「大丈夫。宿には連絡しておいたから」 途方にくれていた僕に、西本さんがそう言った。 「あ、そうなんですか」 「うちに泊めるかもって、言っておいたんだけど、どうする?」 「え?」 「うちに来ないか?カメララヴェンナに帰るより、早いし」 「いいえっ」 即答したので、西本さんがちょっと驚いた顔をした。 「あっ、その、泊まれるような準備はしていないし」 「そんなの」 「それに、えっと、明日、約束があって、早く帰りたいんです」 これは、嘘だ。 でも、僕は、カメララヴェンナに帰りたかった。 アンジェロの瞳を思い出したからだろうか。 よくわからないけれど、自分の宿に戻りたかった。 「すみません。西本さんは直接家に帰ったほうが早いんですよね……」 「いや、そういうことじゃないんだよ」 苦笑いした西本さんは、車のキーを回してエンジンをかけた。 「これからだと、一時近くなるな」 「すみません」 「いや、万里くんが謝ることじゃない。……僕が、起こさなかったんだから」 「……すみません」 僕は、助手席のシートに小さくなった。酔っ払って寝てしまったなんて、やっぱり醜態だ。 西本さんも、本当は呆れていたんだろうな。 本当に、無理やりにでも起こしてくれれば良かったのに。 (……あれ?) 『どこかで休もうかとも思ったんだけど、酔っているのをホテルに連れ込むなんて悪いと思って』 西本さんのさっきの台詞を今更ながら思い出して、なんだか変な気がした。 (何で、ホテルなんだ?) 横目でうかがった西本さんは、片手でハンドルを握って、飄々と車を走らせている。 (何だか、不思議な人だ) カーオーディオから流れるイタリアの曲に眠気を誘われつつも、人に運転させておいて助手席で寝るわけにはいかないと、僕は必死で睡魔と闘った。 「着いたよ」 途中、休憩を挟んだので、時計を見たら一時どころか二時近くになっていた。 僕は、ポケットからカメララヴェンナの鍵を取り出す。 初日にも入り口の鍵がかかっていて驚いたけど、ここは、宿泊客が部屋の鍵と玄関の鍵と両方持って、夜は自分で開けて入るのだ。 静かにドアを押して入ると、同時に、中の明かりが点いて驚いた。 アンジェロが立っている。 「車の音が聞こえたから」 「あ、そ、あ……えっと、ただいま」 間の抜けた挨拶をしてしまったけれど、アンジェロはそれには応えずに、僕の後ろにきつい視線を送った。 「遅くなって、すまなかったね」 西本さんが微笑んだ。 「アンジェロ、さっきは電話で失礼。三年ぶりかな?すごく大きくなって……驚いたよ」 イタリア語なのでよく聞き取れなかったけれど、この二人って、初対面じゃないんだ。 びっくりして、二人の顔を見比べる。 にこやかに微笑む西本さんと、対照的に、睨みつけるような表情のアンジェロ。 西本さんが、まだ何か話しかけたけれど 「すみませんが、今日は、もう遅いので」 アンジェロは、僕を後ろ手に階段に押しやるようにして、玄関のドアを閉じようとした。 「また、改めて来るよ」 「おやすみなさい」 バタンとドアを閉める。 僕は、ただ呆然と見ていた。 アンジェロが振り返る。 「知り合いって、アイツだったのか」 「あ、あの、アンジェロって、西本さんと知り合いだったの?」 お互い同時に、同じようなことを訊ねた。 「…………」 アンジェロは、しばらく黙っていた。沈黙に耐えかねた僕が、先に口を開こうとした時、 彼がぶすっと言った。 「アイツ、ホモだから、気をつけたほうがいい」 はい? 僕は、一瞬、言葉の意味がわからなくて「アンコーラ」と聞き返すところだった。 「何か、されなかったか?」 アンジェロの言葉をゆっくりと理解した僕は、ブンブンと首を振った。 「なら、いい」 そう言うと、彼は階段を上がりかけた。 「ま、待って」 アンジェロが、振り返る。 「えっと、よくわからないんだけど、二人は知り合いなの? どういう?」 聞きたいことは他にもあるような気がするんだけれど、とりあえず。 「……今日は、もう遅いから、明日」 「明日、教えてくれるのか?」 「……ああ」 アンジェロは少し疲れたような足取りで階段を上がると、自分の部屋に消えた。 ひょっとして、寝ないで待っていてくれたのかな。僕を?――まさかね。 そして、部屋に帰ってシャワーを浴びた僕は、やっぱり疲れていたのか泥のように眠りに落ちた。眠る直前に浮かんだのは、アンジェロのきつい眼差し。 彼は、西本さんを恨んででもいるのかな? 遅く寝たにもかかわらず、翌朝は、すっきり爽快に目が覚めた。 それもそうだ。夕方からワイン飲みすぎで一度寝ていたんだから。 食堂に下りていくと、アンジェロはまだいなかった。 それも、そう。僕のせい……かどうかはわからないけれど、寝たのは二時過ぎだったんだから。 今日は、一人で食事だな、と、カウンターに置いてあるベルを鳴らしてマリアを呼んだら、意外にもアンジェロが姿を現した。 「あ、おはよう」 「ああ……」 不機嫌そうだ。けだるそうに頭を掻いている。 「大丈夫?」 「何が?」 「えっと、あんまり寝てないんじゃないかなって」 「当たり前だろう」 失敗した。不機嫌ポイントがアップしたみたいだ。 「お前は、すっきりした顔しているな。よく眠れたのか?」 アンジェロの問いかけに 「うん、それに昨日帰ってくる前にも、一回寝てるし」 そう答えて、彼の眉がひそめられたのを見て、ハッと思いついた。 『アイツ、ホモだから――』 『何か、されなかったか?』 うわーっ、まさか、そんなはずないじゃん。 「あ、違う、寝ているって、そういう意味じゃなくて、ワインを飲んで酔っ払って、それで、いつのまにか…いつのまにか……えっと」 何が『そういう意味』なのか自分でもよくわからないまま、おたおた言い訳をしていると、 「わかったから、落ちつけよ」 アンジェロは、椅子に乱暴に腰掛けた。 僕もその正面の椅子に座る。毎朝の指定席だ。 マリアが出てきて、パンとチーズとヨーグルトをテーブルに並べた。 「カフェラッテでいいのよね」 マリアの言葉に頷くと、アンジェロは首を振った。 「俺は、エスプレッソ」 「あなたは、自分で入れなさい」 母親に言われて、ムッとした顔をするアンジェロは、ちょっとだけ年相応にかわいい。 そして、エスプレッソを諦めたアンジェロは、黙ってヨーグルトを食べ始めた。 厚めの唇にスプーンが運ばれる様子を見ながら、昨日の会話を思い出す。 『……今日は、もう遅いから、明日』 『明日、教えてくれるのか?』 『……ああ』 でも、目の前の彼は、黙ったままだ。 どうやって話を切り出せばいいんだろう。 躊躇したまま、簡単な朝食の時間は、もう、終わりそうになっていた。 今聞かないと、機会はない気がするんだけど。でも、黙っているアンジェロに取り付く島が無い。 しかたなく、僕も黙ってヨーグルトを食べていると、アンジェロが突然言った。 「聞かないのか?」 「えっ?」 「昨日、教えてくれって言ってなかったか? もういいんなら、別にいいけど」 「言った! 言ったし、教えてほしいよ」 慌てたあまり英語で早口になる僕を、ブルーグレーの瞳でじっと見つめて、アンジェロは、話し始めた。 「うちって、親父が死ぬ前は、宿屋だけじゃなくてリストランテもやってたんだよ。どっちかというと、そっちがメインで、宿屋のほうがおまけだったかな」 「そう……」 アンジェロの父親が――いないとは思っていたけれど――亡くなっていたことは知らなかったので、ちょっとそれ以上、言葉が出なかった。 けれど、アンジェロは、さばさばと言葉を続けた。 「親父がシェフで、たまに、まだ学生だったフランコが手伝ったりしていたんだけど、けっこう繁盛していてね。親父の腕が良かったんだ。いつも、あそこが車でいっぱいになってた」 目で、前庭から続く広々とした空き地を指す。 「その頃、アイツがうちによく来てたんだよ。食材の仕入れとか卸とかで、親父も色々相談に乗っていた」 そういえば、西本さんは、大学を卒業してからこっちの商社で働いていたと言っていた。 「でも、親父が事故って死んでしまって、この店をどうするかって話になった時、アイツは、リストランテとしてはもう営業できないって言ったんだ」 アンジェロの顔が、珍しく感情を素直に表して、悔しそうに歪められた。 「フランコは、その頃ようやく今の店で腕を認められていて、忙しくてたまにしか顔を見せなかったけど、そこを辞めてうちでシェフになってくれようとした。でも、アイツがマリアに言ったんだよ。まだ修行中のフランコのためには、せっかく入ったあの店を辞めてここに来るのはよくないって、さ」 そうか。 でも、西本さんのいうことも正しい。 僕の兄さんは今、うちのレストランでシェフ見習いをしているけれど、本当は、もっと有名なお店で修行を積ませたほうがいいんだって、父も繰り返し言っていた。 兄さん自身が家から離れたくないってゴネたのと、なんだかんだ言っても『うちで働きたい』って言ってもらえたのが嬉しい両親のおかげで、家にいるけど。 だから、西本さんも、本当に、フランコの将来を考えて言ったんだと思う。 (でも……) 頭ではそうわかっても、思い出の店をたたまないといけないっていうのは悲しい。 僕だって、うちの店が無くなるって聞いたら、ショックだ。 「マリアは、その話を聞いて、泣いた」 アンジェロの初めて見せる表情に、僕は、胸が痛んだ。 「泣いてたんだけど、フランコが来た時には、気丈にね、言ったんだよ。 『あなたにはうちの人の味は出せない。死んだあの人に悪いから、店はたたむ』 って……」 「…………」 「フランコもショックだったんじゃないかな……」 胸が詰まって何も言えなくて、ただアンジェロの顔をじっと見た。 すると彼は、 「でも、まあ、そのおかげで、彼は今やイタリア国内だけじゃなくて日本からもお呼びがかかる名シェフだけどね。結果オーライ」 深刻になっていた自分を茶化すように、突然明るく言った。 「うちなんかにいたら、フランコが日本に行くことも無かっただろうし、マリがうちに来るってことも無かったんだからな」 マリと呼ばれて、ちょっとドキッとした。そして、言ってる内容にも。 アンジェロは、僕がここに来たことを歓迎してくれているんだろうか? 何でだろう。年下の男の言葉にドキドキするなんて、異常だ。 そして、もう一つの疑問が湧いた。 『アイツ、ホモだから』 二人が知り合いだったのはわかったけど、その発言の裏付けって…… 「えっと、その……」 何て聞いていいのかわからなくて、言いよどんでいるうちに、顔が熱くなった。 ひょっとして、赤面している? 「マリ?」 「いや、それで、その……彼が、ゲイっていうのは……」 ゲイの発音は蚊の鳴く声より小さかったと思うが、アンジェロはクスリと笑って、教えてくれた。 「ああ、アイツにね、俺、口説かれたことあるんだよ」 「ひっ?」 「そんな、目が落ちそうなほど驚くなよ。俺だって、十四、五までは、可憐な美少年だったんだ」 いや、そうだと思うよ。きれいな顔だし、今、こんなにカッコいいんだから。 「でも、その頃の俺には、そんな趣味は無かったしね」 「そ、そうだろうね」 「マリアが泣かされた恨みもあったから、こっぴどく振ってやったんだけど、悔しいのは、ヤツは、それにあんまりショックを受けていない様子でね。すぐに別の男に手を出していた」 それって……自分が相手にされなくなって、悲しいってことじゃないの? チロっと見たら、アンジェロは何か感じたらしく、ムッとした。 「勘違いするなよ。俺はアイツが他の男に手を出したのが悔しいなんて言ってないからな。大して傷付かなかったのが悔しかったんだ。復讐してやったつもりだったのに」 「はあ……」 「何だよ、その、気の無い返事は」 「ごめん、そういう意味じゃ」 「またソーリーか」 アンジェロは、すっかりいつもの顔に戻っている。 「俺が日本人をあんまり好きになれなかったのは、アイツの影響大だよ」 そうだったのか。 僕は、ポリポリと頭を掻いて、黙った。 フッとアンジェロが真面目な顔になって、僕を見た。 「昨日、アイツから電話があった時、ものすごく驚いた。もう三年以上も会ってなかったし、突然、何だって思って」 そして、ちょっと意地悪な顔で言う。 「そしたらそのアイツが、マリと一緒にいて帰りがかなり遅くなるとか、ひょっとしたらうちに泊めるからとか言うから、てっきりお前、食われちまってんだって思った」 「そんな、まさかっ!!」 ご冗談を。ノーキディング!だ。 「まあ、帰ってきたときの様子でわかったけどね。でも『まだ』ってだけで、狙われてるのは間違いないから、せいぜい気をつけるんだな」 シラッと言うアンジェロにどう答えていいのかわからなくて、僕は黙ったまま首を傾けた。つい出てしまう、困った時の癖だ。 「だから、そういう顔を、うかうかとするな」 そういう顔って……? 『困ったちゃんの幼稚顔』 口の悪い友人に言われた言葉を思い出して、下を向いて両手で眉を擦った。キリリと上向きの眉にしたいと思ったけど、アンジェロのようにはいかないだろう。 プッとアンジェロがふき出した。 「ムッ」 素直に従ってやったのに、何だ。 顔を上げると、アンジェロが口許を押さえて笑っている。何がツボにはまったのか、えらくおかしそうだ。 「そんなにおかしかった?」 「かなり」 何だか昨日までの彼と違う。色々話できたからかな。 アンジェロを身近に感じて、僕は嬉しくなった。 |
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