「コミュニティ推進室からのお知らせです。本日五時半より五階大ホールにおきまして、第77回都市対抗野球大会大阪代表に選ばれました本社野球部の激励会を行います。皆様のご参加をお待ちします」

 今日何度目かの放送に、俺はパソコンを叩いていた指を止めた。今年入った会社が社会人野球では優勝候補になるほど強いということを知ったのは、つい最近のことだ。
「中塚、今日はもういいから五階に行け」
 課長に言われて、
「えっ、いえ、いいです」
 激励会に行きたいのだと思われてしまったかと、俺は慌てて首を振り、再びキーボードの上の指を動かし始めた。
「いいですじゃなくて、激励会で前の方に座って拍手するのは新人の役目なんだよ」
 隣の席の安藤さんが言って、俺の腕をつかんで立ち上がった。
「えっ、うそ、マジですか?」
 勘弁して欲しい。
「課長、俺たち、行って来ます」
「おう」
「いえ、俺、野球は、ちょっと」
「お前に試合出ろなんて言ってないだろ」
 安藤さんに引きずられるようにして、俺は五階のホールに向かった。
 




 ホールの入り口で、団扇と、選手の顔写真の載ったチラシをもらった。団扇には応援歌の歌詞が書いてあったけれど、
「俺、知りませんよ」
 歌えないと言うと、安藤さんはうなずいた。
「ああ、大丈夫。ほとんどのヤツは知らないって。応援団がでかい声で歌うから、それに適当に合わせろよ」
 言われてみれば、青地に白の揃いのユニフォームを着た応援団員が、ホールの左右の壁に沿って、手を後ろに組んだ例のポーズでずらりと並んでいる。
「すごい。結構、大勢いるんですね」
「当たり前だろ、応援合戦も試合のうちだからな。もちろん、新人は全試合、勝ち進む限り、応援に行くんだぞ」
「嫌です。それだけは、勘弁してください」
 俺は露骨に顔をしかめた。


「前から順に詰めて座ってくださぁい」
 係の女性に促されて、前から二列目のパイプ椅子に座る。新人の役目というのはまんざら嘘でもないらしく、一列目に何人も同期の顔を見つけて、俺もいよいよ諦めた。

「なんで大阪代表なんですか」
 来賓で大阪市長が来ているというアナウンスを聞いて、安藤さんに尋ねた。
「そりゃ大阪で勝ち抜いたから……って、中塚、お前まさか、うちの本社が大阪だって知らないんじゃないだろうな」
「えっ、そうなんですか。東京本社って言うから、東京が本社だと思っていました」
「アホか。東京本社ってゆうからには、ホンマもんの本社が別にあるに決まっとるやろ」
「……それで、弊社にはエセ関西弁をしゃべる人がいっぱいいるんですね」
 安藤さんは横浜育ちで、関西に行ったことはないはずだ。
「エセとはなんや。ワイの関西弁はネイティブもビックリなんやでえ」
「怒られますよ、ネイディブに」
 安藤さんとしゃべっているうちに、ホールは人で埋め尽くされた。


「ただいまより、選手が入場いたします。大きな拍手でお迎えください」
 アナウンスとともに拍手が湧き起こった。ユニフォームではなくスーツ姿で登場した選手たちが壇上に並ぶ。俺も(役目だと言われているので)手を叩いたが、実のところなんの興味もなかった。
「やっぱ、みんなデカイなあ。お前、あんなか入ったら子どもだぜ」
「安藤さんも、でしょう」
 身長なら俺も安藤さんもそう変わらないはずだ。
「俺は顔がオヤジだもん。中塚はエンジだけどな」
(園児?)
 つまらない洒落(にもなってない)に笑っている先輩の横顔を睨んで、俺はぶすっとしたまま、事務的に手を打った。
 

 本当なら野球の応援なんか――したくないのだ。


 壇上では、選手紹介が続く。浅黒く日焼けした選手たちが「今年こそ黒獅子旗を持ち帰ります」とか「ぜひ東京ドームに応援に来てください」とか、同じような言葉を繰り返している。俺は、ただただ
(早く終われ)
 と、祈っていた。その時、
「それではここで、補強選手のご紹介をします」
 それまで後列に控えていた四人の選手が壇上の最前列に出た。
「ちょっとぉ、かっこいいよ」
「ホント」
 後ろから聞こえてきた興奮した女性の声に、つい顔を上げてその対象を探し、
(あ…っ)
 思わず声を上げそうになった。
(信之……?)
 まさかと思った。
 けれども、俺が、信之の顔を見忘れるはずがなかった。


「……今年は、強豪竹下電器が予選で敗れるという波乱がありましたが、そこのベテランとルーキーに補強で入っていただけることになりました」
 補強選手は、野球部長が一人ずつ紹介した。
「岸倉信之選手。関西の大学野球から今年竹下電器に入社しましたが、その長身から繰り出される角度のある速球は……」
 間違いなかった。
 俺は呆然とその顔を見つめた。
 男らしく凛々しい顔は、八年の歳月に大人びてシャープになっていたけれど、それでも、意志の強そうな目も負けず嫌いな口元も、十五の時と全く変わらないと言ってよかった。
 俺の視線が届いたのか、信之が、ふとこっちを見た。

 目が合った瞬間、時が止まった。


 エアコンの効いたホールの中に、突然、真夏の風が吹いた。肌を焼く日差しに、じっとりと汗ばむ。ミンミン蝉の声が耳鳴りのように聞こえてきた。






「集合」
 監督の先生に呼ばれて、俺たちはバックネット前に走った。夏休みに入ったばかりだというのに、グラウンドは運動部の生徒でにぎわっている。その頃俺たちの住んでいたM市では、夏休み明けすぐに中学の運動部による大会があった。それを勝ち抜けば、十月に行われる県大会に出られる。
 野球部は、前年、県大会のベスト8まで勝ち進んだ。決して強いチームじゃなかったけれど、エース岸倉信之の右腕のおかげで。
 その日、監督からスターティングメンバーの発表があった。ベンチ入りする選手の名前も。その中に一年の関本の名前を聞いて、俺は少しだけ嫌な予感がした。
 関本は俺と同じキャッチャーだ。ただ俺と同じというのはそのポジションだけで、それ以外は全く違っていた。ついこの間まで小学生だったくせに身長は170(cm)近くある。横幅もあって、ホームベースを守る姿は、
「壁みたいだ」と、誰かが言った。
 それに引き換えこの俺は、
「なんでキャッチャーやってんの?」と、同級生みんなから訝しがられるほどのチビだった。
 ファーストとかショートに変わらないかと何度か勧められた。けれども、俺がポジションを変わることをピッチャーの信之が許さなかった。
 小学校五年の時、父親の転勤でM市に転校して来た俺は、その時同じクラスになった信之と仲良くなって、誘われるままに野球を始めた。
「俺がピッチャーだから、友哉はキャッチャーしろよ」
 強気の性格そのままに、信之は有無を言わせず俺のポジションを決めた。最初は球を受けるのも怖かったのが、信之が根気良く付き合ってくれたおかげで、そのうちに楽しくなった。
 バッターとの駆け引き、配球。信之のコントロールが良いだけに、相手の裏をかいてビシッと決まると、なんとも言えず気持ち良かった。




「今年は最後だから県大会優勝しような」
 自分のグラブにボールを打ち付けながら信之が笑う。
「うん」
 顔を洗ってタオルで顔を拭いていたら、信之の右手がそれを奪って、俺の顔を乱暴にこすった。
「やめろよ」
 顔を背けながらタオルを奪い返す。こういう悪ふざけはいつものことだ。
「友哉、高校でも野球部入るだろ? 入れよな」
「うん」
「一緒に甲子園行こうぜ」
「甲子園は無理じゃないの?」
「ばか、何言ってんだよ。県大会で優勝するってことは、県で一番になるってことだろ? だったら県代表で甲子園行けるじゃないか」
「中学と高校じゃレベルが違うよ」
 信之のことは間違いなく高校級だと思っていたけれど、俺は、自分には自信が無かった。
「ばーか、俺たちが高校生になった時の相手は今の中学生なの。だから、今度の県大会で優勝すりゃそれだけ甲子園が近づくんだよ」
「ばかばか言うなよ」
 長身の信之を見上げて、背中を小突いた時、監督に呼ばれた。
「中塚、ちょっと」
「あ、はい」
 持っていたタオルを信之に押し付けて、
「先、行ってて」
 監督の元に走った。



「入れ」
 誰もいなくなった部室に呼ばれ、パイプ椅子に腰掛けた監督と向き合った時、予感がした。
「あのな、前にも話したが……」
 どこか困ったような監督の声に、予感が確信になった。
「今度の大会、ファーストをやらないか」
「…………」
「お前は機敏だし、野球センスも良いし、ファーストでも十分やれるよ」
 監督の岡先生は、普段は国語の先生だ。大学時代に野球をやっていたということで、野球部の顧問と監督を兼任している。もっと体育会系の先生なら生徒のポジションなんて勝手に決めるに違いないのに、
「どうだ?」
 こうして申し訳なさそうに聞いてくれる。優しい人だった。
「中塚にとっても中学最後の大会だし、ずっとやってきたポジションを変わりたくは無いだろうが」
 懸命に説得しようとする監督に
(何か答えないと……)と、口を開きかけた時、
「友哉はキャッチャーです」
 部室のドアが乱暴に開いて、信之が入って来た。
「友哉はキャッチャーです。ファーストはやらせません」
「岸倉……」
 信之は、俺を押しのけるようにして監督の前に立った。監督は、ひどく困った顔で信之を見上げる。
「友哉がキャッチャーじゃなかったら、俺、試合出ませんから」
「信之っ」
 これには俺が慌てた。
「何言ってんだよ」
 信之は、唇を固く結んで監督を睨むように見ている。監督は溜め息をついた。
「わかった」
「監督……」
「悪かったな、中塚」
 椅子から立ち上がって、監督は俺の肩をポンと叩いた。
「最後の大会だ。二人ともがんばれ」


 
 部室を出て、二人ともしばらくは無言だった。
「……あんなこと」
 沈黙に耐え切れずに口を開いたのは俺だ。
「あんなこと、監督に言うのよくないよ」

『友哉がキャッチャーじゃなかったら、俺、試合出ませんから』

 信之の声が、まだ耳に残っている。
「あんな……監督を脅すようなこと……」
 信之に言われて、本当は嬉しかったくせに、
「言っちゃダメだよ」
 俺は心にもないことを言った。
 すると、黙っていた信之が、突然立ち止まって振り返った。
「俺のキャッチャーは、友哉だけだ」
 あまりに真剣な瞳で見つめられて、俺は言葉を失った。

 それからどれくらい向き合っていたのか。
 遠くから、これも夕練のおわった運動部らしい集団の近づいてくる音に、我に返った。
「あ……」
 気まずく目をそらして歩き出すと、急に心臓が鼓動を早めた。ドクンドクンと高鳴る音が、隣を歩く信之にも聞こえてしまうのではないかと焦って、俺は急にベラベラと益体も無いことをしゃべった。
「監督、ホントは関本にキャッチャーやらせたかったんだろうな。あいつ、見るからにキャッチャーだもん。知ってたか、あいつ、なんか、何とかいうリトルリーグに入っていて有名だったらしいぜ。まあ、あれだけデカかったら、それだけでも有名になるだろうけど」
「友哉」
 クスと信之が笑った。そして、
「俺、浮気しないから」
「へっ?」
「キャッチャーのこと、女房役っていうだろ? 俺、俺の女房は友哉だけだって決めてんだよ」
「なっ」
 俺は顔に血が上るのを感じた。
「何言ってんだよ、バカ、キショクわりぃんだよ」
 信之の持っていた俺のタオルに気づいて、それを取り上げるとブンブン振り回した。タオルの端が、信之の背中や肩を打つ。
「やん、肩はやめて」
 ふざけた作り声を出して、右肩を庇って身をくねらせた信之を、俺は追いかけ回した。








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