その日ずっと、西本さんに町を案内してもらって、カメララヴェンナに帰ったのは、夜九時を回ってからだった。
九時といっても、夏、イタリアの日は長い。外は、まだ日本だと夕方四時くらいの明るさだ。
僕が帰ってきた音を聞きつけたらしいアンジェロが、ゆっくりと階段を下りてきた。
「初日から遅かったな。どこに行って来たんだ」
英語で尋ねるアンジェロに
「サン・ヴィターレに行って、その後、町を色々見て回った」
イタリア語で答えたら、彼の目がちょっと見開かれた。

ふふふ、どうだ。

西本さんに習ったイタリア語会話の成果。
帰ってすぐに使えそうなのを、いくつか教えてもらっておいた。
『これはペンです』とか『あれは犬ですか』とか言えてもしょうがないしね。
見りゃわかるよ。とか言われるのが落ち。
「ダンテの墓を見たよ」
これも教わった言葉。
センテンスが短すぎるのが悲しいけれど、昨日に比べれば大躍進だ。
案の定、アンジェロは、言葉に詰まったように僕の顔を見ている。

ふふふふふ、驚いている。

第一目的は、果たせた。
いい気になって、階段を駆け上がって部屋に入ろうとしたら、腕をつかまれた。びっくりして振り返ると、アンジェロが何か言っている。何か言っているんだけど、わからない。
「リ、リペータ、アンコーラ」
もう一回言って、と、お願いしたところで、ネイティヴのイタリア語が聞き取れるわけがなかった。理解しようと真剣に聞いたんだけど、お手上げ。
僕より下の段に立っているのに、さほど変わらない位置から僕を見つめるアンジェロの瞳が、ふっと細められた。
一瞬の表情に、ドキリとした。
けれども、彼はいつもの皮肉そうな表情になって、英語で言った。
「ヒアリングは全然ダメだな」
「う……」
「明日の朝食で、何を食べたいか、この紙に書いておいて」
ピッと渡された紙の裏には、イタリア語でメニューが書いてある。僕が困ったのがわかったらしく、
「今日の朝と同じでよければ、これとこれ」
アンジェロが指でさした。
「ま、待って」
僕は、その紙を握り締めて言った。
「よかったら、このメニューに何が書いているのか、教えて」
プリーズと言ってしまってから、慌てて、ベルファヴォーレと言い直すと、アンジェロは、黙って階段を上がった。
(あ……)
やっぱりダメだったかと、気落ちしかけたら、アンジェロは自分の部屋のドアを開けたまま振り向いて僕を見ている。
部屋に入れってことかな。
急いで追いつくと、すっと肩を押されて部屋に通された。



ホテルの一室をプライベート用に変えたその部屋は、ベッドとオーディオ、そしてこれは客室と同じ、作り付けのクローゼットと、鏡台(前面に鏡が張っているから)兼ミニバー(足元に小さな冷蔵庫があるのだ)兼ライティングデスクがあるだけの、シンプルでモダンな部屋だった。ヨーロッパの家にありがちの余計な装飾が一切無いのも、落ちついている。さすがイタリアって感じ。
「座れよ」
促されて、夏用らしい綿のラグの上に座った。
昨日の賑やかな音楽の変わりに、ジャズっぽい曲が小さく流れている。
主と同じく、部屋までが、昨日と違う顔で僕を迎えてくれた。
「何か飲む?」
「ノン、グラッチェ」
「遠慮するな」
イタリア語で言って、アンジェロは僕の隣に腰掛けた。
ビールの小瓶と何だかカラフルな小物が手渡された。ピンクのスケルトンの、ウサギの栓抜きだ。アレッシィ。
可愛い!
でも、アンジェロのイメージにはそぐわない。
おかしくなって、ウサギを見て笑ってしまった。
「何?」
アンジェロが、眉間にしわを寄せる。
ソーリーと言いそうになって、言い直した。
「スクージ」
じっと見つめたら、灰色がかった青い瞳が見つめ返してくる。
その無愛想な瞳が、ほんの少しだけど優しい色を宿した気がして、嬉しくなった僕は、その後のメニューのレッスンにも真剣に取り組んだのだった。







アンジェロは相変わらずぶっきらぼうだったけど、慣れない僕のために、英語とイタリア語交じりの会話で色々と教えてくれた。
初日に会ったマウロやエリザたちは、その後、二回ほど顔を見せて、今日は「一緒に出かけないか」と誘われたけれど、先約があるからといって断った。

西本さんと約束していたのだ。

「先約?」
アンジェロは驚いた顔をした。イタリアに僕の知り合いがいたと言うのが意外だったらしい。そういえば西本さんのこと、まだアンジェロに話していなかった。深い意味は無かったのだけれど。
「うん、こっちに来て知り合った日本人なんだけど、今日は有名なワインセラーに案内してくれることになっているんだ」
「日本人?」
「うん」
「大丈夫なのか?そいつ」
アンジェロはどこか不機嫌そうに言った。
「え?ちゃんとした人だよ。もう何度か会っているし」
僕がいうと「何度か?」と小さく呟いて
「……一人で出かけているんだと、思っていた」
「えっ?」
「なんでもない」
アンジェロは、ふいと背を向けた。
「行こう」
エリザとクララを促して、外に出る。
マウロがその後ろを追いかけ、一度不思議そうに振り向いて、僕と目が合うと片目をつむって見せた。
僕は、取り残されたような気持ちになって、何も悪いことはしていないはずなのに、罪悪感まで覚えてしまった。
(一緒に行った方がよかったのかな……)
でも、西本さんとの約束だって、断るわけにはいかない。
今日は、彼の取引先のワイン工場を見学させてもらうことになっていた。




「工場っていっても、葡萄畑がメインでね。本当に広々と気持ちのいいところだよ。テイスティングもいくらでもしていいからね」
ハンドルを軽く握った、運転用のサングラスをかけた西本さんが、片頬で微笑む。
「僕は、お酒は、好きなんですけど……あんまり量は飲めないんです」
せっかくなのに申し訳なくて、頭を下げたら、
「それはもうわかっているから、大丈夫。それにね、実はもっといいものも用意しているんだよ」
ちらりと僕の顔を見て、楽しそうに運転用らしい薄いサングラスの奥の目を細めた。
「何ですか?もっといいものって」
「それは、言ってしまうとつまらないだろ?着いてからのお楽しみ」
「そうですか」
そして、目的地に着くまでの間は、たわいのない話をし、イタリア語も教わり、ときおり窓の外の景色に喚声を上げ、ドライブを楽しんだ。



ニ時間ほどのドライブの後で着いたそこには、見渡す限りの葡萄畑の真ん中にレンガ色の堂々とした建物がそびえたっていて、そのバックの真っ青な空と白い雲がまるで絵のように美しかった。
昔の貴族の領主が持っていた農園を、そのまま葡萄園にしたという話だ。
ワインセラーを案内してくれたバレンティーノは、西本さんとは仕事上の取引があるだけでなく友人としても親しいらしく、普段の見学者には出さないという秘蔵のものを次々に奥の部屋から持ってきてくれた。
「ビンテージのシャンパンです。私が彼におろす時の値段は25ユーロですけれど、日本では、その三倍はしますよ」
バレンティーノは、いたずらそうにくすくすと笑った。それって、一万円はするってことだろうか。手の中のグラスをじっと見つめていると、
「僕はせいぜい二倍にしか、つりあげてないよ」
西本さんは笑いを含んだ声で言って、チンとグラスを鳴らした。
「乾杯」
手渡されたシャンパンに口をつけると、すがすがしい葡萄の芳香と柔らかな口当たり、アルコールに弱い僕でもすうっと飲めた。
「美味しい」
「でしょう?」
「暑いから、発泡のほうがいいだろう」
さっきからこんな風に勧められて、かなりの量を飲んでいる。
もちろん、ティスティングだから全部飲んだりしないで、捨ててはいるのだけれど。それにしても――――
(ちょっと、まずいかも……)
頭の芯がボーッとしてきた。
「こっちは、同じタイプの、1990年」
新しいボトルが出てきたところで、僕は、片手を上げて遮った。
「あ、少し、酔っ払ったみたいなので」
「もう?」
「彼は、お酒は弱いんだよ。でも、嫌いじゃあないんだよね」
「はい」
西本さんの言葉に頷くと、バレンティーノはニッコリ笑って、それでも少し残念そうに、ワイングラスをワインで洗った。
「少し風にあたるといい」
西本さんが僕の背を軽く押して、窓のほうへと誘った。
試飲をしていた部屋は、建物のニ階にあった。
窓の横の扉を開けると、広々としたバルコニーがあって、そこからは葡萄園が一望できた。
「すごい」
眺めのよさにうっとりすると、
「そこの椅子にかけて、待ってて」
西本さんが、部屋に戻っていった。
そして、再びバルコニーに姿をあらわした彼は、手にアイスクリームの入ったグラスを持っていた。
「アイスクリーム?」
「そう」
グラスとスプーンを受け取る。ふわりと、甘酢っぱい香りが鼻腔をくすぐった。
白いアイスの上にかかった紫色の液体。
「これって、確か……」
「バルサミコ」
「やっぱり」
バルサミコ酢なら日本のうちの店にもあった。イタリア料理にはよく使う。こっちに来てからも、サラダや鶏肉によくかけて食べている。ルッコラのサラダにかけるのが、特に好きだ。
「アイスクリームにも、かけるんですか?」
「いいから、食べてごらん」
促されて、ひとさじすくって食べた。
「ん」
美味しい!
僕の顔を見て、西本さんは破顔した。
「美味しいだろう?」
僕は、西本さんが言っていた『お楽しみ』の『もっといいもの』が、これだとわかった。
「バルサミコも、いつものとは違うみたいだ」
お酢の一種なのに、どこにもキツイところが無くて、ふわりと甘い。上品なのに食欲をかき立てる不思議な香り。
「これはね、ここで作っているバルサミコの中でも、スペシャルクラス。三十年ものなんだよ」
「三十年?」
「後で、その仕込み部屋も見に行こう」
「はい」
バルサミコ酢をかけたバニラアイス。それが、こんなに美味しいなんて、びっくりだ。
兄さんたちにも、食べさせてやりたい。
「これって、買えますか?」
「うん?ああ、特別にね」
「日本に送ってやりたい」
「お兄さんは、シェフだったね」
「はい」
「喜ぶだろう」
「いくらですか?」
西本さんが首をかしげたままで、答えてくれないので、一緒に出てきたバレンティーノに訊ねた。
「80ユーロです」
げっ、一万以上だ。でも三十年ものなら、それくらいするのは仕方ないな。だぶん、これも日本だとその三倍はするんだろうな。
改めて、口の中のバルサミコ掛けアイスを味わっていると、
「僕から、プレゼントするよ」
西本さんにさらりと言われて、むせそうになった。
「……ダメです」
それでなくても、二回に一回はご馳走になっていて恐縮しているのに。もちろん残りもワリカン。僕が払うって言っても、西本さんは、絶対聞いてくれない。
「家族へのお土産だから、僕がちゃんと買います」
「いいんだよ。気に入ってもらって万里くんのところのお店で使ってもらえるなら、嬉しいし。サンプル提供ってことで」
「サンプルなんて、値段じゃないでしょう」
「いいから」
「ダメです」
「いいから、いいから」
レジ前のオバちゃんのようなみっともない争いをして、結局、最初から用意していたらしい西本さんが、綺麗に包まれた小箱を押し付けるように僕に渡した。
どうしていいかわからず困ってしまい、西本さんを見あげると、
「そんな顔しないで。喜んでくれると思ったのに」
彼は、ちょっと悲しそうな顔をした。
「あっ、いいえ」
僕は、慌てて首を振る。
「でも、こんなにしてもらって……」
本当に、本当に、困るのだ。
「何も、お返しできないし」
「万里くんが喜んでくれたら、それが一番のお返しなんだけど?」
「はあ……」
「それより、少しすっきりしたんなら、今度は赤を飲まないか?」

いつのまにか、バレンティーノがワゴンを運んでいた。
「少し暑いけれど、眺めがよくて、食事には最高の場所だろう?」
いろいろな種類のチーズとハムとパニーニ。
「遅くなったけれど、お昼にしよう」
「どうぞ、ごゆっくり」
バレンティーノは、セッティングだけ手伝って、いなくなった。
「いいんですか?」
「今日は、貸切りだから」
「そうだったんですか?」
そして、二人で遅い昼食を食べて、また赤ワインを飲んだ。
僕にしては、飲みすぎたかもしれない。




「……あれ?」
「起きた?」
冷たいものが額にあたる感触に目が覚めた。それが、西本さんの指だという事がわかって、僕は身体を起こした。西本さんの車の中だった。
「あれ?いつの間に……」
「酔っ払っちゃって車に乗せたんだけど、すぐに寝ちゃってね。どこかで休もうかとも思ったんだけど、酔っているのをホテルに連れ込むなんて悪いと思って、そのまま寝かせていたんだ。僕も、ついでに酔いを覚ましていた」
「は、はあ……」
記憶が途切れていて、混乱する。
僕は、そんなに飲んでいたんだろうか。
「な、何か、僕、変なことしました?」
「いや、くたっとして、眠っただけだよ」
「そうですか」
悪酔いしていないのは、お酒が上質だったからかもしれない。
そして、周りの暗さにビクッとする。
夏のイタリアで、こんなに暗いなんて。
「い、今何時ですか?」
「十一時かな」
「嘘っ」
今から帰ったら、夜中だ。
アンジェロたちは、心配していないだろうか。
一応、知り合いに会うとは言ったけれど、こんなに遅くなるなんて言ってない。
アンジェロの不機嫌そうな、ブルーグレーの瞳が浮かんだ。




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