げて、逃げ出した。





 後から考えれば、逃げるほどのことも無かったのだが、何故だかそのときは、その場にいられなかった。
(いったい、誰なんだろう)
 あの時間に裏庭にいるということは、普通に考えれば、授業をサボっている生徒だ。けれども、そんな不良には見えなかった。むしろ涼しげな顔立ちは、英とは違った魅力があった。あれだけ目立つ容姿を持っていたら、一度でも会っていれば印象に残ったはず。けれども、紫にとって初めて見る顔。
(カメラなんか持ってるから……)
 てっきり、英の隠し撮りをした犯人かと思ってしまった。失礼な態度を取ってしまったかと紫はほんの少し反省したけれど、いきなりシャッターを押したあっちが悪いと自分に言い聞かせた。
 そして写真のことを思い出す。
 鞄の中に入っているそれをさっさとどこかに捨てたくて、紫は家への道を急いだ。





 その夕方、英はいつもよりもずっと早い時間に帰宅して、まっすぐ紫の部屋に来た。
「紫、大丈夫か」
 ベッドに横になっている紫に駆け寄り、形のいい眉をひそめて
「お前の教室に行って、熱があって早退したって聞いて驚いた。すぐに電話したんだ。風邪か? 朝は何でもなかったのにな。病院には行ったのか?」
 早口に言う英は、本当に紫のことが心配でたまらない。
「ごめんなさい。大丈夫。もう、熱も……」
 紫は後ろめたさに口ごもる。早退してしまったので、しかたなく伯母さんにも嘘をついて、病人のふりをして寝ていただけ。
「さがって…」と言いかけたら、英の手が額に触れた。
 ドキンと心臓が鳴った。
「ああ、もう熱はなさそうだな」
 英は、ほっとした顔でうなずいた。
「薬は、飲んだのか」
「は、はい……」
 小さくうなずく。本当は飲んでなどいない。
「まだ少し、顔が赤いな」
 額に当てた手のひらをそのまま頬に滑らす英に
(英さんのせいです)
 紫は心の中で応えた。
 頬に触れる指先の感触が、嫌でも写真のことを思い出させる。写真の中で英は、紫の知らない男の子の頬に、やはりこんなふうに触れていた。
(あの子は、誰?)
 口には決して出せない言葉。
(あの写真の人たちは……)
「どうした?」
 何か言いたそうな瞳で自分を見つめる紫に、英は訊ねた。
「何かあったのか?」
「……ううん」
 紫は首を振って
「心配かけて、ごめんなさい」
 そっと毛布を引き上げた。
「何言ってる」
 顔を半分隠してしまった紫の前髪をすいて、英は優しく微笑んだ。
「食事はとれるか? この部屋に持ってきてやろうか」
「英さんと、一緒に……」
「ああ。俺の分もここに持ってきて食べよう」
 英の言葉に、紫は花がほころぶように微笑んだ。英は、それを見て、眩しそうに目を細めた。
「じゃあ、それまで眠っておけ」
 部屋を出て行こうとして、紫の机の上に目をやって立ち止まった。
「これは?」
 取り上げたのは、百円ライター。
 紫とは全く縁の無いものだけに、英は訝しげに眉をひそめた。
「どうした?」
「あ……」
 実は、写真を燃やした。封筒ごと。千切っただけでは、足りなくて。
 灰は、自分の部屋が面している裏庭に捨てた。
「ライターなんて、何に使うんだ」
 英の声がほんの少し強張っている。
「紫は、煙草なんて吸わないだろう?」
「あ、違う。そんな、煙草なんて吸わない」
 思わず身体を起こして、紫は慌てて言い訳した。
「台所にあって……その、きれいだったから……つい」
「きれい?」
 どこにでもある百円ライターは、ガスの見える、透き通ったオレンジ色。
「これが?」
「ううん。そうじゃなくて、火が……」
「火?」
 英は、カチッと点火して、揺れる小さな炎を見て吹き出した。
「アブナイやつ……」
 そして紫に向き直って、
「火遊びなんかするんじゃないよ。それに、間違っても煙草とかに興味を持っちゃダメだからね」
 きつい調子で言った。
「はい」
 紫は神妙な顔でうなずく。
「じゃあ、後で」
 ライターをポケットにしまって、英は部屋を出て行った。
 紫は、ホッとして横になった。



 自分の部屋に入って、英は、さっきの百円ライターを取り出して、改めてしげしげと見た。確か、父親が使っていたやつだ。台所のカウンターに置きっぱなしになっていたのだろう。
 紫が、変な興味を持たないように気をつけてもらわないと。

 英は、制服の内ポケットからマイルドセブンの箱を取り出すと、慣れた手つきで火をつけた。
 煙の逃げ道を作るのに、窓を細く開ける。
 紫煙を燻らせながら、小さく呟く。

 紫――かわいい紫。穢れを知らない、俺のたった一人の天使。煙草なんて、覚えちゃいけないよ。
 










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