「おい」
 隣から安藤さんに突付かれて、我に返った。
「さっきから、あの補強選手がお前のこと見つめてんですケド……」
 いったい何? ――という問いに、
「ああ」
 俺は肩の力を抜いた。
「中学の、同級生なんです」
 信之は、まだ俺を見ていた。
「ええっ」
「まさかこんな所で会うなんて思ってもいなかったから……」
 俺は、ふっと笑いかけた。
(ずっと、野球、続けてたんだな)
 心の中で呼びかけると、信之の瞳がゆれたように見えた。



 嘘つきめ。
 何が、
『俺のキャッチャーは、友哉だけだ』だ。
『俺、俺の女房は友哉だけだって決めてんだよ』――だ。
 あれから、何人のキャッチャーとバッテリー組んできたんだ。
 信之の、大嘘つき野郎。


 俺が笑いかけると、信之は気まずいのか何なのか、まぶしそうに目を細めて伏せた。



「それでは、都市対抗野球大会優勝を祈念して」
 応援団のエールが始まるというので、全員、椅子を鳴らして立ち上がった。
 俺も、信之のためにエールをおくり、全く知らない応援歌も何とか歌った。
 信之が投げるのなら――
「ドームに応援に行ってもいい、かな」
 小声でつぶやいたら、
「何言ってんだ。行ってもいいじゃなくて、新人は強制参加なんだよ」
 安藤さんに団扇で叩かれた。




「中塚、電話」
「あっ、はい」
 席に戻って、すぐに呼ばれた。
「お電話代わりました、中塚です」
 相手はしばらく無言で、俺はドキリとした。
(まさか……)
「俺……」
 受話器の向こうから聞こえた声に「やっぱり」という思いと、わずかの緊張が生まれる。
「……信之?」
 呼びかけると、どこかホッとしたような声が返ってきた。
「うん。名前で、検索したんだ」
「ああ、この番号?」
 うちの内線は、名前さえわかっていれば各フロアに設置されている案内機で検索できる。
「まさか、友哉がここに勤めてるなんて」
「俺も、こんなところで信之と会えるなんて思わなかったよ」
「今日、この後、会えないか」
「えっ?」
「明日から合宿だから、今日、会いたい」
 相変わらず、強引な信之。俺は、口元を緩めた。
「わかった」
 会社近くの、そこそこ洒落た居酒屋の名前を言って、
「中塚で予約入れとくから、七時でいいか」
「ああ」
 電話を切ると、ズンと緊張が増した。
 久しぶりに信之と会って話すのだと思うと、まるで初デートの前の高校生みたいに落ち着かない気持ちになった。トイレにいって、鏡を見て、朝からついていた寝グセを直して、ふっと我に返ってばかばかしくなる。
(信之に会うからって、なにも、寝グセを気にすることは無いだろ)
 ポリポリと頭を掻きながら、店に向かった。


「友哉」
 信之は先に来ていた。
 予約を入れたからか、奥に四つだけある個室の一番端の部屋にいた。
「久しぶり」
 なるべく落ち着いて言おうと思ったのに、ちょっと声がかすれてしまった。
「ナマでいいか」
 信之は、八年前より低くなった声で訊ねた。
「うん」
「全然変わってないな、すぐわかった」
「お互い様」
 出されたおしぼりで手を拭いて、いつもの癖で顔を拭きそうになって、信之の目を気にしてやめた。オヤジくさいと思われたくなかった。そのおしぼりを、信之の手が取り上げて、
「わ、ぷ…」
 ごしごしと俺の顔をこすった。
「やめろよ」
「だって拭きたかったんだろ、遠慮するなよ」
 信之の態度と笑顔に、緊張が解けた。
「ホント、お前変わってないよ、信之」
 中学の時も、こんなことされた。
 そして思わず、
「野球も続けてたんだな。俺がいなくなっても」
 言ってしまって、うろたえた。
 信之の顔が、ひどく真剣になったから。

「いや、冗談だって、冗談」
 気まずくなるとベラベラしゃべってしまうのは、俺の悪い癖だ。
「よかったよ、お前、野球続けてて、甲子園は行ったのか? えっと、大学でも有名だったんだろ? 俺は野球見てなかったから、全然知らなかったけど、いや、ごめん、そう言う意味じゃなくて、本当に見る機会がなかったっていうか、なんていうか」
「友哉」
 信之が、しゃべりつづける俺の腕をつかんで止めた。
「お前が、東京に行って、俺、本当に野球辞めようかと思ったんだ」
 真摯な瞳で告げられて、言葉に詰まった。
「でも、辞められなかった」
 懺悔のようにも聞こえる信之の言葉に、俺もゴクリと唾を飲んで、
「いいんだよ。本当に、辞めないでくれて、よかった」
 うつむいて、本音をこぼした。
「お前、本当にすごいピッチャーだよ。俺……お前に謝らないといけないって、ずっと思ってた」
「謝る?」
「あの夏休み、俺、お前にちゃんと話もしないで転校決めて、最後の大会も出なかっただろ。あれ、本当は、俺が三月までM市にいるって言い張ったら、それもできたんだ」
 俺は、東京に来てからずっと後悔していたことを、そしてその後悔の念が強すぎて、苦しくて、ずっと心に蓋をしていたことを口にした。
「俺、あの前日、夜、見たんだ。お前が関本に投げたの」
 信之の目が見開かれた。
「すごく早くて、球。お前、俺ん時とは全く違ってて、悔しかった。いや、悔しいって言うか、嫉妬したんだよ、関本に。そして、全然かなわないって思った。それで、逃げたんだ。逃げて、逃げて、お前のこと思い出したくなくて、自分の人生から野球全部しめ出して」
(それでも、忘れられなくて……)
「……たまに、お前があれからどうしたかって考えると、たまらなく苦しくなって」
 ひょっとしたら、俺がいなくなって、本当に野球を辞めたかもしれない――最後に見せた顔が、あまりにも痛々しかったから。
 心のどこかでそれを望んでいる汚い自分もいて、それに気がつくとたまらなくなるから、やっぱり信之のことは思い出したくなくて――それが――
「今日、お前が野球続けてくれているの知って、嬉しかった」
 本当の気持ちだ。今日、壇上に立つ信之を見て、心からそう思った。

「嬉しかった。お前が、俺以外の奴とバッテリー組んでいたとしても、お前の女房役が俺じゃなくっても、お前が、野球を辞めないでいてくれたことのほうが嬉しい」
 言いながら、自分が何を言っているのか、わからなくなった。
 なんだか興奮してひどく恥ずかしいことを言ったような気がして、そっと信之を窺うと――
「友哉」
 いきなり俺の手の上に、信之の手が重なった。
(信之?)
 驚いて、手を引くこともできずにいると、
「あの夜、関本がうちに来て」
 信之は話しはじめた。

「俺とバッテリー組むのは諦めるから、三球だけ投げてくれって言ったんだ。俺の真剣勝負の球を受けたいって。嫌だって断ったんだけど、しつこくて。ここで投げてくれないなら、グラウンドで、みんなの前で頼むとか言うから……」
 しかたなく駐車場に行ったのだ。
「あいつ、キャッチングにえらく自信持ってたから、驚かしてやろうと思った。ものすごい球投げてビビらしてやろうって」
 クスと自嘲の笑みをもらして、
「大人げないよな」
 つぶやく信之はもう十分な大人だけれど、八年前の夏は、十五の子どもだった。
「それでむきになって投げたら、あいつ、三球とも落とさなかった。三球目に投げた球は、自分でも会心の出来で、正直、むちゃくちゃ気持ちよかった」
「うん」
 覚えている、信之の笑顔。
 そっと手を引こうとしたら「離さない」というように、ぎゅっと握られた。

「そうしたら、次の日、お前が転校するって聞いた」
 信之の端正な顔が、苦しそうにゆがむ。
「罰(ばち)があたった……って思った」
「バチ?」
「ああ、俺が関本なんかと投げたから、それでちょっとでも気持ちいいとか思ったから、神様が友哉を連れて行ってしまったんだって思った」 
「そんな」
 笑い飛ばそうとしたけれど、出来なかった。
「それで、友哉が帰って来てくれるんならって、神様に願かけて、誰ともバッテリー組まないことにした。……だから、中三の時の大会には出てない」
「嘘っ」
 血の気が引いた。
「俺のせいで……」
「ちがう」
 信之の手が、ゆっくりと俺の手をさすった。
「友哉のせいじゃない。俺が、友哉を忘れられなくて、自分でそうしたんだ」
 囁きとともに、さすられた手の甲からじわりと甘い痺れが来て、慌てて指を握り締めた。突然、拳になった手に、信之は目だけで微笑んだ。
「でも、お前は東京に行って、そのまま戻って来なかった。連絡先も何も残さないで……ちょっと恨んだよ」
「ゴメン」
「高校に入っても、部活には入らなかった。それでもたまに、お前とバッテリー組んでた時のことを思い出したくて、一人で投げてたんだ。あの駐車場で。そしたら、それを野球部の先輩に偶然見られて」
「それで、野球部に入ったのか」
 ホッとして訊ねると、信之は曖昧にうなずいた。
「最初はバッティングピッチャーをやってくれないかって言われた」
「えっ?」
「俺が、誰ともバッテリーは組まないからって断ったら、それでもいいから、マシン代わりに投げてくれって」
「ひどいな」
 あれだけの信之の球を。試合に出てくれと頼むならともかく、バッティングの練習に使おうなんて、図々しいにもほどがある。俺がむっとすると、
「それが手だったんだよ。何度か放らされて、やっぱりキャッチャーが受けた方がいいだろうって言われて。俺も試合じゃないならって軽い気持ちで投げたら……」
 信之は、ひどく優しい目で俺を見つめた。
「ボールがミットに収まる音を聞いた瞬間、お前が見えた」
「えっ?」
「嘘じゃない。誰を相手に投げても、ストライク取った瞬間、ホームベースでお前が笑ってるんだ」
 ちょっとオカルトだろ? と、信之は笑った。

「だから辞められなくなった。お前の顔が見たくて、俺は投げ続けた。どんな試合も、ストライク取った時は、お前が一緒にいた」
「…………」
「でも、現実にはお前はいなくて。たまにそのことがたまらなく苦しくなって、辞めようかと思ったことも何度もあった。でも、続けていてよかった……」
「…………」
「続けていたから、今日、こうしてお前に会えた」
「…………」
「だから、本当に辞めなくて良かった」
「…………」
「泣くなよ」
「…………泣いて、ない」
「ホント、友哉、変わってないな」 
「おま、だっ、て……変わ、て、な……」
「うん……ずっと、友哉のことが好きだよ」

 






END

        


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