母に手を引かれてやってきた君は、涙をいっぱいにためた瞳で僕を見あげて、ゆっくりと瞬きをした。その時、君の柔らかそうな頬を滑り落ちていった透明な粒にしめつけられた胸の痛みを、僕は生涯忘れない。
「英(すぐる)、紫(ゆかり)ちゃん、今日から、あなたの弟になるのよ」
 二つ年下の紫が僕のいとこで弟なんかじゃないことは知っていた。そしてその紫の両親、優しかった叔父さんと叔母さんが交通事故でいっぺんに死んでしまったことも。

「仲良くして、大切にしてあげてね」
 母がそっと紫の手を僕に握らせた。その小さな手がきゅっと僕の指を握り締めたとき、僕はこの小さな男の子を、一生大切にするのだと思った。





* * *


「紫、今日は委員会の日だから少し遅くなるけれど、教室で待ってろよ」
「はい」
 英の言葉に、紫はコクンとうなずいた。
 本来、上級生と下級生が右と左に分かれる昇降口を、いつものように英はまっすぐ一年生の靴箱の前までやって来る。ナイトに付き添われるお姫様のように送られて来た紫を、通りかかる生徒が羨ましそうに見た。
「何も来てないな」
「うん、大丈夫」
 紫は自分の目の高さの靴箱を開いてみせる。背の低い紫にはちょうどいい高さのそれも、長身の英には低すぎるようで、大きな身体を折り曲げるようにして覗き込む。紫が入学したばかりの頃は、たくさんの手紙が押し込まれていたそこには、綺麗にそろえられた白い室内履きがあるだけで、他には、砂粒一つ落ちていない。
「変なものが入ってたら、すぐに俺にもって来るんだよ」
「うん」
 紫は、クスッと笑った。
「何がおかしい」
 英がムッと眉を寄せる。
「ごめんなさい」
 紫は素直に謝った。同級生からもひやかされるこの従兄の過保護ぶり。他人から見れば、呆れるばかりなのだろう。そう思うとつい笑いがもれてしまったけれど、それを嬉しいと思っている自分がいる。
「まあ、いい」
 英もフッと笑った。
「じゃあ、放課後、ちゃんと待ってろよ」
 クシャクシャッと紫の柔らかな前髪をかきあげるようにして撫ぜるのは、英の癖。そのたびに背中がくすぐったくなって、眠そうな子猫のように目を細めるのは紫の癖。毎朝の儀式を終えて英が上級生の靴箱に向かうのを、紫はずっと見送った。
「相変わらず仲良しだね。紫の上」
 紫の同級生の川島が、紫の隣の靴箱を開きながら話し掛けてきた。
「やめてよ、その呼び名」
「いいじゃん。似合ってるし」
 従兄弟同士の英と紫の姓は源(みなもと)といった。紫を慈しむ英のことを、二人の事情を知る誰かが『源氏の君と紫の上』と呼び、それは名前だけでなくあまりに二人に似合っていたため、いつのまにかここ白鳳学園中に広がり定着した。
「僕は、英さんに育てられてるわけじゃないよ」
「でも、自分の思うとおりの理想の姫になるように、懐深く守って、可愛がってる」
「変なこと、言わないで」
「みんな言ってることさ」
 川島は屈託なく笑った。

 けっして揶揄しているわけではない。男子校の白鳳学園では、男同士の恋愛も昔から違和感無く受け入れられている。かわいい男の子は入学式から目を付けられ、中でも際立った美貌の子は姫と呼ばれてアイドル化される。今年の一年生では、紫がそれだった。すぐに大勢の上級生たちが紫にアプローチしてきたが、それをことごとく潰していったのが、紫の二つ上の従兄、紫が七歳で両親を事故で一度に亡くして以来、家族のように一緒に暮らしている白鳳学園生徒会長の英だった。

「あの生徒会長が、毎日送り迎えなんて、やっぱりお姫様だよ」
「送り迎えなんて。一緒に住んでるんだから登下校が一緒なのもあたりまえでしょう」
 教室に向かいながら並んで話す。紫は、この川島が嫌いではない。生徒会長の『紫の上』と皆が一歩引いてしまうのに、川島は持ち前の大らかな性格で気にせず話し掛けて来て、そのおかげで紫もクラスで浮いたりせずにすんでいる。
「紫、古文の宿題やった?」
「もちろん」
「写させてえ。今日たくさんありすぎで、間に合わなかったんだよ」
「また?」
「俺、英語はやったから。見ていいよ」
「英語も、もちろんやってきたよ。数学も」
「すげ、自分で?」
「当たり前でしょう」
「ホント? 源氏の君に手伝ってもらったりしてない?」
「ない」
 紫はプッと頬を膨らました。
 英は、過保護だけれど、宿題を代わりにやってくれなど絶対にしない。わからないことがあったら、自分でよく調べてから質問するように言われている。英は頭の悪い子は嫌いだという。だから、紫にはよく勉強してもらいたいと。
 人に言うだけのことあって試験はいつもトップクラス、スポーツも万能、生徒会長を二年生から二期連続でつとめるほどの優秀な従兄のおかげで、勉強もスポーツもよく教育されていると自分でも思う。ほんの少し重たく感じるときもあるけれど、それが英の望みなら、もっともっと期待に応えたいと思う。
 あの従兄に愛してもらえるに相応しい人になりたい。
 一緒に暮らし始めてから少しずつ育っていった想いは、今では恋と呼んでもいいものになっていた。





* * *


 その日、いつものように英に送ってもらってから教室に入った紫は、自分の机の中に見慣れない封筒を見つけた。いつの間に入れられたのか。A4版の茶色の封筒は、かつて靴箱に入っていたたぐいのものではなさそうだ。
(何だろう?)
 無造作に開けて、中のものを取り出そうとして手が止まった。中身は写真。一瞬見ただけだけれど―――。
 紫は、写真を封にしまった。ドクンドクンと心臓のリズムが次第に早くなっていく。震える手で封筒を鞄に押し込んだ。その鞄を膝に抱える。そして、自分のことを誰も見ていなかったかそっと左右を見渡すと、何人かの生徒と目が合ってしまって、カッと顔に血が上った。
落ち着け。封筒の中のものまでは見られてない。
――そう思っても、顔の火照りは止まず、心臓は激しくなるばかり。
「どうしたの?」
 席につくのに通りかかった川島が、気づいて顔を覗き込む。
「赤いよ、顔」
 指摘されて、いっそう赤くなる。
 首をかしげる友人に、紫は震える声で言った。
「ね、熱が……」
「熱? 風邪?」
 驚く川島に、
「だから、早退しますって、先生に伝えて」
 それだけ言って、紫は教室を飛び出した。










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