そして、僕は目を開けて、信じられないものを見た。 アンジェロと西本さんが喧嘩している。いや、喧嘩じゃなくて、なんだろう……アンジェロが怒鳴っているのを西本さんが、かわしているって言うか、えっと…… 「アンジェロ?」 アンジェロのあんな怒った顔、初めて見た。 普段は、どっちかというと無表情で、眉を動かすくらいしか感情を表さないのに。 僕は間抜けなことに、そのアンジェロの表情に見惚れていた。 ぼーっとして……そして、周りの止める声に初めて我に返った。 アンジェロの腕が、西本さんの胸倉を掴んだ。 「あ、やめ、ダメだよ」 僕は、慌てて立ち上がって、目の前の二人の間に飛び込んで、 そして―――― 「ティアーモ……」 遠くで誰かの声がする。 愛している――――誰が?―――誰を? 夢うつつの朦朧とした意識の中で、僕はあることに思い当たった。 『口説かれたこと、あるんだよ』 『悔しいのは、ヤツは、ショックを受けていない様子で――すぐに別の男に手を出していた』 そっか。 アンジェロは、まだ西本さんのこと、好きなんだ。 よく鈍いといわれる僕だけれど、これは、当たっている気がする。 だって、西本さんが現れた時だけ、アンジェロの表情はいつもと変わるし。 色々なこと、むきになるのも、そのせいだ。 アンジェロは、西本さんが僕にちょっかい出してるって勘違いしていたから、それであんなに機嫌が悪かったんだ。 なんだ、そうか。 わかってホッとしたと同時に、なんだか悲しくなった。 何でだか、わからないけれど。 兄さんや勇人に会いたくなった。 何でだろう? 兄さんの作った日本食、食べたせいかなあ。 気がつくと、西本さんの指が僕のこめかみを拭っていた。 「悲しい夢でも、見ていた?」 西本さんが、優しく微笑む。 僕は、自分の部屋のベッドに寝ていた。 「……パーティーは?」 「終わったよ。でも、さっきまで騒いでいた。イタリア人は、夜更かしだからね」 「よかった。僕のせいで、中止になってたりしたら……」 言ってから、恥ずかしくなった。 「あ、僕なんかが酔いつぶれたって、どうでもいいことなんですけど」 西本さんは、僕の顔を覗き込むようにベッドサイドに膝をついた。 「中止にならなかったのは、マリアの機転だよ。でも、万里くんのせいじゃない。僕とアンジェロのせいでね、台無しにするところだった。反省しているよ」 「あ……」 僕は、夢の中で気がついたことを思い出した。 僕がじっと見ると、 「何?」 西本さんは首を傾げた。 僕は、考えた。 どうしよう。言おうか、言うまいか。 「どうしたの?」 優しい指が、もう一度僕のこめかみをそっと撫でる。 自分が夢の中で泣いていたということに、初めて気がついて、顔が熱くなった。 「えっと……」 誘われるように、口を開いた。 「あ、アンジェロのこと、どう思いますか?」 「アンジェロ?」 西本さん、以前、彼のこと好きだったんだから、今だって本当は……少なくとも、嫌いじゃないはずだ。 「アンジェロは、西本さんのこと、好きなんです」 僕の言葉に、西本さんは目を見開いた。 言ってよかったのかな。でも、もし二人が、お互いに想っているとしたら――― 「アンジェロは、本当は西本さんのこと……」 熱に浮かされたように、同じ言葉を繰り返そうとすると 「ぶ――――っ」 西本さんが、大きく吹き出した。 そして、いつもの落ちついた大人の余裕が嘘のように、ゲラゲラと大笑い。今にも、床を転がり、のた打ち回りそうだ。 「に、西本さん?」 僕は慌てて身体を起こした。 そこにアンジェロが飛び込んできた。 「やっぱり、ここにいたのか」 まだ大笑いしている西本さんのシャツの背を掴んで引っ張り上げる。 西本さんは、抵抗せずに立ち上がる。 そして、アンジェロを見て、もう一度盛大に吹き出した。 「なんなんだよ」 アンジェロは、おそろしく不機嫌な顔で西本さんを睨む。これも普段他の人にはあまり見せない顔だ。 西本さんは、笑いすぎて涙を滲ませながら、 「ごめん、万里くん、また明日」 今日はこの辺で勘弁してくれと日本語で呟きながら、アンジェロに追い出されるままに、部屋を出て行った。 「部屋には、鍵をかけろって、前にも言っただろう」 アンジェロは厳しい顔で振り返った。 (だって……) 僕は、この部屋に運ばれたことだって、覚えていないんだよ。 まあ、それも、飲みすぎて記憶を失った僕が悪いのだけれど。 困ってしまって黙って見返すと、アンジェロはフッとため息をついた。 その伏せたまつげに、僕は話し掛けた。 「ごめん、アンジェロ」 「え」 アンジェロが顔を上げる。 僕は、神妙な気持ちになった。さっきの夢の切なさが戻ってきたようだ。 「僕は、昔から、ちょっと鈍くて…人の気持ちとか、気がつかなくて……」 「………」 「でも、アンジェロの気持ちは、わかったんだ……」 アンジェロの瞳がわずかに見開かれた。 「すぐに気がつかないで、ごめん」 「マリ……」 目元がほんのり染まった。こんな顔も初めて見た。精悍な顔が、ちょっとかわいくなる。 (やっぱり……) そう思ったとたん、胸が絞めつけられた。 「西本さんと僕のこと、勘違いしているかもしれないけど……何でもないから」 「マリ……」 アンジェロがベッドの端に腰掛けて、僕の顔をじっと見る。 「だから、アンジェロ……」 きれいな顔に見惚れながら、苦しい気持ちを言葉にした。 「西本さんに、本当の気持ちを言いなよ」 「はい?」 「本当は、西本さんのこと……好きなんだろ?」 僕は、唇をかんでうつむいた。 ここに来て、僕は初めて自分の気持ちに気がついた。 僕も、アンジェロのことが、好きになっていたんだ。 ぎゅっとシーツを握り締めた時、突然、背中にあったはずの枕で張り倒された。 な、何? 呆然と見上げると、アンジェロが恐ろしい顔で僕を睨んでいる。 なんなんだよ。 (僕は、せっかく―――) 「応援してやろうって、決心したのにっ」 日本語で叫んでいた。 アンジェロも、イタリア語で何か言っている。 でも、早口だから、全然わからない。 ニュアンスで理解するなら、馬鹿とか言われていそうな感じ。 「何だよッ」 張り倒されたときの枕を掴んで、投げつけた。 間髪入れずに戻ってきた。 もう一度、それを掴んで振り上げると、その腕をつかまれて、そのまま後ろに押し倒された。 「わっ」 背中からベッドに沈んで、顔をあげると、ものすごく近くにアンジェロの顔があった。 そして――― (うそ?) アンジェロに唇をふさがれて、僕は、固まってしまった。 自分の置かれた状況が理解できなくて、目を見開いたまま固まっていた僕だったけれど、アンジェロの唇の感触に、次第に力が抜けていった。 苦しくなって開けた口の隙間から舌が差し込まれ、生まれて初めての感触に、頭の芯が痺れてくる。 ディープキスなんて、女の子とだって、したことない。 「ん……」 ちゅっと音をたてて、アンジェロの唇が離れたときには、僕は朦朧としていて、目の焦点も合わなかった。 アンジェロの端正な顔が、目の前で二重に映る。 「わかったか?」 「え?」 何が? ぼうっと見返すと、アンジェロは少しのあいだ僕を見つめて、そして僕のシャツのボタンに手をかけた。 一つ、二つと外されて、ようやく僕は正気に返る。 「やっ、やめっ、って!」 両手で押し戻すと、アンジェロは不満げに僕を睨む。 「自分から誘って……」 ない!ない!ない! 外されたボタンを急いでとめる。アンジェロは黙ってそれを見て、そして、ボソリと言った。 「まったく……何で、俺がアイツのことを好きだなんて思ったりしたんだ」 「それは……」 何でだっただろう。そうだ。 「夢で、見て……」 僕の言葉にアンジェロは小さく息を呑んで、そして脱力したようにガックリと突っ伏した――僕の上に。 「お、重いよ」 押し戻そうとしても、今度はびくともしない。 「アンジェロ、重い」 アンジェロは、僕の胸の上に頭を乗せたまま、顔だけ向けて言った。 「夢でって何だよ」 「……うん」 確かに、ちょっと間抜けかな。でも、そのときはすんなりそう思えたんだもん。 僕が、黙ると 「最初見たときに、ヤバイと思った」 突然言った。 「え?」 「でも、お前は旅行者だし、フランコから頼まれていた客だったから、考えないようにした」 ブルーグレーの瞳がじっと見つめる。吸い込まれそうな錯覚。 「なのに、無防備な顔して歩き回って、アイツなんかにフラフラ付いて行って……」 アンジェロの指が、僕の額に伸ばされた。ゆっくりと前髪をかきあげる。 「ティアーモ」 (あ……) 直接、心臓に響くようなその言葉。 僕は、夢の中で聞いた声を思い出す。 今なら、わかる―――誰が言ったものなのか。そして、誰に――― かあっと頬に血が上った。 「それでも、言うまいと思っていたんだ。さっきの告白もどきを聞くまではね」 僕の髪を優しく梳いていた指が、突然乱暴にぐしゃりと掴む。 「アンジェロっ?」 「ふざけたオチ、つけやがって」 「痛いよ、髪、痛いって」 アンジェロは僕の髪を掴んだまま身を起こすと、再び激しく口付けてきた。 「んー、んっ……」 ああ、なんでこんなに体格差があるんだ。押しても叩いてもびくともしない厚い胸に圧し掛かられて、無駄な抵抗をあきらめた僕は、ゆっくりと目を閉じた。 口付けは、次第に優しく甘く変わっていく。それは、まるで僕の中での彼の存在そのままに。 いつのまにかアンジェロの背中に腕を廻していたことに気がついて、少し恥ずかしかったけれど、そのままぎゅっと力をこめた。 翌日、マウロ達が再びワインを持ってやって来た。 「よう、アンジェロ!プロポーズは、すんだのか?」 マウロのからかいの言葉に、アンジェロは少しムッとして、僕はビクリとする。 何で、知っているんだ? その謎は、直ぐに解けた。 アンジェロがグラスとチーズを取りにキッチンに降りていった隙に、マウロとエリザとクララが、英語とイタリア語を駆使して、昨日のパーティーの話をしてくれたから。そう、僕が酔っ払って記憶を失う寸前の、アンジェロと西本さんのこと。 「マリを争っての美男二人の喧嘩、迫力だったわよね〜」 クララが大げさに両手を胸の前で合わせる。 そんな風になってたんだ。顔が熱くなった。 「羨ましかったわよ」 そう言って笑うエリザに、僕は訊ねたいことがあって、口ごもる。 「何?」 促されて口を開いた。やっぱり気になったから。 「エリザって、アンジェロのガールフレンドじゃなかったの?」 「ガールフレンドよ」 ニッと笑う。 「アンジェロだってイタリア男なんだから、ガールフレンドの一人や二人いるわよ」 う、そうなのか。やっぱり。 「でもね。彼って、昔から本当に好きになった子には、素っ気無いっていうか。天邪鬼なのかしらね。最初は、わざと冷たくしたりして」 「ふうん」 そして、ふと思った。 「ってことは、今までに、彼にはそういう相手がいたってこと?」 僕の問いかけに、エリザは大きな瞳を思わせぶりに輝かせて、言った。 「自分で聞きなさいよ。これから」 そうだね。 うん。自分で聞こう。時間は、まだたっぷりあるんだから。 夏はまだ、始まったばかりだ。 end NEXTから ニッポンの夏に続く |
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