ジャン ジャン ジャン ジャン……

 夢うつつに半鐘の音が聴こえた。
(火事だ)
 俺は目を覚まし、身体を起こそうとして、国光の腕に抱かれて動けないのに気がついた。
「国光、火事だよ」
 そう言うと、国光は腕に力をこめて俺を抱き寄せた。
「大丈夫、あの音じゃ、近くはないよ」
「でも」
 俺は、無理やりに国光の腕を振り解いて起き上がった。
「梅若?」
「俺、ちょっと見て来る」
「あ、おい、コラ」


 火事と喧嘩は江戸の華――本当に、江戸の町には火事が多い。華と呼ぶのは焼け出された人たちに気の毒だけれど、燃える家を囲んでの火消しの大騒ぎは、まるでお祭りだ。
 ごうごうと舞い上がる火煙、風呂敷き包みや大きな荷物を抱えて飛び出してくる人々。中には大八車に家財一式乗せた人も。
 火事が多いから、普段から大切なものはすぐに持ち出せるようにしているらしいけれど、だったら初めから火事を防ぐ方法を考えられないのかな。
 こんなに燃えやすい木の家をぎっしり並べて建てたりしないで、燃え広がらないように隙間を造ったり防火林もどきなんか植えたりすりゃいいのに。
 それに消火活動だって……
「倒れるぞおっ」
 誰かの叫んだ声に続いて、ズン…と壁や柱の崩れる音が響いた。
 延焼を防ぐ為に、火消しが燃えている家の隣家を取り崩したのだ。
 うわあっ、と喚声が上がった。
 見遣った先に、派手な纏を持った男が誇らしげに立っている。
 俺に言わせりゃあ、この纏持ちも不思議な仕事だ。消火活動にあたるでもなく、燃える家に一番近い屋根の上で、火の粉を浴びながらひたすら纏を振る役目。
(このおかげで、お祭りっぽく見えるんだよな)
 他の火消しの為に目標物を知らせて鼓舞するってものらしいけれど。
(…危ないだろ?)
 ぼうっと見てたら、やはり上を向いて歩いていたらしい男に突き飛ばされて、俺はそのまま後ろによろけて、お侍にぶつかってしまった。
「あ、すみません」
 俺をにらんだ顔が険しかったので一瞬ビクッとしたけれど、そのまま、視線を燃え燻る家に戻したので、俺に対して怒っている訳じゃないと知れた。
(忌々しいのは、火事だよな)
 今月に入ってもう何度目かの火事だ。俺が知ってるだけでそうなのだから、江戸の夜は、いつもどこかで火事が起きてるんじゃないかな。
 俺は、家を出る時に勝手に着てきた国光の利休柳の羽織の襟を胸の前でかき合わせた。


 家に戻ったら、国光が憮然としていた。
「梅若、いいかげんにおしよ」
 俺の手をつかんで、布団の中に引き戻す。
「火事見物なんて趣味が悪い」
「見物人、大勢いたよ」
「野次馬ってぇ、言うんだよ」
「別に、俺は、野次馬根性で見に行ってるんじゃないよ」
 初秋の夜風にあたって冷えた身体が、国光の肌に包まれて気持ちいい。
 足を絡めたら、下からぬくぬくしてきた。
「なんか、気になっちゃってさ」
「何?」
「あの焼けた家にすんでた人たちは、明日からどうするんだろ」
「親戚の家に行くのさ」
「そうだろうけど」
「そして、また新しい家が建つ」
「鉄筋コンクリート建てにすればいいのに」
「え? 何? …またおかしなこと言ってるんだね、梅若」
 国光はクスリと笑って、俺のうなじに口づけた。
「んっ…」
「すっかり目が覚めちまった。こっちもね」
 国光は俺の手をとって、自分のアレに導いた。熱を帯びて形を変えた国光に、俺の身体も熱くなる。
「ばか…」


 俺は、話すと長くなるけれど、一言でいえば二十一世紀から江戸時代にタイムスリップしてしまった十七歳だ。今は、中村座で女形をやっていて、恋人の絵師歌川国光と一緒に暮らしている。中村座の芝居は九月(旧暦)からなので、長い夏休みのラストを楽しんでいるところ。人気絵師の国光は、本当は正月に向けてすごく忙しい時期なんだけれど、俺に合わせてくれている。
「梅若、明日は両国の見世物小屋に行こうか」
「うん」
 と応えかけて、
「あ、ダメ。明日は、俺、長谷部さんちに行く日だよ」
 八丁堀の長谷部さんの名前を出すと、国光の眉間にしわが寄る。
「まだ、やっとう(剣道)の稽古続けるつもりかい」
「そりゃあ、まだ始めたばっかりだし」
「生兵法は怪我の元」
 わざとらしくため息をつく国光をにらんでやったら、国光は俺の指を取って、爪の先に口づけた。
「このきれいな指に、剣術ダコなんか作んないでおくれよ」
 そのまま、国光の口に含まれて、
「国光…」
 指の先から背中へと、ジンと痺れが走ったその時、
「あ、タコと言えばね」
 いきなり、素になった国光が半身を起こした。
「倉木屋さんが、明石から蛸が届いたって言って、明日うちに持って来てくれるそうだよ」
 タコつながりかよ。
 ムードもへったくれもない話に、笑ってしまって
「じゃあ、明日の夜は茹蛸だね。辛子味噌つけて食べよう」
 そう言ったら、
「その前に、絵の材料に使えって言われてるんだけど」
「えっ?」
 国光が、コショコショと耳元で囁く、その下品な提案に
「バッ…カ、か! この変態っ!」
 俺は肘鉄で応えた。





* * *

「やば……遅くなっちゃったよ」
 長谷部さんの役宅を出たのは、すっかり暗くなった宵五ツ
(午後八時)
 家で待っている国光を思うと、気が重い。
 やっぱり、あの風呂の後がいけなかった。
 剣術の稽古が終わって、かなり汗をかいていたので勧められるままに風呂に入った。それはよくあることなんだけれど、風呂から上がると、同心の鈴木源太郎さんが顔を出していた。以前、長谷部さんの家にお世話になってたとき以来、久し振り。源太郎さんは同心の中でも一番年が若くって、あの頃、俺に色々気を使ってくれて、よく団子や菓子を持ってきてくれては静さんと三人でおしゃべりした。
 懐かしくって、これまた勧められるままに、ちょっとだけのつもりで酒の席についたら……気がつくと一刻
(二時間)も過ぎていた。

 泊まっていけって勧められたけれど、とんでもない。
 家で蛸を茹でて待っているだろう国光が恐ろしい。
 怒りに顔を赤くして、あいつこそ茹蛸状態だったりして……。
 笑えない冗談。
 国光は、あれで結構なヤキモチやきだ。
「俺が長谷部さんちに行った日の夜は、いつもよりずっとヤラシイんだよな」
 とか呟いて、実は、密かに期待している自分に赤面。
 ちょっとでも早く家に着きたくて、近道をすることにした。
(たしかこっちの道……)
 月がいったん隠れてしまうと外灯も何も無い道は真っ暗で、それこそ鼻をつままれても分からない。けれどもここまで来たら、家はもうすぐのはずだ。
(それにしても、月が出てくんないとこんなに暗いんだなあ)
 月の面を隠した分厚い雲を恨めしげに見上げたその時、誰かが激しく俺にぶつかった。
「いてっ」
 倒れこそしなかったものの大きくよろけた俺を、相手は振り返って見たようだったが、すぐにそのまま走っていった。
「何なんだよ」
 ムッとそいつが消えたほうをにらんでいたら、
「いたぞっ」
「大人しくお縄にかかれっ」
 二人の男に押さえ込まれて、俺は驚きのあまり心臓が止まりそうになった。

「火付盗賊改方だ」

 火盗改めが何で俺を捕まえるんだよ。





「俺じゃねえよっ」
「嘘をつくな」
 ここは、どっかの旗本屋敷の土蔵か何かの中だ。
 あのまま、二人の男に引き摺られるようにしてここに連れてこられた。両手も後ろ手に縛られて、すっかり罪人扱いだ。
「付け火しようと油を撒いているところを、私が、この目で見たのだ」
「だから、それは俺じゃなくて、その前に俺にぶつかって来た男だろっ」
 あの慌てて走り去った様子が、いかにも怪しいじゃないか。
「ほう、それは、どんな男だった」
「そ、それは…」
 俺は、口ごもる。
 顔なんて見ちゃいない。
 ていうか、見たけどわからなかった。
 俺は、この江戸の夜の暗さに慣れてないから、ここの奴らに比べて全然夜目が利かないんだ。
「見たのだろう」
「見たけど、暗くてよくわからなかった」
「嘘をつけ」
「嘘じゃないってっ」
 俺を詰問していた年配の侍の後ろから、少し若手の侍――二人とも火盗改めの同心らしい――が、突然大きな声を出した。
「お前、どこかで会った顔だと思ったら、昨日の夜、近江屋の火事現場にいたな」
「あっ」
 俺は、自分がよろけてぶつかった侍のことを思い出した。
「何だと? それは本当か」
 年配の同心が、若い方に念を押す。
「間違いないですよ」
「ますます、怪しい」
 二人が俺の顔をじっと見る。
(そんな…)
 さすがに、俺は焦ってきた。この時代、付け火
(放火)は死罪だ。
「は、長谷部様を呼んでください」
 こうなったら、長谷部さんに頼るしかない。なんせ、江戸の町にその人ありと言われる北町奉行所の鬼与力だ。
「長谷部というのは、北町奉行所の長谷部兵庫か」
「北町の長谷部とどういう知り合いなんだ」
 予想に反して、二人の同心はより険悪な雰囲気になった。
(ひょっとして、何か間違った?)
 青ざめていたら、俺の後ろから誰か入って来た。


「長官
(おかしら)
「これは、お早いお着きですね」
 長官と呼ばれたのは、年は四十くらいか、温和そうな顔の小柄な男だった。
「ちょうど近くまで出張って来てたんだよ。江戸の町を騒がす葛葉小僧を捕まえたと聞いて、飛んできた」
「はっ」
 二人は、恭しく頭を下げた。
「ちょっと待てッ!」
 俺は叫んだ。
「クズハコゾウってのは、なんだよ」
 そんなクズのコゾウにされてたまるか。
「ふむ」
 火盗改めの長官は、じっと俺の顔を見た。
「俺は、たまたまあそこに居あわせただけで、火付けなんてやっちゃいないからなっ」
「ふううむ」
 間延びした声を出して、長官は
「証拠はあるか?」と聞いてきた。
「お前が火付けをしたのではないという証拠は」
(証拠…)
 俺は、考えた。
『付け火しようと油を撒いているところを、私が、この目で見たのだ』
「あっ」
 俺は顔を上げてその長官の小さな目をじっと見て言った。
「水を。水を用意してください」
「水?」

 すぐに桶に水がはられてきた。
「水をどうするのだ?」
 長官が興味深げに覗き込む。
「さっき、俺が油をまいてたのを見たって言いましたよね」
 振り返って訊ねると、
「あ、ああ」
 年配の同心がうなずく。
「どんな風にまいてました?」
「どんなって、普通に、瓶からドブドブと束ねた枯れ枝にこぼしたり、壁にかけたりしていただろう」
「その瓶は?」
「お前が捨てて行っただろう。落ちていたぞ」
「油でベトベトでしたよね」
「あ、ああ、そうだ」
「俺の手を解いて下さい」
「何だと?」
 目を剥いた。
 突然何を言う、という顔だ。
「うむ、解いてやれ」
 長官が言って、若い方が俺の腕を縛っていた縄を解いた。
 手首に赤い痕がついている。ちくしょう。
「俺が本当に油をまいていたのなら、俺の手にはその油がついているはずですよね。油がついていたら、水の表面に油膜が張られるはず」
 俺は、ザブッと両腕を水の中に入れた。
「見てくださいよ」
 灯かりが近づけられ、水の表面を照らす。
 水は濁ってなかった。油を示す虹色の膜はどこにもない。
「俺は、油なんか触っちゃいない」
「ほう」
 長官が感心したように言うと、
「手だけでわかるか」
 若い同心は、俺を犯人だと決め付けて言った。
 俺は、キッとにらんで
「足だって入れてやるよ」
 裾を捲り上げて、裸足になって、両足突っ込んだ。
「ほほう」
 長官が嬉しそうな声をあげた。
「なんなら、着物だって、全部…」
 勢いあまって、帯を解いたら、
「いやいや、もうそのくらいでよい」
 長官が手を上げて、俺を止めた。
「この二人は、独り者と男やもめだから、これ以上刺激するな」
 はははは……と笑う。
「長官っ」
 若い方が赤い顔をして小さく叫ぶ。
「せ、拙者は、別に……」
 年配の方は、咳払い。
 言われて、自分の姿を見て焦った。
 国光に知られたら、間違いなく大目玉をくらう格好だ。


「いや、悪かったな。梅若」
「は?」
 何で、名前を?
「さっき、北町奉行所の長谷部の名を出していただろう?あの朴念仁が 最近中村座の女形にご執心だと、口の悪いうちの連中の噂でね」
「へっ?」
「中村座の梅若?」
「これが」
 二人の同心は、改めてマジマジと俺を見た。
「お前たちゃ、芝居なんざ見ない無粋者だから、名前は知っちゃいても、顔はわかんなかったんだろ」
「は」
「いや、どうも…」
 二人は、気まずそうにうなだれた。
「俺が梅若って知ってて、何ですぐ縄を解いてくれなかったんだよ」
 俺は、憮然と尋ねた。
「いやいや、たとえ江戸一番の女形さまでも、疑いが晴れないうちは、のう」
 細い目をますます細めて、長官は言った。
「おかげで、よいものを見れた。眼福、眼福」

 俺は、慌てて着物の前をかき合わせた。




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