毎年七月、八月は、国光にとって一番忙しい時期だ。
 絵草子や錦絵の新作は正月一斉に発売されるのだけれど、この時代の印刷ってのは、絵師が下絵を書いてそれをお役所が認めてから、彫り師が彫って摺り師が摺って、そうして出来た十何枚もの校合摺にまた絵師が色を指定していって、それをまたまた、彫り師が彫って摺り師が摺って……と、気の遠くなる作業が繰り返されるのだ。
 だから、正月発売の下絵も夏の間に出来ていないと間に合わない。
 ところが国光は、この夏、俺と一緒に遊びほうけていた。
 誤解しないで欲しいんだけれど、国光は決して仕事を疎かにするようないい加減な人間じゃない。いや、なかった。過去形でごめん。
 俺が勘違いして家を飛び出したり、その後、紆余曲折あってよりを戻してラブラブになったりで、まあ仕事どころじゃなくて、二人盛り上がっていたわけ。

 その挙句――
「国光先生、今日中に十枚描いていただかないことには、私、ここから一歩も動きませんよ。もちろん、先生だって、この部屋から一歩たりとも出しゃしませんからねっ」
 版元の倉木屋さんにつかまってしまっていた。
 ご丁寧に、屈強な男三人がかりで出口を包囲されている。
 現代で言うなら、編集者に居座られてカンヅメ状態の漫画家ってところか。
「国光…」
 そっと覗き込もうとしたら、倉木屋さんが先に気づいて飛んで来た。
「ダメですよぅ、梅若さん」ぐいぐいと俺を外に押し出しながら
「どうして帰って来ちまったんですか」
「どうしてって、俺の家だよ」
「せっかく先生が一人になって集中しかけてるってぇのに、梅若さんが帰ってきたら、元の木阿弥じゃないですか」
 ヒドイ言われようだ。
「とにかくあと少しなんですから、もうしばらく長谷部様の所に行っといてぇおくんなさいよ」
「そんなぁ」
 まだどこか心配そうな長谷部さんを説き伏せて、源太郎さんが送るというのも辞退して、急いで帰ってきたのだ。
 せめてひと目会わせて欲しいと言うと、
「いけません」
 倉木屋さんは、ピシリとはねつけた。
「ひと目会ったら最後、お二人がどうなっちまうか、私にはわかります。ええ、もう、人目もはばからず、何始めるか……ああ、もう、もう」
 クネクネと身をくねらせる。
「やな言い方」
 人を淫乱呼ばわりするんじゃない。
 でもこんなに長く国光と離れていたおかげで、身体が寂しがってるのも事実だけれど。
「とにかく暗くなる前に、あと十枚は書いていただかないと」
「倉木屋さん」
「大体、梅若さんと一緒に遊びまわっているから、こんなことになっちまうんです」
 それを言われると弱い。
「しばらく、出かけててくださいよ。六ツまでは帰ってこないで下さい」
「…もぉ」
「ほら、ほら、ほら」
 俺は諦めて、時間を潰すことにした。
 夜になったら帰ればいい。
 それまでには、国光も仕事を終わらせてくれているだろう。
「がんばって」と声をかけたかったけれど、中に入れてもらえないんじゃしょうがない。
 仕方ないから、心の中で呟いた。
(がんばれ、国光)




 家を出て、さてどこに行こうかと最初の角で悩んだところを、不意に袖を引かれた。
 振り向くと、上品な手拭いを頭から被り端を咥えて顔半分隠した背の高い女が立っていた。
(誰だ?)
 じっと見つめると、女はそっと手拭いを開いて、その顔をあらわにした。
「あっ」
(和泉座の)
 女と思ったのは、あの白雪太夫だった。
(何で?)
 驚きに声も出ず立ち尽くすと、白雪太夫はひどく懐かしげに
「梅若」
 俺の名を呼んだ。
「久し振りだね」

 な、何?
 どういうことだ?

 白雪太夫は周りを気にして、
「立ち話も何だから、ちょっとそこまで、いいかい」
 近くの蕎麦屋に入ろうと俺を促がした。
「やっ」

 ドクンドクンと心臓が高鳴る。
 葛葉小僧に狙われていたかもしれない俺が、何でその和泉座の白雪太夫と一緒に行けるだろう。

 俺が動かないでいると、白雪太夫はほんの少し眉をひそめた。
「梅? どうしたの?」
「な…」
 情けないけれど、声が震えた。
「何で?」
「梅」
 今度ははっきりと眉間にしわを寄せて、
「なんだい、冷たいね。まさか、私のことなど忘れたとか言うんじゃないだろうね」
「し、知らないよ、本当に」
 俺の言葉に、白雪太夫の切れ長の目がすうっと細められた。
 突然俺の手首を握る。その力が恐ろしい。
 舞台の上で見た白雪太夫は繊細で華奢な少年のように見えたのに、今目の前に立つこの男は、俺よりも上背があり、力強い。
「何するんだよ」
「お前こそ、何を怯えているんだい。まさか私がお前に何かするとでも思っているのかい」
 してるだろう。腕、はなせよ。
 そう口に出そうとしたとき、
「何してる」
 背中からよく知る声。
「長谷部さん」
 小銀杏と呼ばれる八丁堀風髷に羽織を着流し、紺足袋に雪駄。与力姿も凛々しい長谷部さんが立っている。
 白雪太夫は慌てて俺から腕を放すと、
「今夜四ツ
(夜十時)、竜閑橋で待っている」
 絶対来ておくれと囁いて駆け去っていった。
「梅若、今のは…」
「……」

 最後に俺をじっと見た白雪太夫の瞳が意外にもひどく切なくて、俺は言葉を失っていた。




「今のは誰だ?」
 長谷部さんに訊ねられて、一瞬、躊躇した。
「梅若?」
「あ、その…白雪太夫」
「なんだって?」
 長谷部さんが驚いて振り返ったけれど、とっくに姿は消えている。
「顔がよく見えなかった。あいつが、そうか…」
 呟いて、俺を振り返る。
「襲われてたのか?」
「う、ううん…」
 わからない。
 腕をつかまれて恐ろしかったけれど――
『梅若、久し振りだね』
『竜閑橋で待っている。――絶対来ておくれ』
(あれは…)
 俺に危害を加えようとしていたわけじゃない、って気がしてきた。
(でも、じゃあ何故?)
 奇しくも長谷部さんが同じ台詞を言った。
「何故、こんなところまで来て、お前に絡んでたんだ?」
「……梅若と白雪太夫は、昔、知り合いだったのかな」
「えっ?」
「俺に、久し振り、って言った」
「本当か?」
「うん」
「ほかには?」
「えっ?うん…えっと、自分のこと忘れたのか、って…」
「ふむ」
「知らない、って言ったら腕をつかまれて…」
「本当に知らないのか?」
「知らない。っていうか、言っただろ?俺は、本当の梅若じゃないんだから」
 俺の言葉に、長谷部さんはほんの少し複雑な顔でうなずいた。
 長谷部さんにも、俺が本当は未来の人間で、同じ顔をした梅若の霊に呼ばれてこの江戸時代にやって来たって話はしているんだけれど、国光同様、本気で信じてくれてはいないらしい。
 まあ、もっともだけどね。
「知り合いだったとしたら、子供の頃か?あいつは八年前に江戸から大坂に連れて行かれているからな」
「八年前」
 本当の梅若だって、十歳にもなってない。
 そんな子供の頃に、白雪太夫と梅若にどんなつながりがあったと言うのだろう。
(気になる……)

「ふうむ」
 腕組して考える様子の長谷部さんに、
「そういえば、長谷部さんはどうしてここに?」
 訊ねたのは、俺がさっき長谷部さんの家を出てきたばっかりだったから。
「俺に用があって追いかけてきたんでしょう?」
「ああ、葛葉小僧の件で引っかかることがあって」
「引っかかる?」
「大したことじゃねえが、伝えておこうかと思ってね」
 長谷部さんは、さり気なく左右を見渡した。往来の人々は、俺たちの会話を気にすることもなく、忙しそうに歩いている。
「何?」
 俺はそっと道の端によりながら訊ねた。長谷部さんも並んで歩いて
「大坂の火付けと江戸の火付け、その手口が何となく違う気がしてね」
 小声で言う。
「違うって、どう違うんだ?」
「うーん、実際この目で見たわけじゃねぇし、書類を読んだだけで、はっきりたぁいえねえが」
 長谷部さんはボリボリと首の後ろを掻いて
「大坂の三度の火事は、それなりに間があいていて、しかも火をつけられた家以外焼けてねえ。そのうち一つは小火
(ボヤ)だしな」
「でも、盗みはあったんでしょう?」
 俺たちは、歩きながら会話した。
「そう、それもな、最初の火事がおきた時、葛葉小僧はその屋敷に盗みに入ってる。母屋が焼けて蔵がやられた。続いての二度の火事は、盗みに入られた家とは、違う家が燃えてるんだが……」
 黙って考え込んでいる。そして
「いや、なんかすっきりしねえのよ」
 吐き出すように言った。
「江戸での火事は、立て続け。しかも、盗まれた物もなあ」
「違うの?」
「大坂では刀や骨董の類なんだが、江戸じゃ、金」
「ふうん」
「盗賊が置いてった絵が白狐ってだけで、一緒にしちまってもいいもんか……」
「その狐の絵は同じなの?」
「ああ」
「じゃあ、関係ないってことはないよね」
「まあな」
「和泉座の下男が葛葉小僧だったってのは、本当なんでしょう?」
「そう自白したらしい」
「だったらじきに、そいつが全部しゃべるんじゃないの?」
 火盗改め方の取り調べは恐ろしいらしい。
「うーん…まあ、なあ」
 長谷部さんは、今ひとつすっきりしない顔。
「それにしても、その和泉座の白雪太夫がお前に会いに来たってのも、俺にとっちゃ引っかかる話なんだが」
 気を取り直したように、俺にふる。
「あ、うん」
「ほかにも何か言われなかったか?」
「ううん…別に…」
 とっさに竜閑橋への呼び出しのことを隠してしまった。
「長谷部さんに声かけられて、慌てて走って行ったし…」
 自分でもどうして隠したのかわからなくて、言った後、背中に冷や汗をかいた。
 理由はわからないけれど、最後に見た白雪太夫の、あの表情
(かお)のせいかも。
切なくて、どこか苦しそうに見えたんだ。
「そうかい――そういや、お前、何でこんなところ歩いているんだ?」
「えっ?」
「国光先生はどうした?」
「ああ」
 俺は、国光のカンヅメ状態を話した。
「そりゃあ、お気の毒さま」
 俺の話を聞いて、クツクツと笑う。
 意地悪だ。
「どうする? またうちに来るか?」
「ううん、ちょっとぶらぶらしてから帰るよ」
「そうか。さっきのこともあるし、あんまり出歩くのはどうかと思うがな」
「大丈夫だよ。六ツ
(日没)前には戻るし」

 長谷部さんの屋敷を抜け出すのは大変だ。国光の家ならなんとか。
 俺は今夜、竜閑橋まで行くつもりになっていた。





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