そうして、朝から晩まで野球一色だった中三の夏休み。
 ある夜、家に帰ると珍しく父親が早く帰ってきていた。二人してリビングで深刻な顔をしている。何があったのかと思ったけれど、
「先にお風呂入りなさい」
 母親に言われて、まっすぐ風呂場に行った。風呂からあがると、テーブルには夕食が並んでいた。鶏肉と豆腐だった。
「ねえ、友哉、お母さんと一緒に東京で暮らさない」
 食事の席でいきなり言われて、俺は目を丸くした。
「母さんたち、離婚するの?」
 思わず思ったままを口にすると、吹き出された。
「何、言ってるのよ」
 父親も笑った。
「母さんが前置きも無く言うからだ」
 そして、自分のグラスにビールを注ぎながら、
「実は、父さん、来年一月から東南アジアに行くことになったんだよ」
「東南アジア?」
「ああ、たぶんニ、三年で帰ってくるが」
 今回ばかりは一緒に連れて行けないなと、父親は首を振った。
「そりゃそうよ、友哉も来年高校だもの。大学は東京の受けさせるつもりだし、東南アジアとか行ってたら、遅れちゃう」

 うちは両親とも東京の出身だ。それが、転勤族の父親のおかげで、小学校では二回転校している。M市にはもう四年半もいて、いつの間にか、ずっといるものだと思っていたのだけれど――
「また転校するの?」
 持っていた箸を落としそうになった。
 信之の顔が、真っ先に頭に浮かんだ。
「転校って言うか、東京の高校に進学するってことなんだけど。でも、本当は二学期から転校して東京の中学に行った方がいいんだけどね、受験には」
「なんだよ、お前、さっきは友哉の中学卒業まではここにいようかって言ってたじゃないか」
「だって、あなたは一月からはあっちに行くんでしょう? 私はここに親戚もいないのよ。だったら、実家に帰っちゃったほうがいいんじゃないかしら」
「うーん」
「よく考えたら、友哉の受験で行ったり来たりするの大変だし。それに、それなりのレベルの高校に行かせようと思ったら、あっちで家庭教師つけるくらいのことしないと」
「たしかに、こっちと東京じゃあ、レベルも違うからな」
 二人が勝手に話を進めるのを、
「待てよ」
 大声で遮った。
「勝手に決めるなよ、俺、嫌だから。転校なんかしないから」
「友哉?」
「俺、M高に行くんだから」
 行って、信之と一緒に野球部に入るんだ。
『一緒に甲子園行こうぜ』
(信之と……)
「しかたないでしょう。仕事なんだから」
 母親はたしなめるように言った。
「友哉が受験生だから、半年も早く内々示をくれたのよ。お父さんだって、好きで東南アジアなんか行くわけじゃないんだからね」
「おいおい」
 父親は苦笑いをしている。そののんきそうな顔にも腹が立った。
「行けよ。俺は、ここに残るから」
「残る?」
 母親は眉を吊り上げた。
「残るって、住む所も無くてどうするの。どっちにしても三月にはここ引き払わないといけないのよ。代用社宅なんだから」
「嫌だ、俺は東京なんか行かない」
 俺がもう一度大声を出すと、母親もヒステリックに叫んだ。 
「聞き分けのないこと言わないのっ」
「絶っ対に、嫌だっ」
 俺は、持っていた箸をテーブルに叩きつけてリビングを飛び出した。 そのままシューズを引っ掛けると玄関を出て、闇雲に走った。
 足は、自然と信之の家に向かっていた。
(信之っ……)

 嫌だ、嫌だ――絶対に、転校なんかしたくない。東京なんか行きたくない。俺は、信之のキャッチャーなんだから。あれほどのピッチャーが、俺がキャッチャーじゃないと試合に出ないとまで言ってくれているんだから。

 俺は、絶対、信之と一緒の高校に行く。
(一緒に……)

 いつの間にか泣いていて、嗚咽と鼻水で息苦しくなった時、信之の家が見えた。通りに面した二階が信之の部屋だ。窓には灯りがついていた。

 立ち止まって、しばらくその灯りを見つめた。
 思わず走ってきたけれど、こんな顔で信之を呼び出すのはためらわれた。
 けれども、もし今、信之を呼んで話をしたら、ひょっとして――
『だったら、うちに住めよ』
 信之なら言うかもしれないと思った。
『住む所ないなら、うちに住んで、一緒にM高に行こう。俺のキャッチャーは友哉だけだから』
 信之の声が、リアルに聞こえた。
 かってに想像した、ひどく都合の良い言葉だけれど、信之ならそう言うと思った。
 


(あ……)
 突然、家の中から誰か出てきて、俺は咄嗟に電柱の陰に隠れた。
 信之だった。そして、その後ろから出てきた大きな身体は、
(関本?!)
 ふたりともTシャツにスウェットのパンツというラフな格好だったけれど、靴だけはしっかりしたものを履いていた。信之はグラブを、そして関本はキャッチャーミットを持っていた。
(なんで……)
 二人が裏の駐車場に行くのを、そっと追いかけた。

 駐車場にはいつも夜になると一、二台の車しかなく、俺も小学生の頃、何度かここで信之とキャッチボールをした。
「肩慣らしますか」
「いい」
「いきなりじゃキツイですよ、温めないと。肩こわしたら困るでしょう」
 ポンと関本がボールを放る。信之はそれを受けると、流れるような動作で投げ返した。次第にスピードにのるキャッチボールが続いていたけれど、
「もういいだろ」
 信之の言葉に、関本は腰をかがめた。

(嘘だ……)
 関本がキャッチングの構えをする。いつの間にかマスクまで用意している。
 信之は、マウンドに立っているかのように、セットポジションに入った。
(嘘だ……) 
 大きく振りかぶって、信之の長い足が地面を蹴る。しなやかに伸びた腕から、白いボールがまっすぐに関本のミットに吸い込まれた。
 
 パン!

 小気味よい音が、駐車場に響いた。関本は信之の球を落とさずにしっかりと受け止めていた。
「ナイスボール」
 立ち上がって返球する関本の声が震えていた。信之は無表情に受けて、軽く肩を回した。さっきよりも慎重に、ボールの握りを確かめている。
「さあ、来い」
 関本がパンと拳でミットを鳴らして、それを合図のように信之がセットポジションに入る。俺は、信之の横顔から目が離せない。マウンドで投げる信之をこんな角度から見るのは初めてだ。けれども、目が離せなかった理由はそれだけじゃない。真剣で獰猛にすら見える闘志剥き出しの信之を、俺はこの夜、初めて見た。

 二球目も真っ直ぐに関本のミットに入った。
(早い……)
 こんな速い球が投げられたのか。
 今まで俺は、信之のことを、コントロールの良い快速球投手だと思っていた。けれども、それは俺の力不足で、それ以上速い球を受けられなかっただけなのだ。本当の信之は、大人でも打てないような剛速球を投げられるのだ。
 俺はぼんやりと関本を見た。大きな身体、筋肉の浮いた太い腕、たくましい足、どれをとってもキャッチャーとして申し分ない。中一のくせして、出来上がった大人の身体を持っている。ただしその顔は、信之の球を受けられた感激に紅潮している顔だけは、年相応に幼かった。
 三球目、信之は、今までで一番速い球を投げた。受けた関本も、手が痺れたのか、しばらくうずくまったまま声を出せなかった。 
「ふっ」
 信之が笑った。
「大丈夫か」
 それまで一度も笑わなかった信之の、満足そうな笑みと優しい声に、俺は耐えられず踵を返した。

 止まっていた涙が、また流れてきた。
 けれども、それは、さっきまでのものとは違う涙だった。





 翌日、俺は監督に部活を辞めると告げた。父親の海外転勤で、母親と一緒に実家の東京に行くことになったのだと。
「大会も無理なのか」
「東京の高校を受験するんで、二学期からあっちの中学に行くんです。その方がいいからって」
「そうか……」
 監督は心から残念そうな顔をしてくれた。
「岸倉もさぞ寂しがっただろう」
 答えられなかった。誰にも言ってない。信之にも、言っていなかった。
「それじゃあ」
「おい、みんなの前で挨拶は」
「すみません、転校の手続きとか色々あって、明日から東京に行くんです。今日はその準備があって……」
 声が詰まった。
「みんなには、監督から言って下さい」
「中塚」
 泣き顔を見られたくなくて、走って逃げた。


「ただいま」
「お帰り、早かったのね。最後だから色々あったんじゃないの」
「無いよ。みんな大会の練習で忙しいんだから」
 乱暴にシャツを脱いで、洗濯機に放り込む。
「スイカ買ってるわよ。大きいの」
「……東京じゃ、高くて買えないからね」
「あら、あっちでも買ってあげるわよ。たまには、ね」
 母親は、俺の八つ当たりに対しても優しかった。俺が「東京に行く」と決めたことがよほど嬉しかったらしい。東京にいる学生時代の友人というのに、次々電話をかけていた。
「あら、チャイム鳴ってる。友哉、悪いけど出てくれる」
 受話器を押さえて、母親が叫ぶ。俺は、スイカの汁のついた口と手を拭って、玄関に出た。
「友哉」
 玄関には、強張った顔をした信之が立っていた。泥の付いたユニフォームのまま。監督から聞いて、そのまま走ってきたのだろう。汗をびっしょりかいていた。
「辞めるって……転校って、どういうことだよ」
 震える声が俺を責めた。
「……父さんの海外転勤で……母方の実家の東京に行くことになったんだ」
 監督に言ったのと同じ言葉を繰り返した。
「何でだよ。お前は、俺と一緒にM高行って、甲子園に行くんだろ」
 信之の両手が、肩に食い込む。
「お前は、俺のキャッチャーだろっ」
 ズキンと胸が痛んだ。

(俺だって、そう思ってた)

 お前のキャッチャーは、俺しかいないと思っていた。
 でも――違った。

「関本がいるよ」
 ビクリと信之の腕が震えた。
「関本なら……お前の球を、受けられる」
 昨夜の信之のピッチングがまざまざと浮かんだ。
「たぶん……俺より……いい女房役に、なるよ」
 それだけ言って、両腕で突くと、あっけないほど簡単に信之の手は離れた。
「俺、明日の準備があるから」
 もう帰って欲しいと追い返す。信之は青ざめた顔でうな垂れた。
 家に入って、リビングを通り過ぎると、
「今の岸倉君?」
 母親が顔をのぞかせた。
「大丈夫?」
「何が?」
 ぶっきらぼうに言って、部屋に入った。
 明日の準備も何もできていなかったけれど、ベッドに入って、暑いのにふとんを被った。最後に見た信之の顔に、ひどく罪悪感を覚えた。

 東京に行っても、野球だけはしない。
 高校野球も見ない。プロ野球も。
 無理言って買ってもらったキャッチャーミットも捨てる。
 ボールも、バットも、全部捨てる。
 二度と、野球には近づかない。


 ふとんの中で嗚咽をかみ殺して、俺は自分に誓った。








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