「遅いじゃないか、万里、どこまで行ってたんだよ」
「遅いって、まだ七時前だよ?」
玄関に飛び出してきた勇人に、万里は驚いて応えた。
「どこに行ってたんだよ」
近所を探し回ったのに、見つけきれなかった勇人は不機嫌だ。
「お前の高校」
万里はいたずらっぽい顔で勇人を見た。
「へっ?」
「それから、富中」
「中学校?」
「そうそう、知らなかったんだけど南小って建て替えしたんだな。スッゴク新しくなっててビックリした。でも、裏山の大欅も銀杏の樹も全然変わってなかったのが、なんか嬉しかったよ」
「学校巡りかよ」
「ふふふ……」
生まれてからずっとこの町に住んでいると言った万里に、万里の通った学校や思い出の場所に連れて行けと言ったのはアンジェロだった。
高校、中学、小学校、そして幼稚園とさかのぼって、小さい頃遊んだ公園や学校帰りによく登った小学校の裏山などを見て歩いた。
「自分が大きくなっているから、かなり印象違うかと思ったんだけどさ。ふとした拍子に感じる風の匂いとか陽射しのチリッとした感じとか、あの頃と同じでさあ。なんだか、すごく懐かしくなっちゃったよ」
アンジェロの隣で幸せそうに微笑む万里に、勇人は胸に澱む不快な気持ちをぶつける。
「何、詩人こいてんだよ」
「えっ?…違うよ、そんな。どうしたんだ?勇人」
「メシ、出来てるから」
「あ、ああ」
プイと去っていく弟の背中を見送って、万里は困ったような顔でアンジェロを見た。
アンジェロは、全てわかっているような顔で頷いた。


そして勇人はドップリ後悔していた。
「あんなこと言うつもり無かったし」
大好きな兄にあんな憎まれ口を叩くはめになったのも、全てあのイタリア男のせいだ。
(アンジェロさえいなければ……)
小学校だろうが海だろうが山だろうがたとえこの世の果てだって、愛のメモリーツアーに自分が随行してやったのに。
その落ち込む勇人の背中をどついたのは姉喜美子。
「悩んでないで、手伝いなさいよ」
「あ?ああ…何すればいい?」
「夕食の後、万里と彼を引き離しておいてほしいんだけど。なるべく、自然にね」
「うーん」
「大丈夫?」
「何とかする」
勇人は思いつめた顔で頷いた。


「万里、買い出し、付き合ってくんない?」
夕食の後、アンジェロが風呂に入っている隙を狙って、勇人が声をかけた。
「今から?」
「うん、明日から盆休みだから色々買ってこいって言われてたの忘れて……」
近所の24時間スーパーに行くのに車を出せと言うと、万里はちょっと困った顔で考えて、
「じゃあ、アンジェロに声かけて来る」
風呂場に行こうとした。
「すぐ戻るよ」
「う、ん……」
「ほら、ちゃっちゃと行って帰ってくればいいだろ」
不機嫌になる勇人に、万里は仕方なくうなずいた。玄関のカウンターにあるキーボックスから家族共用の車のキーを出す。
高校二年生の勇人だけが、まだ免許を取っていない。
「何を買うの?」
「お盆の堤燈に入れる電球と、ろうそくとお供え」
「明日でもいいのに」
「あと、タバコと酒」
「父さんのか」
「酒はみんなのだよ」
「まあね」
「ビールは箱で二つ買って来いって言われてるんだ。だから車じゃないとダメなんだよ」
「うん」
助手席に乗り込んだ勇人は、運転する万里の横顔を盗み見て、何気ない風を装って言った。
「アンジェロって、いい男だよね」
「えっ?」
万里は、驚いて振り向いて、直後、慌ててハンドルを握りなおす。
「何?いきなり」
「ん?いや、ハンサムだし、さぞイタリアでもモテたんだろうな、って」
「うん…そうだね」
「当然、彼女とか、いるんだろうな」
勇人の言葉に、万里はエリザの顔を思い浮かべた。

『イタリア男なんだから、彼女の一人や二人いるわよ』

結局、過去のことを訊ねてもアンジェロは答えなかったし、万里もそんなことをグズグズ聞くのは男らしくないと思うので、二度は聞かなかった。
けれども、アンジェロはどこにいても常に女性の視線を集めるので、一緒にいると落ちつかない気分になるのも確かだった。

「万里?」
「んっ?何?」
「どうしたんだよ、黙り込んで」
「ううん、別に」
「ちゃんと前見て運転しろよ」
「してるじゃないか」



その頃、風呂からあがったアンジェロは、部屋に万里の姿が無いのに気がついたが、また着替えを取りに行っているのだろうくらいに思っていた。
そこに――
「こんばんは」
声とともに、スルスルと開く襖。
風呂上りの汗を拭っていたアンジェロは、意外な人物にほんの少し驚いたように眉を上げた。
「お邪魔していいかしら」
返事も待たずに、喜美子が入ってくる。どうしたことか、浴衣を着ている。
喜美子のジャパニーズフェロモン大作戦。
外国の男を誘惑するにはやはり浴衣だろうと、わざわざ引っ張り出したもの。
まさか前日に実の弟が着て見せているとは思わない。
目を瞠るアンジェロに
(ふふふ……見惚れているわ)
内心、大満足。
「ちょっと、お話してもいいかしら」
しなを作って、卓袱台に向かう。かってに――といっても自分の家だから当然か――座布団を敷く。
「何でしょう?」
タオルで首を拭って見返すアンジェロの視線を捉えて、喜美子は妖艶な微笑を見せた。




「あ、しまった、車の中に財布忘れた」
レジに並んで、突然勇人が言った。
「取りに行って来るから、万里、ここで待っててくれよ」
スーパーの買い物カゴを預けて、勇人は店を出て行った。
実は、これは勇人の作戦。
車の中で財布を捜すふりをしながら時間をつぶして、万里を引きとめようとするもの。
その間に、長女喜美子がアンジェロを誘惑すると言うのが、今回のシナリオだ。
(喜美子ネエ、今ごろしっかりやってくれてるんだろうな…)
何だか不安を感じる勇人。
実は、今まで万里が仲良くなった友だちは、ことごとくこの作戦で邪魔してきた。
万里が高校に入ったばかりの年、初めて「親友」と言って連れてきた少年は、美喜子姉の誘惑にメロメロになりその後手酷く振られて、それっきり気まずくなったらしく、万里にも近づいてこなかった。
万里には可哀相な話だが、上村兄姉弟(きょうだい)はそれだけ、この次男を偏愛しているのだ。

(でも、今回、何か、間違った気がする……)

さっきからの不安の理由を探って、勇人は、重大な事実に気がついた。

「ダメじゃん!あいつ、ホモなんだから〜!!」

ホモに女の喜美子が迫ったところで引っかかるわけが無い。だったら、まだ兄の一弥に誘惑させた方が良かったんじゃないか?
実際は、アンジェロはホモというよりバイに近いが、そんなことまで知らない勇人は、車の中で頭を抱えた。
「ああああ……」
その時、トントンと窓ガラスを叩く音がした。
万里が微笑んでいる。
「どうした?財布見つからなかった?」
後部座席に缶ビールのケースを入れて、万里は運転席に乗り込んできた。
「な、何で?まだ、財布……」
勇人が、愕然とすると、
「うん、僕が持ってきてたから、会計済ましてきた。後でちゃんとくれよ」
自分の財布をチラリと見せて、車のエンジンをかける。
(う、うかつだった……)
迂闊、それ以前の問題かもしれない。
とにかく勇人の作戦は、失敗だった。



そしてその頃の上村家でも、喜美子が浴衣でアンジェロを悩殺しようとして、失敗に終わっていた。
不自然に開いた胸元も、ちらりと見える足の白さも、はっきり言って昨夜の万里の方が艶めかしくて、数段上。
アンジェロはしばらく経つと喜美子の目的に気がついて、内心笑った。
そして、ほんの少しからかってみたくなった。
「ねェ、アンジェロ」
しな垂れかかってきた喜美子の顔にそっと手を伸ばすと、喜美子はしめたとばかりに瞳を輝かせて、唇を寄せてきた。
イタリア男にとって、キスなんて日常茶飯事。
ちょっとからかうくらい何でもない。
誘われた振りして唇を重ねると、面白半分に舌を入れた。
(んんん…ん―――んっ……)
目的を果たしたはずなのに焦る喜美子。
アンジェロは、目を開けたまま喜美子を見る。喜美子も目は閉じていない。
(マリから俺を引き離そうって魂胆が、ミエミエなんだよ)
互いに目を開いたままの濃厚な口づけが終わった後、アンジェロは言った。

「ダメだ。あんたじゃあ、勃たない」

喜美子は、その場に崩れた。




「万里、どうしたんだよ」
呆然と立っている万里に、勇人が後ろから声をかける。
「なんでも、ない」
万里は勇人をその場から連れ出すように両手で押したのだが、どちらかと言うとすがり付いているような格好。
自分の両腕にしがみついてヨロヨロ歩く万里に、勇人は首をひねった。
(あ、まさか……)
とりあえず万里を食堂の椅子に座らせて、
「じゃあ、ビール冷蔵庫に入れておいてよ」
勇人はもと来た廊下に戻る。
さっきの万里と同じようにヨロヨロした喜美子が居間から出てきた。
勇人の顔を見て、悔しそうに顔をしかめた。
「だめ〜っ、なんなのよ、あの男。アレで未成年なんて、反則よ〜っ」
「喜美子ネエ?」
「実は……」
喜美子は、唇を噛んでたった今の出来事を話した。万里をめぐっての共同戦線では隠し事無しだ。
「悔しいわ、勇人っ」
「よくやった!喜美子ネエ」
「へっ?」
万里の動揺していた理由は、それだ。
たまたま早く帰ってきて、まさに誘惑している最中の喜美子の、ドンピシャのタイミングでキスシーンを見た。
おそらく、最後の台詞までは聞いていない。
「神は、われわれをお見捨てにならなかった、アーメン」
クリスチャンでも何でもないが、勇人は胸の前で十字をきって喜んだ。
「何よ」
「今さ……」
ごにょごにょ――。
「ホント?」
涙目になっていた喜美子の顔が輝いた。


万里は食堂で、呆然としていた。
何故、アンジェロと喜美子がキスしていたのか。
まるで昨日の自分のようにしどけない浴衣姿の喜美子が、アンジェロに抱かれていた。
横座りになった喜美子の足の、捲れた裾からふくらはぎがのぞいていたのが、生々しかった。

(……浴衣なら、誰でもいいのかよ)






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