彼の名前は、アンジェロ。 この宿屋の女主人マリアの息子。マリアというのはフランコの姉。だから、フランコが僕のことを『よく頼んでおいた』親戚っていうのは、このアンジェロも含まれているに違いないんだけど、どうもそんな雰囲気じゃない。 彼の友人のマウロと、エリザとクララが下手な英語で色々と話し掛けてくるのに比べて、彼は、英語を話せるくせに、必要最小限のことしかしゃべらなかった。 初対面から嫌われているっぽいのは、あの『ドアをダンダン』がいけなかったんだろうか? 色々と訊ねられたけれど、僕の年齢の話になったときは、一斉に(といっても、もっぱら三人だけど)驚かれた。僕のほうも驚いたことに、この四人は僕より二つも――正確には一歳半ほど――年下だった。 「日本人は若く見えるって言うけど、本当ね」 僕のことをキュートと言ったエリザが、すり寄ってきて、僕の頬をなでた。 「エリザ」 アンジェロが低い声で呼ぶと、エリザは叱られたように僕から離れて、そしてペロリと舌を出して笑った。 アンジェロとエリザは恋人同士なのかな。まあ、そんな雰囲気。マウロとクララだってそうだ。 要するに今この部屋には二組のカップルがいて、そこに珍しい日本人が一人混ざっておもちゃにされているといった状況か。 そう考えると、ばかばかしくなった。 「じゃあ、僕はこれで」 立ち上がると、アンジェロが素っ気無く言った。 「夕食は、どうするんだ?」 マウロが、 「俺たちと一緒に食べに行こう」 と、言っている。 正直、夜までこの四人と一緒というのは疲れると思った。 「今夜は、食べない」 まるでブロイラーのように狭い座席で機内食を詰め込まれたお腹は、まったくすいていないと言って良かった。 アンジェロはチラリと僕を見たけれど、その後は興味なさそうにタバコに火をつけた。 イタリアは、未成年でもこんなに堂々とタバコをすっていいのか? 「じゃあ」 僕はアンジェロの部屋を出て、すぐ隣の部屋に入り、ベッドに倒れこんだ。 隣の部屋からは、相変わらず派手な音楽が聞こえてくる。 アンジェロ、マウロ、エリザ、クララ… 彼らの目に、この僕はどう映ったんだろう。 『今夜は、食べない』 もっと、上手な断り文句があったんじゃないか? イタリア語は『全然』だけれど、英語だって本当に気持ちを伝えるには難しい。 これから一ヶ月も、日本語を話さない生活。 ホームシックになる柄でもないし、そんな子供でもないはずだけれど、期待が大きかった分、フランコのいないイタリアはつまらなく、不安だけが大きくなった。 いつのまにか眠っていたらしい僕は、ベッドサイドの人影にギョッとして跳ね起きた。 「チャオ! マリー」 ハイテンションな挨拶で近づいてきたのは、マウロだった。 「ルーム サービス♪」 歌うように言って、チーズとハムを挟んだパンと白ワインが乗った皿をベッドサイドのテーブルに置いた。 な、なんで? と、思ったけれど、その美味しそうなサンドウィッチを見て、突然お腹がすくのを感じた。 いらないと思っていたんだけど。 「サンキュー」 ベッドに座りなおして言ったら、マウロが近づいてきて 「チップは?」 僕の顔を覗き込んだ。 「あ、ごめん」 僕は慌てて財布を探ると、空港で崩しておいた1ユーロを取り出した。 次の瞬間、僕の唇を何かが掠った。いや、掠ったんじゃない。キスされた。 マウロに?! 「チップ! サンキュー」 アハハと笑いながら手を振ってマウロが出て行くと、その後ろにアンジェロが立っていた。 マウロのキスにあっけに取られていた僕だったけれど、アンジェロの近づいてくるけはいに、ハッと気を取り直して、まるで言い訳するように言った。 「びっくりした。日本じゃ、キスなんて習慣ないから…」 照れ笑いでごまかそうとしたら、グイッと顎をつかまれて上を向かされた。 な、なに? 「バカか」 「え?」 「イタリアにだって、そんな習慣ない」 意味がわからなくて、顎をつかまれたままアンジェロを見返す。端正な顔が怖いほど。 思わず視線が泳いでしまう。 アンジェロの親指が、僕の唇を拭った。 「うちはチップ不要だって言っただろ。それから、部屋の鍵は、ちゃんとかけろ」 部屋の鍵? そういえばかけてなかった、と、ドアに目をやると、次にアンジェロはさっさとそのドアから出て行った。 バタンとドアが閉まってから、ムッとした。 勝手に入って来た連中に『鍵をかけろ』って言われるのって、どうよ? そして、ふいに、僕の唇を拭ったアンジェロの指の感触を思い出して、落ち着かない気持ちになった。 「なんなんだよ…いったい…」 テーブルの上で、美味そうなサンドウィッチが、僕を誘った。 そうだ。お腹すいたんだった。 手を伸ばして、考えた。 やっぱり彼らは、いい人たちなのかもしれない。僕が夜、お腹がすくだろうという事を心配して、これを持ってきてくれたんだから。 「うん、たぶん、いい人だ」 美味しいチーズとハムが、そんな気にさせてくれる。 白ワインも、くせが無くて飲みやすいものだった。 イタリアに着いて初めての食事なんだな。 「やっぱり、ハム、美味い」 美味しいものたくさん食べようと思っていたことを、思い出した。 ヘコんでいた気持ちが、すこし空気を入れてもらったようになった。 人間、食べていないとダメなのかもね。 あ、マリアさんにもちゃんと挨拶しなきゃ。 段々と明るい気持ちになりながら、僕は、むしゃむしゃとサンドウィッチをほおばった。 翌日の朝。 カメララヴェンナの食堂は、一階の玄関を入ってすぐ隣にある。六人がけのテーブルが三つ、広いスペースにゆったりとしつらえている。僕のテーブル以外にも朝食のセットがしてあったから、実は他にも宿泊客はいたのかもしれない。昨日の夜、寝る前に挨拶したマリアは、ほっそりとした美人だった。ご主人はいないようだけど、それは昨日のアンジェロたちとの会話と、姿が見えないからそう思っただけ。アンジェロと違って、マリアはまったく英語が喋れなかった。 そのマリアが陽気な笑顔で話しかけてくる。マリアの言葉を、アンジェロが英語で言い換える。 「パンはもういらないか?」 「もう、十分。どうもありがとう」 「エスプレッソとカプチーノ、どっちにする?」 「あ、カプチーノをお願いします」 無愛想に見えたアンジェロだったけど、僕の食事の時間に合わせて、一緒にテーブルについてくれて通訳してくれるなんて、やっぱりいい人だ。 第一印象よりは、ずいぶんと高感度アップした彼の顔を見て、あらためてその造作の整った様子に感嘆した。長めの明るい色の髪は、左右で軽くウェーブを描いて肩の上に垂れ下がっている。男の長髪なんて不潔でうっとうしいってうちの父親の口癖だったけど、アンジェロのそれは、彫りの深い顔を際立たせていてカッコいい。髪と同じ色の眉は、目のすぐ上から綺麗な直線で伸びている。日本人の顔が間延びして見えるのって、目と眉が離れているからだよね。僕なんかどんぐり眼にへの字眉だから、間延び以前の問題で、口の悪い友人には『困ったちゃんの幼稚顔』だって言われたこともある。 大学生になってからも高校生扱いされることが多いし、下手したらガクチュウ。当然、二十歳以上に見られたことないし。あ、そういえば、こいつ僕より二つも年下だったんだ。思い出した。どうみても、こいつのほうが大人っぽいよな。 くそーっ、と内心呟きながらアンジェロの眉のあたりを睨んでいると、 「何?」 不機嫌そうな声が、思考を遮った。 アンジェロが、じっと僕を見ていた。 「あ、ごめん」 意味無く睨らまれちゃ、感じ悪いだろう。そう思って謝ったら、 「Sorry」 アンジェロは、皮肉っぽく笑って言った。 「あんた、昨日から何回この言葉言った?」 「え?」 「Scusi」 スクージ? 「覚えとくといい。イタリア語で、ごめんなさいって意味」 カッ、と顔が熱くなった。別に、昨日からしょっちゅうペコペコと謝っているつもりは無い。だけど『ソーリー』を繰り返し使ったことも確かだ。 アンジェロの言葉に日本人体質を指摘された気がして、恥ずかしさに顔を伏せると、ガタンと椅子を鳴らして彼は立ち上がった。 「じゃ、食べ終わったら、適当に部屋に戻れよ。Va bene?」 なんだか悔しくて返事が出来なかった。 やっぱり、アンジェロは、僕のことを嫌っている。 朝から通訳なんかしないといけなくて、うんざりしていたのかもしれない。 いいやつだなんて思ったのが間違いだった。 唇をかんでいたら、マリアが何か話し掛けてきた。 アンジェロがいなくなったので、当然ながら何を言っているのかわからない。 僕はあいまいに笑って――これも、日本人っぽくて自己嫌悪――食べ終わった皿を片付けた。マリアはその皿を受け取って、身振りで「そんなことはしなくていい」と言った。ニュアンスでわかっただけ。 その日、僕は本屋に行くことにした。 「イタリア語の辞典、買おう」 イタリア語で日常会話くらいできるようにならないと。 アンジェロにこれ以上負担をかけるのも嫌だった。 実は、日本で『イタリア語会話集』は買っていた。でも、間抜けなことにそれを家に忘れてきてしまった。日本語に堪能なフランコがいると思っていたから、そんなに心配はしていなかったし、大体、英語が喋れたら問題ないと思っていたんだ。 「イタリア人が、ここまで英語が喋れないなんて」 道を聞いても、ほとんどの人が「英語はわからない」と首を振る。 英語って言うのは、国際語じゃなかったのか? 「ミラノあたりじゃ、そんなこと無いんだろうな…」 ラヴェンナの町を歩きながら、つい八つ当たりしている自分を感じる。 しかしよく考えたら、イタリアに来ている自分が「イタリア語わからない」って言い切るほうが、失礼な話だ。 (そういえば……) 初めてアンジェロに会ったときのことを思い出した。 『ごめんなさい、イタリア語はわからないんです』 アンジェロは眉間にしわを寄せて、加えていたタバコを投げ捨てた。 (あれが……まずかったのかな?) 考えながら歩いていたら、メインストリートの突き当たりで大きな門に行き当たった。 「あ、ここ」 サン・ヴィターレ モザイク画で有名な教会があるとフランコが言っていた。 たしか、北海道の小樽と姉妹都市とか…いや、都市ってことないよな、教会だし…なんて言ってたんだっけ。 ブツブツと考えながら、つい、足を踏み入れてしまった。 見学に来ている観光客の列に混ざって、チケットを買う。 だって、せっかく来たんだから見ておかないとね。 他にもいくつか見学できるというセットもののチケットしかなくて、8ユーロっていうのはちょっと高い気がしたけれど、まあしょうがないか。 高校の美術の教科書で見たローマ風――かどうか正確なところはわからないけど――の彫像なんかを眺めながら、中に入ると、外の暑さが嘘のようにひんやりした。 薄暗い部屋の壁にも天井にも、宗教画が描かれている。 「あ、あれが全部モザイクなんだ…」 正面にキリストの顔。そして使徒たち。十字架。鹿だか犬だかわからないけれど、動物。 鳥は、鳩だろうな。 宗教画って興味も無かったし、聖書のどのシーンが描かれているのかなんてことも全くわからないけれど、とても綺麗だと思った。よく見ると、色とりどりの小さな石がひとつひとつ並べられていて、それが集合するとキリストや天使(?)の顔になっているのだから、すごい。 「これって、どれくらい昔に作られたのかなあ」 今ならCGであっという間にできる作業も、昔じゃ大仕事だったんだろうなあ。 と、教会の長いすに座って天井を見上げた。 観光客の団体が輪になって、ガイドさんの説明を聞いている。日本人だ。 聞き耳をたてると、よく通るバリトンの声が聞こえてきた。 日本語――たった二日で、懐かしい気がするのがおかしい。 そういえば、昔の詩人で、東京に出てきたんだけど故郷の訛りが聞きたくて上野の駅に通っていたって人がいたよな。誰だったっけ。 僕も、日本語が懐かしくなってここに通ったりして。まさかね。たった一ヶ月なのに。 自分の発想にクスクス笑ってしまった。 目をつぶると、団体客のおしゃべりが良く聞こえてきた。関西からだ。関西弁のおばちゃんたちが喋ってる。 「土産モンはどこに売ってるんやろな」 「ここで買わんでもええやないの」 「せやけど、うち、ぎょうさん頼まれててなあ…」 「お餞別も、もろとらんのに」 「ほんまやで」 「せや、思い出した。うちガイドさんに聞くことあったんやわ」 「あのガイドはん、ええ男やで」 パワフル。 関西のおばちゃんは、どこに行っても関西弁で押し切っていくんだろうな。 おかしくて、椅子に仰向けになったままクスクス笑っていたら、 「わっ?」 突然、髪を引っ張られて、身体が後ろに滑った。 天井を見上げたまま、身体が半分、椅子からずり落ちそうになった。 「な、何っ?」 慌てて体制を整えつつ振り返ると、背中のほうに見知らぬ男が立っていた。 「あ、ごめん、おどかしたかな」 日本人だ。 高そうなスーツを着た三十(歳)くらいの人だったけど、こんな人知らない。 でも、彼はまるで僕のことをよく知っているかのように、優しく微笑んでいる。 だれ? |
HOME |
小説TOP |
NEXT |