タクシーを降りて、後ろのトランクからスーツケースを二つ取り出した。
「グラッツェ」
慣れない言葉で礼を言うと、
「プレーゴ チャオ!」
若い運転手は愛想よく笑って、トランクが半開きなのも気にしない様子で土埃を立てて走り去っていった。
取り残されて、呆然と周囲を見渡した。と、言っても、この辺りに他に建物は無い。だだっ広い野原の中にポツンと建った家――
これが『カメラ(宿)ラヴェンナ』、
僕がこれから一ヶ月宿泊するはずのホテル―――?


「ホテルって聞いていたんだけど……」
どちらかというと一軒家に見えるそれの、緑色のペンキで塗られたドアには鍵がかかっていた。
「うそ……」
大学の夏休みを使ってやって来たイタリア。この宿は、父親の知り合いの紹介だけれど、初日から締め出されたのでは、シャレにならない。
「イクスキューズ ミ―」
叫んで、ダンダンとドアを叩いた。
恥ずかしながら、僕は、イタリア語は全く喋れない。
それなのに何故イタリアに来ているのかという話は置いておいて、とにかく、宿無しの恐怖に僕は、懸命にドアを叩いた。
「イクスキューズ ミ―」
「Si」
突然ドアが開いて、中からギョッとするほどのハンサムが顔を出した。いかにもイタリア風の彫りの深い顔に、わざと生やしているに違いないうっすらとした無精髭。唇の端からタバコをたらしているけど下品じゃない。
青とも灰色ともつかない不思議な色の瞳が、じっと僕を見つめた。
「あ…えっと……」
迫力に圧されて言葉を失っていると、その男は黙ったままドアの横についていた箱を指差した。
「え?」
見ると、ブザーらしいものが付いている。

ブブーッ

その男がそのボタンを押すと、あまり耳あたりの良くない音が響いた。
「ソ、ソーリー」
ドアを叩かずにこれを押せってことかと、謝りながら、でも、そもそも宿屋がなんで鍵をかけているのだろうと首をひねったら、男がイタリア語で何か話し掛けてきた。
「ごめんなさい、イタリア語はわからないんです。英語でお願いします」
英語で答えると、その男は僅かに眉間にしわを寄せて、加えていたタバコを投げ捨てて言った。
「マリオ ウエムラ?」
名前を尋ねられているのだとわかった。
「あ、万里です。マリ ウエムラ」
マイネームイズ……と、まるで中学生のような英語で答えていたら、彼は口の端で笑って僕のスーツケースを軽々と抱えて、そのまま二階に上がっていった。
慌てて後ろを付いていくと、階段上がってすぐの部屋に通された。
「ここがあんたの部屋。朝食は七時から九時の間で好きなときに食べていい。カウンターのベルを鳴らせばマリアが出てくる。夕食は付かない。チップはいらない。まあ、大したサービスも無い」
かなりわかり易い英語だった。ぼうっとしていたら、
「何か、わからないことある?」
顔を覗き込むように見つめられた。
「NO」
慌てて両手を振ったら、また笑われた。でも、あんまり感じのいい笑いじゃない――気がした。
とりあえず改めて挨拶しようと思ったら、もう彼は背中を向けていて、そのまま隣の部屋に入って行った。
閉じた扉には、プライベートと書かれていた。
隣の部屋が、この宿の人の部屋なのか。
そして、二階までしかないその宿の、他の部屋はせいぜい二つか三つ。
僕以外に泊まり客はいなさそうだった。
「大丈夫なのかな」
部屋のドアを閉じた僕は、十二時間の空と五時間の陸の移動で疲れ果てた身体をベッドに沈めた。


イタリアに来たのはフランコに誘われたからだった。
フランコはうちの父の友人で、イタリアンレストランのシェフをしている親日家だ。春にうちに遊びに来たフランコが作ってくれたイタリアンがむちゃくちゃ美味しくて、毎日こんなのが食べられるならイタリアに行きたいと行ったら、親戚がホテルを経営しているから紹介するって言ってくれたんだ。だから、思い切って夏休みの最初の一ヶ月をイタリアで過ごす覚悟を決めてきた。レストラン経営をしているうちの父は、もともとイタリア好きで、機嫌よく旅費を出してくれた。自分でも、甘やかされていると思うけどね。フランコの所でイタリアンの勉強をして来いなんて言っちゃって――
「なのに……これは無いよ」
ここに来るまでに何度も読み返した手紙を頭の上にかざした。
フランコのほうが突然日本の支店に呼ばれて、僕と入れ違いにイタリアを出ることになって、僕のことは親戚によく頼んでおいたって書いてあるんだけど。
さっきの様子じゃ、とても『よく頼んでおいた』って感じじゃない。
今の彼が、フランコの親戚なんだろうか?
若そうに見えたけど、僕よりは上だろう。
そこまで考えて、その『彼』の名前も聞いていないことに気がついた。
「そうだ。やっぱりちゃんと挨拶しておこう。これから、一ヶ月もお世話になるんだし」
と、その前にシャワーを浴びるか。何しろ家を出てから丸一日以上たっていて、身体中が埃だらけだ。
バスルームに入って、本当にシャワーしか無いのに驚いた。
こっちじゃ普通なのかな。
意外に広い洗面所とトイレ、その角に仕切られるように四角いシャワールーム。
一ヶ月、バスタブ無しっていうのは、ちょっと辛いかも。
「な−んて言っている場合じゃないか」
来た早々にへこみそうな気持ちを振り切るように、熱いお湯を頭から浴びた。





隣の部屋から、にぎやかな音楽が聞こえる。シャワーを止めると丸聞こえ。
防音は、よろしくないらしい。
着替えてすっきりした僕は、プライベートと書かれた扉をノックした。
返事は無い。
聞こえてないのかな。
そっと扉を開けて、覗き込んでびっくりした。
彼独りだと思っていた部屋に、他に三人の男女がいた。
やたら胸の大きい女の子が、僕に気がついて叫んだ。いや、叫んだとしか言いようの無いかしましい声だったんだけど、笑っているのかな。後ろを向いていた男の人が、立ち上がってこっちに向かって何か話し掛けてくる。
(うっ、イタリア語……)
口の中で呟いて、さっきの彼の姿を探すと、ベッドサイドに身体を預けたまま別の女の子の腰を抱いて、僕を見上げていた。
「あ……」
なんか、お邪魔だった?
「ごめん」
もう何度目かになるソーリーを繰り返してドアを閉じようとしたら、手前にきた男がそのドアを押さえて言った。
「ジャポネ?」
その後は早口のイタリア語が続いて、何が何だかわからない。
座っている彼が何か喋ったら、男の言葉が英語になった。
「日本から来たの?」
「イ、 イエス……」
「オーケー、オーケー」
どうも英語はそれほど上手くないらしいその男に腕を引かれて、中に連れ込まれた。
無理やり部屋の真ん中に座らされる。
(で、でかい……)
四人に囲まれて、イジメにあっている子供のような気になった。
でも、彼以外はやたらニコニコしていて、フレンドリーだ。
「こんにちは。はじめまして」
とりあえず、挨拶すると
「キュートvv」
髪の短いほうの女の子が、叫んだ。
キュート?
僕のことじゃないよな。もう直ぐ二十歳になるっていうのに『キュート』とか呼ばれる男って、いったい……。
でも、その女の子は僕を見て言っている。

イタリア初日から、目眩のしそうなスタートだった。




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