その西本さんがカメララヴェンナに現れたのは、その三日後だった。 朝食の時間に突然訪ねて来られて、びっくりすると 「急な仕事でミラノに行っていてね。抜けられなかった。今帰って、そのまま寄ったんだよ」 「そんな急ぎで……? 何かあったんですか」 僕の言葉に、西本さんは大げさにがっかりした顔をした。 「色々案内するって言っていたのに突然会えなくなったら、心配しない?」 「えっ? ああ、そうですね。ごめんなさい」 「もっとも、連絡は入れたんだけどね。取り次いでもらえなかっただけで」 僕の後ろをチラリと見て言う。 「えっ? ああ、そうなんですか?」 僕も思わず振り返ると、むちゃくちゃ不機嫌そうなアンジェロと目が合った。 「ええっと、それで……」 西本さんに視線を移すと、 「三日間、何して過ごしてたの?」 優しく微笑まれて、心臓がドキドキした。西本さんの微笑みがと言うよりも、その顔を僕の後ろでアンジェロも見ているのだと思うと、何故だかうかつな会話ができない気がした。 どうしてって聞かれても困るのだけれど。何となく。 「ええと、アンジェロと、その友人たちと、一緒に出かけたりしていました」 「ふうん」 「食事の途中なんだけど」 アンジェロの声が背中から聞こえた。 「あ、ごめん」 待たせていることに気がついて、謝ると 「マリが謝ること無い」 アンジェロと西本さんが同時に言った。 そして、同時にお互いを見た。 しばしの沈黙。 そこに現れたのは、救いの神ならぬマリアだ。 「あら、ニシモトさん、どうしたの?」 「やあ、マリア、久し振り」 大げさに抱き合う二人。イタリア流の挨拶だとわかっていても、これには慣れないな。見ていても照れてしまう。 「さっきミラノから帰ってきて」 友人の顔を見に飛んできたと言う。友人って僕のことね。 アンジェロやその仲間たちのご指導の賜物で、イタリア語の会話も雰囲気で聞き取れるようになってきた。あくまでまだ雰囲気だけどね。 「食事は?」 「マリアのエスプレッソが飲みたいね」 「どうぞ、座って」 みたいな会話の挙句、西本さんが食堂のテーブルに着くと、アンジェロが露骨に嫌な顔をした。 (どうしよう) さわやかな一日の始まり――だったはずなのに、不穏な空気。 僕には、どうしようもないんだけど。 マリアが台所に消えると同時に、落ち着かない気分が戻ってきた。 「あ、そうだ」 居たたまれなくなった僕は、いきなり立ち上がった。 「昨日、エリザからクッキーもらっていたんだ」 皆で出かけたときに、家で焼いたと言って持ってきてくれた砂糖たっぷりクッキー。 僕もアンジェロも甘いものはそれほど好きじゃないのだけれど、西本さんは、甘いの大丈夫だった気がする。初日のエスプレッソに砂糖二杯を思い出して、僕は自分の部屋に戻った。 ベッドサイドに置きっぱなしにしていたそれをとって、気を落ち着けるためにベッドに腰掛けた。 あの二人の間に入った時の気まずさは、何なのだろう。 頭の中を整理する。 (えっと、確か、アンジェロは西本さんのことを嫌っているんだけど……) でも西本さんは、アンジェロを口説いたことがあるって……。 そして、アンジェロは、西本さんが僕に親切なのを誤解している。 (うーん) やっぱり、アンジェロが西本さんのことを誤解したままなのが、気まずい原因かもしれない。 西本さんは、ホモかもしれないけどいい人だし。それに、アンジェロは男のくせしてあんなに綺麗――っていうか、今は『カッコいい』というほうが合ってるんだけれど――まあ、そうなんだから、西本さんが好きになって口説いたとしても、非難できないと思う。 言われたほうは、気持ち悪かったかもしれないけど、人を好きになる気持ちに男も女も無いって僕の持論。 「よし」 この機会に、って、どの機会かわからないけれど、二人に何とか仲直りしてもらおうと思った。 階段を下りていくと、二人は何か早口のイタリア語で話していた。 残念だけど、わからない。 「あの」 僕が近づいたら、突然黙った。 うっ、やっぱり空気が重い。 「あ、これ、エリザからもらったクッキーなんだけど」 よかったら食べてと、西本さんの前に出す。 「おいしそうだね、どうしたの?手作り?」 西本さんは、日本語で言った。僕は、アンジェロの眼が険しくなった気がして、何故かとっさに英語で答えた。 「アンジェロのガールフレンドが、僕にも作って来てくれたんです」 「へえ」 西本さんが、眉を上げてアンジェロを見た。 アンジェロはムッとしている。 まずかったかな。 「ええっと」 何か、話題を探ろうとしていると、エスプレッソのいい香りとともにマリアが戻ってきて、そして、同時に玄関のブザーが鳴った。 「あら? 誰かしら、アンジェロ、出て」 マリアに言われて、アンジェロが立ち上がる。 そして、マリアがカップを並べているうちに、大きな荷物を抱えて戻ってきた。 「マリに」 「え? 僕?」 何? 空いているテーブルの上に置かれたのは、日本からの航空便。 「うっ…まさか……」 まさかでもなんでもなく、送り主はうちの兄。 先日の電話の会話は生きていた。 厳重に巻かれているガムテープをはがしていくと、これまた厳重に二重に梱包された箱。 開けてみると、冷凍保存用ビニール袋に入った食べ物の数々。そして、うどん、そば、きしめんなどの麺類。海苔、味噌、醤油。日本酒や、焼きおにぎりの冷凍っぽいものまである。 「兄さん……」 思わず出るため息。 「すごいな」 西本さんが覗き込む。 「日本の食べ物?」 アンジェロがビニール袋の一つをつまみあげた。 「もうホームシックとか言うんじゃないだろうな。あの電話で頼んだのか?」 アンジェロの呆れた口調に、 「ちがうよ、これは兄さんがかってに……」 と言い訳しながら、はたと思いついた。 「あ、そうだ。マウロたちを呼んで、これでパーティーしないか?」 「え?」 「けっこうな量があるし、皆で食べようよ。この食堂、貸してもらって」 「ここで?」 「ダメかな」 「いや、別に……」 アンジェロが口ごもると、マリアが何の話かと西本さんに尋ねている。 西本さんが、僕の話をイタリア語で伝えてくれた。 マリアが嬉しそうに言った。 「いいじゃない。ぜひここでパーティーしましょうよ」 僕は頷いて、そして西本さんのほうを向いて言った。 「西本さんも、知り合いの方とか、連れてきてください」 「僕もいいの?」 「勿論ですよ」 そう言うと、アンジェロからは剣呑な視線が飛んできたけれど、僕は負けなかった。 「他にもこっちの材料で日本らしいもの作りたいんですけど、何がありますか?」 「魚は何でも。寿司とか作る?」 「お米はあるんですよね」 「うちには、お酢もあるよ」 「よろしくお願いします」 アンジェロと西本さんを仲良くさせる。 そのためのホームパーティーって、僕としてはなかなかいいアイディアだと思ったんだけれど――――。 イタリア人は、お祭り好きらしい。聞いてはいたけれど、やっぱりそうだった。 カメララヴェンナのホームパーティーは、予想外の人数が集まることになった。 当日、僕もマリアも朝から大忙しだった。 初めは日本食を食べてもらうって会だったのだけれど、とても追いつかないので、マリアにも、急遽、イタリアンを作ってもらうことになった。 西本さんの車で、僕とマリアはメインストリートにある市場に買出しに行った。 アンジェロは、昼は前々からの用事があって夕方からの参加。パーティーは八時からだから、準備は手伝ってくれるそうだ。 西本さんの車で買出しに出ると聞いてちょっと嫌な顔をしたけれど、マリアは運転をしないから仕方ない。 駐車場に車を止めて、西本さんの後ろに続いた。 市場と聞いて、何となく築地市場のようなイメージを持っていたのだけれど、デパートのような建物の中、きれいに区分けされたスペースでそれぞれの品物が映画のセットのように並んでいた。整然として、美しい。頭の上から吊り下げられた巨大な肉。ケースの中の生ハム。野菜売り場では、赤や黄色のピーマン――ペペローネと言う――が艶々と光っている。野菜一つとっても、どうしてこんなに色が鮮やかなんだろう。 「チーズは、どれにする?」 西本さんが聞くので、 「僕はよくわからないので、お任せします」 と、応えた。 西本さんからは色々な食材を提供してもらっていて、ここでは生ものだけそろえればよかった。 西本さんがチーズを選んでいる間に、マリアが魚を吟味している。店のおじさんに色々聞いているみたいだ。「まけろ」と言っているのかもしれない。 残念ながら僕はここでもあまり役に立ちそうになかったけれど、それでも、この市場の雰囲気は楽しかった。 まだ生きている大きなタコを受け取ると、 「墨を吹くかもしれないから気をつけて」 西本さんが言う。 「本当ですか?」 「ホントホント、汚れるよ」 僕がタコの入っている袋を覗き込むと、マリアが何か言って笑った。 マリアの両手も一杯になっているのを見て、荷物を受け取る。 「グラッツェ」 マリアも何だか楽しそうだ。今日は、彼女の友人も大勢来るらしい。 僕は、パーティーはきっと楽しいものになると思った。 「この皿、使うのか?」 「うん。よければ、だけど」 アンジェロが手にしているのは、この間兄さんが送ってきた荷物の中に入っていた有田焼の大皿。割れないように、厳重に梱包されていた。お世話になっている宿の人にプレゼントしろと書いてあった。 だから、本当はマリアの承諾がなければ使ってはいけないのだろうけれど、イタリアの食卓に有田焼は意外にマッチしたので、ここに魚貝をたっぷり入れたサラダを乗せたいと思った。 マリアが快く承諾してくれたので、その皿は中央のテーブルに置いた。 ちなみにパーティー参加人数の関係上、他のテーブルや椅子は、すべて前庭に出されてしまっている。 大皿の周りには、兄さんの送ってくれた食べ物を解凍して盛り付けていく。さすが調理師。一度冷えてもおいしいものを選んで作っている。 焼きおにぎりだけは、もう一度、醤油をつけてあぶってみようかな。 その間にも、台所からはおいしそうなバターの匂いが漂ってくる。マリアお得意の鮭と香草のパン粉焼きだ。 「ボナッセーラ♪」 お客の第一号はマウロだった。手に大きなボトルを持っている。辛口のスプマンテだ。 続いて、エリザとクララ、彼女たちも手土産持参。 そしてマリアの友人たちは、エプロン持参でやって来た。勝手知ったる、と言った様子で台所に入ると、マリアから皿を受け取って運んでいる。 だんだんと人が増えて、いつのまにかカメララヴェンナの食堂はいっぱいになった。 そこここで、輪ができて歓談が始まる。 西本さんが、僕を皆に紹介してくれた。日本食の説明は、ほとんど西本さんが通訳してくれた。 「ボーノ!!」 兄さんの作った料理をおいしいって言ってもらえるのは嬉しかった。 僕は、結局、手巻き寿司を作っただけ。そう『手巻き』。巻くのはゲストの皆さんだから、作ったのは酢飯だけ。 でもこれが意外に、評判良かったんだよ。 「手巻き寿司なんて懐かしいわ。焼きおにぎりも、久し振り」 そう言って笑ったのは恰幅のいいご婦人。彼女は声楽の勉強で日本からイタリアに来て、そのままこっちで知り合ったご主人と結婚したとのことだ。 ご主人も大きな人で、ついでに言うとまだ三歳という子供も、とても大きかった。いや、連れてきてはいなかったけれど、写真を見て、ね。 「顔の大きさだけなら、万里くんより大きいかもね」 西本さんが笑う。 「僕にも、紹介してくれよ」 ワイングラスを持って現れたのは、髭の立派な男の人。 「ああ、万里くん、彼が僕の友人で旅行代理店に勤めているラウーロ」 「ボナセーラ ピアチェーレ」 初めましてという挨拶に 「ピアチェーレミーオ」 ラウーロは大げさな両頬へのキスで応えてくれて、その髭の感触にはちょっとゾッとしてしまった。申し訳ないけど、やっぱりこういうのは苦手だ。 次々に集まってくる西本さんの友人たちに散々お酒を勧められ、僕はボーッとしてくる頭でアンジェロの姿を探した。 そうだよ。 もともと、アンジェロと西本さんを仲良くさせるはずだったんじゃないか。 アンジェロは、入口に近い一角で、彼の友人たちとおしゃべりしている。 僕はそばによって、彼の腕を取った。 「アンジェロ、こっちに来て西本さんたちと話さないか」 アンジェロは、驚いたように振り向いて、そして僕の腕を見た。 僕の腕はアンジェロのそれに巻きつけられていた。いつのまにそんなに酔っ払っていたのだろう、普段ならできない馴れ馴れしさ。 「あ、ごめん」 手を離そうとして慌てたために、よろめいた。 「危ない」 今度はアンジェロの腕が僕を掴んだ。 「飲みすぎじゃないのか?」 「ごめん……そうかも」 つかまれた腕が熱いのも、なんとなく視界が潤むのも、スプマンテと、赤ワインと、日本酒のせいだ。 「大丈夫か」 アンジェロが眉をひそめた。 「大丈夫」 と、応えて自分の言葉が日本語だったことに気がついた。イタリア語か英語でいわないと。 なんだっけ?ノープロブレムって、違うかな。 「酒、弱いのに、そんなに飲むからだ」 「違うよ、飲んだんじゃなくて、飲まされたの」 あ、また日本語だ。 僕の言葉に、アンジェロはますます不機嫌そうに眉間にしわを寄せる。 「ごめん、怒らないでよ。えっと、イタリア語でなんて言うんだっけ。スクージ?で、怒らないでって、なんだっけ?」 自分で酔っ払っているのがわかる。ダメだ。笑いまで出てくるぞ。 「大丈夫?万里くん」 ふらつく背中を支えるようにして、西本さんの腕が僕の両肩を掴んだ。 「あ、すみません、なんか、酔っ払ってますよね、また」 ヘラヘラ笑いながら振り返ると、西本さんは僕をアンジェロから引き離した。 「座ったほうがいい」 アンジェロの腕がほどかれて、残念な気持ちになっている僕は、やっぱり相当酔っ払っている。 アンジェロを見ると、僕じゃなくて西本さんをじっと見ていた。西本さんは、それは無視したように 「外の椅子に座ろう」 僕の肩を支えて、外に出た。 夏のイタリアは、夜の八時九時といっても明るいのだけれど、さすがにもう日が落ちている。食堂から運び出されたテーブルを囲んで、何人かのゲストがタバコを吸っていた。 マリアとその友人たちも、皿とグラスを持ち出して、庭のシンボルツリーに吊り下げた灯りの下で笑い合っている。 火照った顔にあたる風が気持ちいい。 勧められるままに椅子に座ると、西本さんの指がうなじを滑った。ひんやりとして気持ちよくて、僕が目を閉じると、その直後、何かやわらかいものが唇に触れた。 (…なに?) |
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