「どこかでお会いしましたか?」
僕が尋ねると、その人は驚いた顔をした。
「本当?」
「え?」
「どこでだろう」
顎に手を当てて考えている。
「えっ、いや、そうじゃなくて、僕も、会ったことないとは思ったんですけど……」
あなたが親しげに笑いかけてくるからですよ、とは言えなかった。
「あ、そういうこと」
「そうです」
見つめあったまま、一瞬の間があいた。
何だかおかしくてふき出したら、その人も綺麗な歯を見せて破顔した。
「そうだよね、君みたいな子に会っていたら、忘れるはずないし」
(子?)
どうもまた子ども扱いされそうだという予感を抱きつつ、
「じゃあ、なんで……」
初対面の僕の髪を引っ張ったりしたんだと、自分で髪の毛を引く動作で訊ねると、
「いや、天井向いて笑ってる顔がかわいかったから、つい手が出てしまって」
「は?」
「いや、ごめん、ごめん」
何なんだ?
「それより、旅行?一人なの?」
「ええ、まあ」
「えらいね、海外は、初めて?」
ああ、やっぱり高校生くらいにしか思われてないな。
「いえ、大学に入った年に、ロンドンにも行きましたから」
一週間だけだったけど。でも『大学に入った年』をさり気なく主張したかいあって
「あっ、大学生なの?歳いくつ?」
「今年、はたちです」
歳を伝えることが出来た。
いや、別にいいのだけれど。どうでも。
でも、この後もずっと子ども扱いのままで会話が進むと、後からじゃ言い出せないからね。今までそうやって最後に気まずい思いをしたこともあったし。
つくづく童顔に生んでくれた母親を恨むよ。
「そう、じゃあ、大学の夏休みを利用してきたんだ。こっちには、どれくらいいるの?」
「一ヶ月です」
「それは、すごい。どの辺を周るんだい?」
「え?あ、その、特には、まだ……」
そう、一ヶ月間『カメララヴェンナ』に世話になるつもりで来ていた。着いてから、フランコに色々聞こうと思っていたのだけれど、彼のいない今、一ヶ月をどう過ごすのかは、自分で考えないといけないのだ。
もともとイタリアンをたくさん食べてくるというのが目的といえば目的の、よく考えると――いや、よく考えなくても――計画性の何もない旅行だ。
僕が言葉に詰まっていると、その男の人は、突然言った。
「ねえ、お茶しない?いや、お茶じゃなくて、エスプレッソだけど」
「えっ?」
「美味しいお店がたくさんある。よかったら、案内するよ」
「はあ」
なんだかよくわからない展開だったけれど、僕のほうも、イタリアという異国の地で会った日本人というだけで親しみを感じてしまって、誘われるままフラフラとついていったのだった。




「そんなに砂糖入れるんですか?」
エスプレッソ。
人形用のミニチュアみたいに小さなカップなのに、スプーン二杯も砂糖を入れた西本さんに驚くと、
「この底をスプーンですくって、食べるように飲むのがいいんだよ」
彼は、笑ってカップに口をつけた。
サン・ヴィターレで出会った彼は、西本昇一さんと言って、イタリアの食材を日本に輸出する仕事をしていると言った。やはり大学在学中にイタリアに来てすっかりほれ込んで、卒業と同時にイタリアの商社に就職したのだそうだ。
「今はもう独立して、自分でやっているんだけどね」
「じゃあ、社長なんですか?」
「従業員は、いないけどね」
「いなくても、できるんですか?」
「これがあればね」
かたわらに置いたノートパソコンを指す。
「ふうん……」
でも、その社長がなんで昼間から教会に来ているんだろう。観光客じゃないんだし。
と、内心訝しく思っていたら、それを読み取ったかのように西本さんが言った。
「旅行代理店に勤めている友人に頼まれて、たまにガイドもやるんだよ」
「ガイド?」
「日本人観光客限定でね。友人の代わりに」
「社長なのに、バイトもするんですか?」
お金持ちそうに見えたけど、実は苦しいのだろうか、と思って言ったら西本さんは大笑いした。
「バイトか。そうだな、今度からそうしよう。時給はいくらがいいかな」
「タダで、やってるんですか」
それなら、ボランティアだ。失礼なことを言ってしまったと赤面すると、
「マーケティングだよ」
西本さんは、微笑んだ。
「イタリアに来た日本人に、こっちの食材を食べてもらって、何が一番印象に残ったかとか、今、日本で何が売れているかとか、ナマの声を聞きたいんだ」
そして、ちょっと考えるようにして、
「今日のご婦人たちには参ったけどね」
と、呟いた。
「あ」
あの関西弁のオバちゃんが言っていた。『ええ男やで』っていうのは、西本さんのことだったのか。
「さっき、キリストのモザイク画の説明をしていましたよね」
「ああ、今日の団体さんはちょっとキョーレツでね。いつもならあと半日付き合うんだけど、友人に電話して交代してもらったよ」
あははは、と僕も笑った。あのパワフルなオバちゃんに囲まれたのは、さぞ大変だっただろう。
「よかった」
西本さんが、僕をじっと見て言った。
「えっ?」
「おかげで、万里くんに出会えた」
真面目な顔で言われて、ちょっと焦った。
「よかったら、連絡先、教えて?」
「は、はあ……」
どうしよう。

一瞬、躊躇はしたけれど、泊まっている所を教えることくらいは問題ないだろうと思って、宿の名前と連絡先の入ったカードを見せた。自分が外から連絡するような時の為に、カウンターの上にあったのを持ってきていたのだ。
「ああ、カメララヴェンナ……」
「ご存知ですか?」
「えっ?ああ、名前だけね。ほら、友人が旅行代理店の関係で」
「そうですか」
あんな小さい宿なのに、意外に知られているんだな。って、失礼だけど。
「この後は、どうする予定なの?」
「えっ?特には……」
「そう、よかったら付き合ってくれないか?美味しい魚貝類のパスタの店を紹介するよ」
「魚貝……」
フランコが作ってくれたパスタを思い出して、のどが鳴った。
どうせ僕一人では、どの店に入ればいいかなんてわからない。
「お願いします」
ペコリと頭を下げたら、西本さんは嬉しそうに笑って立ち上がった。
西本さんのシビック(日本車だ)の助手席に乗って、連れて行ってもらったのは町からかなり離れた川沿いの店だった。公園のような広い敷地にお城のような建物があった。
「ここ?」
西本さんのようなスーツならともかく、Tシャツとジーンズの僕にはちょっと敷居が高い店だった。
「ここはうちが日本に出しているのと同じパスタを使っているんだよ」
「そうなんですか」
思わず入口で立ち止まっていた僕だったけれど、西本さんがさり気なく肩を押してくれたので、その店に入ることが出来た。
連れて来てもらったのは、正解だった。
だって、僕一人じゃ、絶対に入れない店だったから。いや、外観だけでそう判断して自ら入らなかっただろうって意味。
入ってみると意外に普通の格好のイタリア人ばかりで、自分の服装のことも気にならなくなった。
そして、おすすめのパスタは、言葉通り美味しかった。
「どう?」
「美味しいです、すごく」
海老の殻が軟らかい。貝もびっくりするくらいたくさん入っていて、言っては何だけど、うちの父親が店で出している魚貝類のパスタの三倍以上具が入っている。
「ボーノ?」
「え?」
「ボーノって言うんだよ。イタリア語で、美味しいって意味」
「ああ、そうですね。ごめんなさい、知ってました」
以前、その単語だけはフランコに教わっていたことを思い出した。
そういえば、今朝、使わなかったな。マリアに言ってあげればよかった。
パンもチーズもカプチーノも、美味しかったのに。
そして、突然、自分がイタリア語の本を買いに出ていたことを思い出して、小さく声をあげた。
「あっ」
「どうしたの?」
「いえ……」
西本さんの目が続きを促すので、仕方なく口を開くと、結局、今朝の出来事だけではなくて、フランコのこと、家のこと、今回の旅行のこと、全部話すことになってしまった。
「へえ、じゃあ万里くんは、レストランの跡取りなの」
「いいえ、兄が調理師になっていて、今、その店で働いてるんですけど、行く行くはその兄が継ぎます。たぶん」
「万里くんは、シェフにはならないんだね」
「正直、そのフランコの料理食べるまで、そんなに興味なかったんです。家が飲食業なのに、ひどい話ですけどね」
「大学では、何を?」
「経済学部です。それも選んだのに深い意味は無かったんですけど」
なんとなく、つぶしが利きそうだったから。
「お父さんとしちゃ、お兄さんにシェフになってもらって、万里くんには経理とかマネージメントを任せたいと思ってるんじゃないの」
「そんな商才無いですよ。それだったら、弟のほうがよっぽどしっかりしてます。まだ高校二年生ですけどね。頭もいいし、身体だって僕より大きいし」
おかげで、二人で歩いていたら、どっちが兄かわからない。っていうか、大概、弟の勇人の方が上に見られる。
「身体の大きさは、関係ないだろうけどね」
と、西本さんは笑ってから、しみじみとした口ぶりで言った。
「男の子、三人兄弟なんだ」
「あ、姉もいるんです。一番上に……」
何だかちょっと恥ずかしくて、小声になると、また笑った。
「そっか、多分、一番可愛がられているんだろう?」
「誰がですか?」
「万里くん」
「そんなこと、ないですよ」
姉の喜美子が一番苛めるのはこの僕だし、兄はすごく優しいけど、勇人は、僕のことを兄とは思っていないみたいだし。
(でも―――)
イタリアに一ヶ月行ってくるって言った時には、皆すごく心配してくれた。
手放しで喜んでくれたのは両親だけで、兄は「何かあったらすぐ電話しろよ」って、お小遣いまでくれたし、意地悪な喜美子ですら「お腹こわすな」とか言って、いろんな薬をくれた。
勇人の「イタリアの男には気をつけろ」っていうのだけは理解できないけど、まあ、心配してくれたんだよな。
僕がちょっと考え込んで黙ったら、西本さんが、メニューを開きながら言った。
「愛されて、すくすく育ちましたって顔をしている」
「僕、ですか?」
「うん」
「……そうですね」
愛されているか、いないか、で言ったら、当然前者だ。
日本の家族の顔を思い出していたら
「ドルチェ…デザートは、どれにする?」
目の前に、メニューが差し出された。
「写真つきだから見てわかるだろう。好きなのを選んでよ」
「うわー、すごい」
アイスもフルーツも、てんこ盛りだ。
選びかねて、メニューの写真を何度も見ていたら、
「せっかくのイタリア旅行だし、いる間に、美味しいものをたくさん食べて帰るといい。君のお家の人も、きっとそう思ってるよ。僕が案内しよう。仕事上、得意分野だからね」
「えっ、でも……」
そりゃあ、美味しいイタリアンをたくさん食べるって言うのは、今回の旅行のテーマだったけど。
「もともと、フランコにいろいろ案内してもらう予定だったんだろう?」
「そうですけど」
「じゃあ、これも何かの縁だよ。僕が代わりに案内しよう」
西本さんは、ニッコリと笑った。
初対面から、その笑顔はとても感じがよかった。綺麗にカットされた黒い髪も男らしいくっきりした眉も、清潔感があって頼りになりそうな雰囲気。フランコにドタキャンされていたこともあって、僕は、つい頷いていた。
「よろしくお願いします」
西本さんは、嬉しそうに右手を差し出してきた。
「よろしく」
「あ、ヨロシクお願いします」
二回も同じことを言って、ギクシャクと握手した。
日本人ってあんまり握手する習慣無いからね。
「ついでに、イタリア語も、少しずつ教えてあげるよ。本なんか買わなくていい」
「本当ですか?」
それは、ありがたい話だ。
僕は、ふいにアンジェロの顔を思い出した。
僕が、イタリア語を話せるようになったら、彼はどんな顔をするだろう。
ちょっと楽しみになって、口元が緩んだ。
「何?」
西本さんが、首を傾げた。
「あ、いいえ、なんでもないです」
これから一ヶ月のイタリア生活がどうなっていくのか、また期待が膨らんでくる。
自分でも単純だと思うけれど。




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