「マリ、何してんだ?」
いつまで待っても帰ってこない万里に痺れを切らして、アンジェロは万里の部屋に迎えに行った。
万里は、あの後しばらく食堂にいたのだが、いつまでもそこに座っているわけにもいかず、かといって居間に帰ってアンジェロの顔を見る気にもなれず、自分の部屋でぼんやりしていた。
「まだ寝ないの?」
万里の腰を引き寄せたアンジェロが唇を寄せてきた時、万里は無意識にその手を払った。
「何?」
アンジェロは目を見開いた。
「あ、ごめん」
口癖で謝ってしまった後、
(何で謝らないといけないんだ)
万里はムッとした。
「何だ、機嫌悪いな」
アンジェロはクスリと笑った。
万里は、その笑いが癇に障った。それに――
(ついさっき喜美子姉さんとキスしていた唇で、触れてくるなんて!)
「アンジェロ、僕、今日、こっちで寝るから」
「何で?」
「風邪気味なんだよ……移すといけないから」
ムッとしたまま答える万里を、
「別に、移して構わないのに」
アンジェロは、背中から抱きしめた。
「やめろよ」
いつに無く厳しい声がでた。
「マリ?」
「ここは…日本なんだから……それに家の中だろ」
言っているうちにムカムカしてきた。
見たくなかったキスシーン。
「誰に見られるかだってわからないのに、何考えてんだよっ」
顔を赤くして叫んだ万里の額に手を当てて、
「確かに、熱があるみたいだな」
アンジェロは言った。
「……だから、もう、寝るよ」
ポツリと呟いて、万里はベッドの中にもぐった。
アンジェロは、しばらく部屋にたたずんでいたけれど、くるりと踵を返して出て行った。
背中を向けていた万里には、その表情は、見えなかった。



「何か、本当に熱っぽいかも……」
明け方、布団の中で万里は、自分の額に手をやった。
結局、一晩中、眠れなかった。
自分の恋人と姉とのキスシーンがちらついて眠れなかったというのもあるが、その後の自分の態度も後悔していた。
あの時、はっきり聞けばよかった。
風邪だとか嘘ついて、八つ当たりのように叫んで、アンジェロをひとり階下に返した。
(僕が何に怒っているか、わかってくれたかな……)
はっきり言わないと、わからないかもしれない。たぶん、わからないだろう。
とにかく、拗ねていてもしかたない。何で二人があんなことになっていたのか、ちゃんと聞こう。
そう決心すると、突然眠気が襲ってきて、万里はゆっくり瞳を閉じた。


「万里、風邪、大丈夫なのか?」
万里が寝起きのぼおっとした様子で一階に降りると、勇人がとんで来て、万里の顔を心配そうに見た。
「あ、うん……アンジェロは?」
「出かけた」
「えっ?」
反射的に壁の時計を見ると、もう昼過ぎだった。
(こんなに、寝ていたのか?)
いくら寝たのが明け方でも――
「起こしてくれれば、よかったのに」
「風邪で具合悪そうだって聞いたんだよ。実際、一度のぞきに行った時には、ぐっすり寝てたし」
「あ、そうなんだ…」
万里は、ちょっと赤くなった。
「でも、アンジェロ、いったい、一人でどこに行ったんだ?」
慣れない日本で。
「……一人じゃないよ」
「えっ?」
「喜美子ネエが一緒」
「嘘だ」
思わず出た言葉は、動揺を表している。
勇人は、素知らぬ顔で答えた。
「嘘じゃないよ。二人で、仲良さそうに出かけたぜ」
勇人は、愛する万里を自分のものにしておくためなら、嘘も方便だと思っている。
例えその嘘が、最愛の兄を傷つけたとしても。
「なんかさあ、喜美子ネエとアイツ、急に仲良さげなんだけど、何かあったのかな。イタリア男って、手ぇ早いって言うじゃん?昨日、夜中トイレに行った時、喜美子ネエが階段下りて行ったの見たんだけど、まさか、アイツの部屋に行ったんじゃないよなあ」
「まさか」
と言いつつも、万里の唇は小さく震えていた。

(夜中に?喜美子姉さんが、アンジェロのところに?)

考えられない――ことは、無い。
二人はキスしていたのだ。

『アンジェロだって、イタリア男なんだから、女の子の一人や二人……』

エリザの声がよみがえる。
「まっ、喜美子ネエだって、十分オトナなんだから、ナニガアッタトシテモ、俺たちが口出すことじゃないけどね」
勇人はキシシと笑った。
「…………」


何で?
何で、喜美子姉さんと?
万里は、じっと考えた。
そして、はっと思い当たった。
(あの日……)
あの夜。
疲れているから嫌だと言って、アンジェロの腕を拒んだ。
(あの時、アンジェロは渋々諦めてくれていたけれど―――)
十代の精力有り余ったアンジェロは、あっちの方は疲れ知らずだ。
イタリアにいた時は二日と空けずに関係していた。一日二回なんてのももざら。
それなのに、昨日も一昨日も、ついでに言うとその前も、自分たちはつながっていない。
(だから―――?)
万里は、無意識に自分の身体を抱きしめた。





その頃、アンジェロは本当に喜美子と出かけていた。しかし、勇人の言う『仲良さげ』な雰囲気では全く無い。
「何で、アンタがついて来るんだ?」
「日本語、話せないんでしょ?」
「たいがいのホテルには、英語がしゃべれるヤツがいる」
「まあ、そうね」
二人が向かっている先は、ホテル。
何故、この二人が一緒にそんなところに向かっているのか。

アンジェロは、考えた。
あの家にいる限り、万里とセックスはできない。何しろ万里は慎み深い。カメララヴェンナでも声が外に洩れるのが嫌だと、相当恥ずかしがっていた。
ましてや、家族が同じ屋根の下にいるとしたら、絶対にやらせてもらえないだろう。
昨夜の不自然な避け方――風邪だといっていたけれど――も、そこに理由があると思った。
「日本に来てからまだ一度も……」
イタリア語で呟くと、
「えっ?何?」
隣を歩く喜美子が、首を傾げた。

喜美子は、昨日の件でアンジェロに興味を持った。可愛い弟の恋人は、ただのホモでもタラシでもなさそうだ。小僧と思って侮っていたけれど、様子見にちょっと付き合ってみたいタイプ。
それで、出かけるアンジェロの後ろを暇にあかせてプラプラとついて来ていた。
「別に、うちにいればいいじゃないの」
「そういう訳に行かなくなった」
「私とキスしたから?」
喜美子の言葉に、アンジェロはハッとした。
信じられない話だが、昨日喜美子とキスしたことはすっかり忘れていた。
アンジェロにとっては、取るに足りない出来事で、遊びの延長。
けれども、もし、アレを万里が見ていたとしたら――?
(――まさかね)
だったら、はっきり訊くだろう。
その場で、何してるんだって怒鳴ってくれてもいい。
「ねえ、アンジェロってば」
「違うよ」
「やっぱりね」
アンジェロは、とにかく万里と二人きりになれる場所を求めて、万里の家に近い、それなりに快適そうなホテルを調べてチェックインしようとしていた。
それが済んだら、眠っている万里をさらってくるくらいの気持ちだった。




「二人は、どこに行ったんだろう……」
万里がポツリと呟くと、
「ホテルって言ってたわよ」
タイミングよく、母親が台所から出て来て言った。
(ホテル――?)
愕然とする万里。
勇人もそれには驚いた。
アンジェロが出かけるのに、今日から盆休みの喜美子が付いて行ったのは知っていたが、まさかあの二人でホテルに行くなんて。
上村兄弟の誤解に気づかない母親は、頬に手を当てのんびりと、
「駅前のグリンホテルじゃないかしらねえ」
調べていたし……と言う。
次の瞬間、万里は駆け出し、家を飛び出していた。
勇人も慌てて後を追う。
「別に、家は、ずっと居てくれてもいいのにねぇ、でも、やっぱり落ちつかないかしらね……あら?どうしたの?」
突然目の前から消えた二人の息子に、母親は不思議な顔をした。



万里は走った。
何が何だかわからないけれど、とにかく、グリンホテルに行って確かめないといけない。
レストランを併設している万里の家は駅にも近く、グリンホテルにもすぐだった。
回転ドアを入る時のベルボーイのぶしつけな視線に、自分の格好がパジャマ代わりのTシャツと七分丈のコットンパンツというホテルにそぐわない格好だということに気がついたけれど、そんなことはどうでもよかった。
磨きこまれたロビーを通り抜けて、アンジェロの姿を捜すと、人々が振り返る先にモデルのような立ち姿。
「アンジェロ!」
フロントの前、驚いて振り向くアンジェロの右手にはブルーのカードキー。
そしてその隣で、同じく驚いたように目を瞠っているのは姉喜美子だ。
カッと頭に血が上った万里は、そのままアンジェロに突進して、
「バカやろうっ!」
殴りつけた。
「浮気者っ!死んじまえっ」
顔を真っ赤にして叫んだ万里は、そのまま踵を返して、駆け去っていった。
何が起きたかわからず、呆然と立つアンジェロ。
喜美子と勇人も唖然としていた。
(あの万里が、人を殴るなんて……)
(しかも、グーで……)

最初に自分を取り戻したのは、亀の甲より年の功の喜美子。
「勇人、何で?」
「喜美子ネエこそ、何でコイツとホテルになんかしけこんでんだよ。まさか、ミイラ盗りがミイラ……」
「バカ言ってんじゃないわよ」
「……マリは、何か、誤解しているみたいだ」
アンジェロが静かに呟いて、ジッと勇人を睨んだ。
「う…」
「マリに、何を言った?」
「ううっ……」
「ユウト」
アンジェロの迫力に圧される勇人。
「き、喜美子ネエ…」
「私に振んないでよっ」
「二人で何か企んでいたのは気がついてた。でも、それでマリを傷つけたとしたら、許さない」
「ううう……」
この後、上村姉弟は、アンジェロに全てを白状するところまで追い込まれた。



「とにかく、万里に謝りましょう」
喜美子が言って、三人で家に戻った。
万里の部屋に行ったけれど――
「いない」
「うそっ」
顔を見合わせる三人。
「お母さん、万里は?」
「あら、勇人、一緒に出たんじゃなかったの?まだ帰って来てないわよ」
母親の言葉に、勇人は青くなった。
「帰ってないって……」
喜美子がアンジェロを見上げる。
アンジェロは、再び玄関に向かい、靴を履く。
「どこ行くんだよ」
「捜しに行く」
「だって、どこにいるか……」
勇人の言葉を無視して、アンジェロは出て行った。
「チッ」
勇人も続いて靴を履く。
「行くの?」
喜美子が声をかける。
「うん、万里帰ってきたら、携帯に電話して」
「わかった。私も、万里の行きそうなところ電話してみるよ」

その日、万里はずっと帰ってこなかった。




HOME

小説TOP

NEXT