「梅若」
「国光」
「会いたかったよ」
 六ツになるのを待ちかねて国光の家に戻った俺は、部屋に入るなり抱きしめられて押し倒された。
「この五日間、何度抜け出そうとしてもアイツらが」
 俺の首筋に顔を埋める。
「よしよし」
 何となく母親のような気持ちで、国光の背中を撫でた。
 そのアイツらは、国光から貰うもの――締め切りをずっと過ぎていたらしい絵だ――を貰って、先ほど意気揚々と帰っていった。
「梅若…」
「うん…」
 俺の上に覆い被さった国光が切な気に目を細めるので、俺は誘うように咽喉を反らした。
 俺も布団を敷くまで待てそうにない。
 国光の唇が咽喉に降り、そしてそのまま下に滑り、着物の袷を開く。
「梅若」
「んっ…」
 乳首を舌の先で押しつぶすように舐められると、国光のひげの先がチクチクあたってくすぐったい。
 うっすらと無精ひげの生えた国光は、いつもの優しく端正な面に男くささと猛々しさを加えていて、久し振りの俺を震わせる。国光の髪に指を絡めてその顔を見えるように引っ張ると、国光は上目遣いで俺を見てフッと笑った。
 その顔にゾクリとして身体が跳ねた。つかんだ頭を胸に押し付ける。国光の指が性急に俺を求めて、内股をまさぐる。
「あ、待って、まだ」
「待てない」
「やっ、やあ…」
 って、何も嫌じゃないんだけれど。
「梅若、可愛い私の…」
「んんっ、国光っ、あ……くに、っ…」
 互いの名前を呼ぶだけで興奮している。
 結局、食事もしないまま一刻半以上も抱き合った挙句、国光はそのまま泥のように眠ってしまった。


「国光?」
 呼びかけても返事はない。
 きっと何日も眠ってなかったんだろう。
 死んだように動かない国光の下からそっと這い出して、俺は身づくろいした。
 竜閑橋の約束の時閑まで四半刻もない。
 眠る国光の肩に肌掛けを引き上げて、その額にキスを落とした。
「ごめん、ちょっと行って来るね」


『久し振りだね』
 そう言って微笑んだ白雪太夫。梅若とはどういう知り合いだったんだろう。
 俺は、自分でもよくわからない好奇心に突き動かされていた。
 俺をこの世界に呼んだ梅若の過去。
 白雪太夫が知っているのなら、聞いてみたい。
 そっと引き戸を開けて出ると、重たそうな雲が月を隠して、一寸先も 見えないほど真っ暗だった。
(雨になるかな……)
 提灯に灯りを入れて、足元を照らす。
 竜閑橋までの道を思い浮かべながら、人通りの絶えた道をとぼとぼと歩いた。


 橋のたもとまで来てみたけれど、人の気配はなかった。
(早かったのかな)
 時計もないので、適当に出てきたけれど、それでも約束の時間とそんなに大きくずれてはいないだろう。
 冷たい風が川の匂いを運んでくるのにくしゃみをしたら、持っていた提灯がゆらゆらと揺れた。
 その直後、その灯りが叩き落され、真の闇に包まれた。
(えっ?)
 みぞおちに強い衝撃を受けて、叫ぶことすら出来ず、そのまま意識を失った。










「ここ――?」
 気がついたときには、知らない部屋の中だった。
「気がついたかい?」
 横になっている俺の顔を覗き込んだのは、白雪太夫だ。
「お、お前っ」
 気絶させられたのだということに気がついて、怒りで身体を起こすと、まだみぞおちに鈍い痛みがあった。
「何でこんなことしてんだよっ!お前、昼は、俺に危害を加えたりしないみたいなこと言ってたろっ」
 梅若と親しかったように感じたから、俺はだれにも内緒で、約束を守って出てきたんだ。
「すまないね。私だって手荒なことはしたくはなかったんだよ。けれど、お前が町方のお役人を連れてきたりするから」
「えっ?」
 町方の役人?
「私のことを疑って、見張ってもらったんだろう?」
 白雪太夫が、眉根を寄せて俺を見た。
「し、知らないよ。俺は」
 独りで来たつもりだ。
「まあ、いいよ。月のない夜でよかった。上手くまけたからね」
 誰が、俺のあとを付けてたっていうんだ。
 長谷部さんの顔が浮かんだ。
 そして、急に自分がとんでもないことをしている気がした。
「ま、まいた、って…」
 知らず拳に力が入る。
「何で、役人をまいてまで、俺をさらったりするんだ」
「梅…」
「お前が来いって言ったから来たんだ。――話をするだけなら、こんなまねする必要ないだろっ」
 キッと睨むと、白雪太夫は、柳眉をひそめたまま不思議そうに俺を見つめた。
「お前、ずい分変わってしまったね」
 俺の頬に白い指をのばす。
「あんなに、大人しくて品があって、可愛らしかったのに」
 それはこの俺じゃねえよ。
(大人しくも可愛らしくもなくて、下品で悪かったな)
 ムッとして見つめ返したら、悲しそうな顔になった。
「どうしてそんな冷たい目で私を見るんだい。小さい頃は、あんなに私のことを好いてくれたじゃないか。いつも私の後ろを付いて来て離れなかったのに」
(だからそれは俺じゃないって……んっ?)
「お前と梅若って、そんな小さい頃、一緒だったのか?」
「えっ?」
 白雪太夫は首をかしげた。
 ああ、確かに今の質問は、梅若自身の口から出たにしては変だ。
「いや、えっと、俺たちって、いつ頃一緒にいたっけな? なあんて」
 変なのは変わらないか。
「梅? 何を言ってる?」
「ええっと……実は、俺、物忘れの病にかかって、昔のこと忘れちまってんだよ」
 本当の梅若じゃないなんて言っても、訳が分からなくなるだけだから、適当なことを言ってごまかした。
「なんだって?」
 予想どおりだけれど、白雪太夫は驚いた声を上げた。
「忘れたって、私のことも忘れてしまって……?」
「うん」
 うなずいたら、白雪太夫のもともと白い顔がますます紙のようになって、俺は背筋に震えを走らせた。

「ひどい話だね。私は、お前のことを一日だって忘れたことなどないよ」
 さっきよりも冷たい声に、俺は落ち着かなくなる。
「だ、だって、病気なんだから、仕方ないだろ?」
「昼間会った時、知らないって言われて…どんなに傷ついたか」
 白雪太夫は、うつむいた。
「わ、悪かったよ。っていうか、本当に知らないんだから」
 とたんにキッと顔を上げて俺を睨んだので、早口で付け加えた。
「だから、教えてくれよ。俺たち、いつ頃どんな風に暮らしていたんだ? ほら、聞いているうちに思い出すかもしれないし」
 とっさに言った割には、的は外していなかったようだ。白雪太夫は、
「……ああ、そうだねぇ」
 納得したような顔で肯くと、俺に近づいた。
 俺のすぐ隣に来て、そっと俺の両手を握った。
「思い出しておくれ…梅…」
 ゆっくりと話しはじめた。




 私の一番古い記憶は、お師匠さんに抱かれた赤ん坊のお前だよ。
 真っ赤な顔に目だけが大きくクリクリと動いていて、本当に可愛らしかった。鼻も口も握った指も小さくて……今日から私の弟になる子だって言われて、そりゃあ嬉しかったものさ。
 私たちを育ててくれたお師匠さんは、もと辰巳芸者で唄も踊りも上手い綺麗な人でね。大店の跡取りや地主の息子からも話があったくらいなのに、一人のほうが気楽だからと誰とも一緒にならずに、唄と踊りを教えて暮らしていた。
 なのに、他の芸者が産んだ子を我が子のように育ててくれてね。私たちのことだよ。
おっ母
(かあ)と呼ぶと叱られたけれど、私たちのおっ母は、お師匠さんだよ。
 そのお師匠さんのことも、忘れちまったのかい。ひどいねえ。

 私が十になった年に、お師匠さんが流行り病で倒れて……死んじまって……それから私たちは別々の家に引き取られた。お前は愛嬌があって誰からも可愛がられていたから、すぐに近所の老夫婦が喜んで引き取ってくれたよ。そして私が引き取られたのは、芝居小屋の一座だった。今の和泉座じゃない、その前のね。お師匠さんにひと通り唄も踊りも仕込まれていたけれど、役者の芸ってのを身をもって知ったのは、その時さ。慣れないうちは辛かったよ。いつもお師匠さんとお前のこと思い出して泣いていた。
 お前のことは、別れてからも色々と聞いていたんだよ。大坂に行くまでずっと。いや、行ってからもなんとか江戸に行く人を見つけては、お前のことを尋ねていた。一年の半分は旅から旅の生活だったから、なかなか聞けなかったけれど、偶然耳にしたお前の噂に、私がどんなに喜んだかわかるかい?
 中村座と旅一座じゃあ、格の違いも天と地ほどもあるけれど、あの梅が私と同じ役者になっている――そう思うと、嬉しくて身体が震えたよ。
 私も役者を続けていれば、いつか会える日が来るかもしれない。
 そう思って、毎日過ごしていたんだ。
 ああ、私のことばかり話してても、しょうがないね。お前が思い出してくれるように、お前のことを話さないとね。
 お前は、さっきも言ったけれど、お師匠さんの知り合いの芸者が産んだ子で、赤ん坊のときに引き取られて来たんだ。私が雪太郎だったからか、梅太郎って名づけられたんだけれど、ちっちゃいときから女の子みたいだったから、梅とかお梅って呼ばれていたね。
 踊りが好きで、私がお師匠さんに習っている時、一緒になって踊ってたよ。歩くより先に扇を持ってたね。
 私もお前の踊りは好きだった。
 わずか五歳のお前の舞いが、本当に小さな梅の精に見えたものさ。大げさじゃないよ。
 本当に、お前は……小さくて、愛らしくて……いつも私の後ろをついてきて……


 と、そこまで語ったとき、白雪太夫の両手に力がこもった。
 話している間中ずっと手を握られていて正直困っていたんだけど、今は痛いほどで、俺はその手から逃れようと振り払った。そのとたん、白雪太夫はものすごい力で俺の手首を掴み直した。
「な、何すんだよっ」
「梅、思い出さないのかい」
「やっ、やめろっ」
「私がどんなにお前のことを可愛がっていたか」
「やめろってば」
 白雪太夫はその長身で俺に覆い被さる。この線の細い男のどこにこんな力があるんだ。
 片手で俺の両手を縫いとめて、白雪太夫はゆっくりと袷に手を差し入れた。
「やっ」
 白雪太夫の指が胸を滑る。
「これは、あの絵の先生に付けられたんだね」
 暗い瞳で見つめる白雪太夫。その人差し指が強く押すのは、国光のつけた紅い痕だ。
 役者の肌に痕は残さないと言っていた国光だけれど、俺が休みに入って舞台に立たなくなってからは、自分以外の誰にも肌を晒すことはないだろうと言って遠慮なくキスマークをつけるようになった。それが、まさかこの白雪太夫を煽ることになるなんて。
「んっ…」
 白雪太夫が、国光の痕を消し去るように唇を重ね、強く吸う。
 その感触が国光とのそれを思い出させて、不覚にも腰が震えた。
「梅…」
 ゆっくりと国光の愛撫を真似る動きに
「んッ…あ…」
 思わず甘い声を出して、唇をかんだ。
 何でこんなことになっちゃったんだ。
(国光っ…)





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