「太夫」 突然、障子の向こうから声がして、白雪太夫は動きを止めた。 俺の顔を見つめ、その瞳に戸惑ったような色を浮かべると、ゆっくりと俺の腕をつかんでいた手を放した。 「太夫、よろしいか?」 「なんでしょう?」 白雪太夫は、立ち上がって障子を薄く開けた。 廊下には、武家らしい男が一人立っているようだったが、暗くてよく見えなかった。 「御屋形様がお呼びです」 囁くような声に、白雪太夫は俺を気にしてチラリと振り返った。 「わかりました」 そして、俺のそばに来て 「ここで待ってておくれ。言っておくけれど、逃げようとか思っても無理だからね」 見下ろしたまま微笑んで、さっと踵を返した。 俺は、しばらく呆然としていたけれど、気を取り直して起き上がった。 「大人しく待ってるわけないだろ」 そっと障子を開けて覗くと、廊下に人の気配はない。 そのまま滑り出て、左右を見た。 廊下を挟んで反対側も、同じように障子があった。 「こっち側も部屋なのか」 耳をそばだててみたけれど、何の音もしない。薄く開いて見てみたが、暗くて何も見えない。俺のいた部屋よりは狭そうだ。 ふと、周りの暗さに、今、何刻(なんどき)なのか気になった。 どれくらい気を失っていたかにもよるけれど、夜中なのか朝なのか。 そうして見回すと、廊下には、全く灯りが無い。ただ、俺のつかまっていた部屋からもれる明かりだけ。 とりあえず、そっと廊下を歩いた。 突き当たると壁。 (行き止まりか) 反対側に歩くと、やはり行き止まり。 「嘘…」 廊下を挟んで左右に部屋。そしてその両端は行き止まり。って、一体白雪太夫と呼びに来た男はどこに消えたんだよ。 俺は焦って、今度は一つ一つ部屋を開けていった。暗くて見えないからもといた部屋から手燭を取ってきた。 小さな書斎のような部屋、厠(かわや)、布団の仕舞われた部屋などあったけれど、どこにも外に出る扉は無く、その上―― 「窓も無い…」 ゾクッと背中が震えた。 朝か夜かも分からない。日の光の全く差し込まない空間。 「なんなんだよ…ここ…」 呟くと、不安が増した。 閉じ込められている。 どっかのお屋敷の座敷牢か何か? そういう話、聞いたことある。気の狂ったお殿様を閉じ込めていたとか。 それにしても、白雪太夫は、どこに消えたんだ? 「……どっかに、抜け穴があるんだ」 ほら、中学の時修学旅行で行った江戸村で忍者屋敷があっただろう。 隠し扉があって……。 俺は、バンバンと壁を叩いた。 書斎のような部屋の掛け軸を剥いだ。 何も無いけれど、どこかに抜け穴が無いと、あの二人がどこに消えたのか、いや、俺がどこからここに入って来たかだって理由がつかない。 さんざん捜したけれど、分からなかった。 手燭の明かりが消えかけて、俺はしかたなく元の部屋に戻った。 攫われてしまったのだと――閉じ込められてしまったのだと、そう思ったとき、悔しくて涙が出た。 自分の馬鹿さ加減にも。 『夜、一人で出歩くのは、よすよ』 『そう。夜は、いつでも私と一緒においで』 国光とそんな会話をしたのも、ついこの間じゃないか。 あれから一週間も経ってない。一週間も経ってないのに―― ものすごく遠い昔の気がする。 「国光……」 別れ際に見たあの寝顔、あれが最後になってしまうんだろうか。 「そんな…そんなの、嫌だ」 ぐっと歯を食いしばって拳で涙を拭った時、廊下に人の気配がした。 はっと振り返ると、開け放した障子の向こうに白雪太夫が立っていた。眉間にしわを刻んだ様子は、ひどく不機嫌そうで、さっきとはずい分感じが変わっている。 「梅」 俺に呼びかけて、俺の涙に気がついたらしく、ほんの少し目を見開いた。 「泣いてる暇は無いよ」 ぶっきらぼうに言う。 「な、なんだよ」 「尾張様が、お前の舞いを見たいそうだ」 「えっ?」 尾張様? そういえば、長谷部さんと源太郎さんが何か話していた。尾張中納言様がどうだとか。 (中納言様が、俺の舞いを?) さっと血の気が引いた。 音も立てずに、白雪太夫の後ろから男が二人現れた。 一人が俺の腕を取り、一人が目隠しする。 「あっ」 白雪太夫の言葉に気を取られていたあまりに抵抗もできず、気がついたら何も見えないまま背中を押されて歩かされている。 「ま、待ってくれよ」 俺は、傍にいるに違いない白雪太夫に呼びかけた。 「ダメだよ、俺、踊れない」 白雪太夫は黙っている。 「なあ、おい、俺、ダメなんだってば。中村座の舞台でないと……」 中村座に立つときだけ、梅若の霊が俺の身体に乗り移って、舞台を務めてくれるのだ。 それ以外、例えばお茶席やお稽古の時など、絶対に梅若は来てくれなかった。 中納言様の前で、俺自身の踊りなんか見せられるわけが無い。 「聞いてんだろ、白雪太夫っ」 「中村座じゃないと……ね…」 白雪太夫の皮肉そうな声。 「その辺の小屋で踊るわけじゃなし。尾張様のお屋敷だ。衣装も立派なものをご用意くださってるよ」 「そ、そんなんじゃなくて…」 俺の事情は、話してわかるものじゃない。 どうしたらいいんだ。 そうこう言いながらも、どこかで襖の開く音を聞き、木の扉がわずかにきしむ音を聞き、そうして何だか狭いところを潜らされて、ずい分と歩かされた俺は 「まぶし…っ」 不意に目隠しを撮られ、辺りの明るさに目がくらんだ。 其処此処に金箔の貼られた豪奢な一室。 「ここで仕度をするんだよ」 白雪太夫が、すぐ隣で言った。 「ほら、これが衣装だそうだ」 一見真っ白に見えたそれは、銀色の糸で細かく優雅な模様のなされた、今まで見たことも無いほど豪華な振袖だった。 「手伝おうか?」 衣装を見てもピクリともしない俺を見かねて、白雪太夫が言う。 「い、いいや…」 俺は途方にくれていた。この衣装を着けたら、踊らなきゃならない。でも、俺は踊れない。 (梅若…助けてくれよ……) 「太夫、早くしないと御屋形様が、ご立腹ですぞ」 俺をここまで連れてきたらしい男が言う。 白雪太夫は、舌打ちするように顔を歪め 「梅、命が惜しかったら、仕度をおし」 乱暴に俺の着物に手をかけた。 「まっ、待てよ」 脱がされるくらいなら、自分で脱ぐ。 「……私だって、本当は、尾張様の前にお前を出したくはないんだよ」 銀糸の振袖を手にとって、広げながら、白雪太夫は小声で言った。 どういう意味だよ。 だったら、勘弁して欲しい。 なのに、白雪太夫は慣れた手つきで、俺に振袖を着付けていく。 (絶体絶命……) 心の中で呟いて (中一の国語の試験で体の字を対と書いて間違ったなぁ) どうでもいいことを思い出す自分がおかしい。現実逃避だ。 踊れない。 絶対。 心臓が壊れそうなくらいに、大きな音を立てる。 (梅若…助けて…) 「梅、何を踊ってくれる?」 白雪太夫に呼びかけられた時、俺は緊張のあまり貧血を起こした。 そして、一瞬の立ちくらみの後、俺は白雪太夫の差し出した扇を手にして、薄く微笑んだ。 (梅若――) 来てくれた。 今、俺の中に梅若がいる。 中村座の舞台に立っているときと同じ心地。いや、なにかが違う気もするけれど、とにかく、今の俺は俺じゃない。 梅若は、白雪太夫に 「吉野山」 と告げた。白雪太夫の瞳が見開かれた。 竹田出雲らの作になる、元々は人形浄瑠璃のそれは、白拍子静御前と狐忠信の道行きの話だ。後に歌舞伎三大名作の一つに数えられる「義経千本桜」の四段目。さすがにこれは、俺でも知っている。 でも、何でこれを選んだんだ? 狐忠信――狐―――。 葛の葉との符丁を感じつつも、俺は、梅若が俺の身体ですることをただ見ているだけだった。 「この季節に桜を見ることが出来るとは思わなかった」 梅若が舞い終えて静かに額づいたとき、尾張の殿様が言った。 吉野山は桜の名所だ。 義経を慕う静御前と、その静御前の持つ鼓を追って一緒に旅する狐忠信との、吉野山での道行きの舞。本当ならば二人舞だが、梅若は一人で舞った。 「一緒に踊りますか?」 始まる前、梅若が訊ねたときの、白雪太夫の顔を忘れられない。 驚いたような、怯えたような。 「いいや…」 男舞いは出来ないよ……そう呟いて、白雪太夫は下がっていった。 そして今、居並ぶ尾張徳川家の家臣の中に混ざって、俺を、いや、梅若を見つめている。 白い顔に血が上っている。 機嫌よく話しかけてくる尾張様に、俺の中の梅若が応えている。 不思議なことに、いつもなら舞い終わった後はすっと消えてしまう梅若が、今日はまだ俺の中にいる。 「梅…」 控えの部屋に下がった俺に、白雪太夫が近づいてきた。 「すばらしかったよ。身体が震えた」 感激した面持ちで、俺の手を握る。そのとき、俺の中の梅若が言った。 「雪兄さん」 白雪太夫がはっとする。いや、俺だって驚いた。 「梅……私のことを、思い出してくれたのかい」 「ええ…覚えていますとも……」 そして、梅若は突然言った。 「そして、知ってるんです」 な、何を言ってるんだ? 言っているのは、自分の口だが、何がなんだかわからない。 けれども、白雪太夫は青ざめている。 「もうやめてください。雪兄さん」 「な、何のことだい?」 「言ってるでしょう。私には、わかっているんです。悲しいけれど」 「………」 白雪太夫の身体が、小刻みに震えている。 「もう、これ以上悪いことなどしないで……昔の、私の大好きな雪兄さんに戻ってください」 俺の手が白雪太夫の腕にすがりつき、それを驚愕に顔を歪めた太夫が振り払い、 「あっ」 右手に持っていた扇を取り落とした瞬間、俺の意識が遠くなった。 「梅……」 薄れる意識の果てに、ひどく切ない呟きを聞いた。 「どうして……?」 目が覚めると、俺はもと居た部屋に寝かされていた。 最初の時と違うのは、俺の手足がそれぞれしっかりと紐で縛られていて、身動き取れなくなっていた。 「な、なんだよ、これっ」 部屋の中には誰も居ない。白雪太夫の姿も無い。 「おいっ! 解けよっ、こらあっ」 叫んでみたけれど、何の反応も無かった。 「誰かっ! 誰か来いよっ!!」 さっきよりも待遇悪いなんてひどいじゃねえかっ。 俺の叫び声を聞いたのか、一人の男が入って来た。 武家じゃない。役者のようだ。白雪太夫の一座の者か。 「静かにしとくれやす。太夫はじきに戻って来ますさかい」 「これはなんだよ。何でこんなことするんだよ」 縛られた身体で、ジタバタと動いた。布団の上を転がっただけだけれど。 「静かに言うてますやろ。命取られんかっただけでも、ありがたいと思うてもらわな」 「命?」 そして男は、とんでもないことを言った。 「ほんまは、尾張様があんたはんのこと聞いて舞いを所望された時点で、舞い終わったら殺されるところやったんやで」 (え?) 「それを太夫が、一生懸命とりなしましたんや。まあ、あんたはんの舞いが、えろう良かったから、尾張様も、殺すことも無い言うてくださったようやし」 (なに、それ?) 「秘密を守ってくれれば、それでよしや。おとなしく、うちらと一緒に来なはれ」 (来なはれ――って、どこに?!) |
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