翌日の朝、上村家長女の喜美子が帰って来たとき、万里は汚してしまった浴衣をそっと風呂のバケツにつけていた。
「ただいま」
「わっ」
突然後ろから声を掛けられて、万里はビクッと振り返る。
「何だ、喜美子姉さん、驚かすなよ」
「アンタが勝手に驚いてるんじゃないの。……何してるの」
「何でもない」
他の洗濯物も一緒に、バケツにギュウギュウと押し込める。
「色落ちするから、別にしといたほうがいいわよ」
「あ、そう?」
「それより、私、シャワー浴びるから、どいて」
「あ、うん、わかった。ごめん」
喜美子が堂々とブラウスを脱ぎ始め、黒い下着とそこからはみ出す白い胸の谷間が目の端に入り、万里は慌てて風呂場から出る。
そして、扉を閉めてから気がついた。
(よく考えたら、一ヶ月ぶりだった)
海外に行って一ヶ月も会わなかった弟に、お帰りとも言わず、元気だったかとも聞かず、昨日の続きのように会話する……喜美子はそういう姉だった。
その喜美子は、徹夜明けの身体を磨くのに余念が無い。昨日、勇人との電話を切った後、会社の地下のドラッグストアでパックを買った。
徹夜の仕事の間にそれをしたかいがあって、睡眠不足でもくまは作らずにすんだようだ。
万里の恋人らしいイタリア男と会うのに、パンダになどなっていられない。
そして喜美子は、鏡の前で自慢の美貌を入念にチェックし、戦闘用の化粧を施した。


「はじめまして。万里の姉の喜美子です。お会いできて嬉しいですわ」
にこやかに笑いながら、右手を差し出す喜美子に、アンジェロも魅力的な微笑で応える。
「はじめまして、お世話になります」
(話以上のハンサムじゃないの)
瞬時に全身眺め回して値踏みする喜美子。
万里はアンジェロの隣で、いつものようにほんの少し困ったような表情で、成り行きを見守っている。
「素敵なオトモダチね、万里」
ニッコリと喜美子が微笑むと、万里はどこかホッとしたように笑った。
「日本での第一日目は、どこに出かけるのかしら?」
「今日は、この辺をブラブラしようと思って」
万里が答えると、
「この辺?」
喜美子はビューラーで大きくカールしたまつげを持ち上げるように目を瞠った。
「わざわざイタリアからいらしてるってのに。こんなところ歩き回っても何も無いわよ。お台場でも連れて行ってあげたら?」
そして、アンジェロに向かって
「なんなら、私が案内しましょうか?」
「あ、ううん、アンジェロが…うちの近所が見たいって言ってるんだよ」
「ふうん」
喜美子は、綺麗に整った眉の片方をはね上げた。
「あ、じゃあ、また後でね、姉さん」
万里は、用は済んだとばかりにアンジェロの背中を押して促した。昔からちょっぴり苦手な姉なのだ。
「じゃあ、また後でね、アンジェロ」
ヒラヒラと手を振る喜美子に、アンジェロは黙って頷いた。



「マリ、どうした?」
アンジェロが、隣を歩く万里の顔を覗き込む。
「え、なんで?」
「変だから」
「そんなことないよ」
と、言ってしまってから万里は、ちょっと考えて言い直す。
「ごめん、本当は……ちょっと、変かも。緊張したんだ、さっき」
「緊張?」
「うん、姉さんって、昔から僕の友だちに対してすごくはっきり意見をいう人でさ」
家に連れてきた友だちは、ことごとく喜美子の洗礼を受け、ランクAからEまでつけられ、Cから下のレッテルを貼られた人間は、二度と上村家の敷居を跨げない――そんなルールができていた。
「でも、アンジェロのことは気に入ったみたいで、よかったよ」
心の底から安心したように呟く万里に、アンジェロは呆れ声で吐き捨てた。
「馬鹿か、お前」
「え?」
「姉が、つき合うなっていったら、お前、その友だちとは縁を切っていたのか?」
「そうじゃないよ。ただ、家には連れて来にくいってだけで」
「それが馬鹿って言ってるんだ。このシスコン」
「な、違うよ、僕は……」
兄一弥に猫可愛がりされてブラコンと呼ばれたことはあっても、喜美子からは苛められた記憶しかない。それをシスコン呼ばわりは心外だ。
アンジェロは、むきになる万里の右手をとった。そのまま指先を自分の唇にあてて囁く。
「マリ……」
突然の指へのキスにとまどう万里。
「マリ、もしあのお姉さんが、俺のことを気に入らなくて、つき合うなって言ったらどうする」
「え?」
「イタリア人の、しかも男の恋人なんて絶対許さないから別れろ、って言われたら、別れる?」
アンジェロのブルーグレーの瞳が真剣で、万里は一瞬言葉を失う。
「マリ?」
呼びかけられて、ハッとして、万里は強くかぶりを振った。
「別れないよ、そんな…誰に、何て言われたって…絶対……」
「よくできました」
アンジェロは笑ってそのまま万里を引き寄せた。
そのまま口づけようとするので、万里は焦って抵抗する。
「ダメだってば」
「ダメダメって、昨日からそればっかりだな」
肩をすくめるアンジェロ。
「だって、ここはうちの近所なんだよ。誰が見てるかわからないし。知っている人が、大勢いるんだから」
「別にいいじゃないか」
「日本じゃ、人前でキスする習慣は無いんだよ」
「つまらない国だ」
「もう」



そのころ、上村家。
勇人が姉の喜美子に目を剥いている。
「えっ?万里たち、もう出掛けたのかっ?てゆーか!何で、二人っきりで行かせたんだよっ!!」
「この辺ブラブラするだけだって言ってたから、直ぐ戻ってくるわよ」
「どうだか……」
悔しそうに、親指の爪を噛む。そして思い出したように言った。
「それより、アレやんないのかよ」
「やるわよ。昼まっからは流石に無理があるでしょう?ちゃんと夜に向けて作戦は練ってるのよ。」
「大丈夫かなあ。よく考えたら、喜美子ネェ、アイツより八つも上なんだよな。アイツがババアに引っかかるとは思えね…」
ドガッ!
「でっ!」
遠慮も躊躇もない喜美子パンチ。手は、ドラえもんのグー。
「言っとくけどね、私は、年下の方が得意なんだよ。だてに会社で『新人キラー』とか『初モノ食いオンナ』とか、呼ばれちゃいないんだからね!」
それは、自慢になるのだろうか?
「とにかく、アイツだって、ああ見えても中身は十八歳のおコチャマなんでしょ?大丈夫、上手くやるわよ……今までのように」
「頼んだからな」

果たして、何を?




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