目が覚めたときアルベルトの瞳が最初に見たのはくすんだ色の天井、そして次には、ベッドの側らで自分を見つめる心配そうな親友の顔。
病院に運ばれたのはアリエルだったはず。自分がアリエルになったような不思議な感覚に、アルベルトはゆっくりと瞬きをした。
「気がついたか」
リヒャルトの低い声。
「鎮静剤を打たれたんだよ」
(鎮静剤……?)
アリエルの父親クレマンスが来たことを思い出して、アルベルトの顔がわずかに歪んだ。
「どうしたんだ、アル? あの人といったい何があったんだ?」
「アリエルは?」
アルベルトはリヒャルトの質問には答えず、ただ、アリエルの無事を訊ねる。
「アリエルは…どう…」
「まだ、意識は戻ってない」
リヒャルトは立ち上がった。
「先生にアルが目を覚ましたら、知らせてくれって言われているんだ」
部屋を出て行くリヒャルトの背中を見送って、アルベルトは横たわったまま、両手で顔を覆って神に祈った。
「どうか、アリエルを、助けてください」


リヒャルトの呼んできた医者に脈をとられ、簡単な注意を受けていたときに、病室のドアが開いた。
現れた人物にアルベルトの眉がひそめられ、医者は振り返って言った。
「こら、勝手に入ってきちゃいかん」
「すみません、先生。どうしても、彼と話がしたいのです」
神妙な顔のこの紳士が、今生死の境をさまよっている少年の父親だと言うことはわかっている。
アルベルトを見ると、先ほどのような混乱は無いようだ。
医者が座っていた椅子を譲ると、クレマンスは静かに呼びかけた。
「アルベルト……」
アルベルトは、黙ったまま。
「いつか、きちんと話をしなくてはと思っていた……」
医者が出て行く気配を背中で聞いて、クレマンスはひざの上で両手を組んだ。
「君は、もう、知っているんだろう」
「何をです?」
起き上がったアルベルトが、吐き捨てるように言う。
「僕が、あなたと母上の、神を裏切るいかがわしい行為の果ての子だということですか?」
「アルベルト……」
「そうだ。あなたたちのおかげで、僕は、神様に祈ることすら許されない。祈っても、僕の願いなど聞き届けてはもらえない」
この命と引き換えてでもアリエルを助けて欲しいという、切なる願いもきっと届かないのだ。
アルベルトは、唇をかんだ。
「アルベルト、話を聞いてくれ」
「何の話です。あなたたちが、アリエルを、ヒルデおば様を、そして僕の父を、裏切っていることは事実だ。そしてその証拠が、この僕だ」
「待ってくれ、確かに、君の父親はこの私だ。けれども、それはハーラルトを裏切っているわけじゃない」
ハーラルト。クレマンスの口から出た父親の名前に、アルベルトは一層きつくした目で睨みつけた。けれども、
「君のことも、私とイルマのことも、ハーラルトは知っている。そして、ヒルデも……」
クレマンスの突然の告白に、アルベルトは両眉を開いて愕然とした。
「ま、さか…」
「本当だよ。そういう意味で、私たちが裏切っていたのは、アルベルト……君とアリエルの二人だ。もう少し大人になってからきちんと話そうと思っていたのだけれど、間違っていたらしい」
「そん、な……」
父もおばも、知っていたというのか。
知っていて――
「知っていて、何故、許されるんだ」
アルベルトは、叫んだ。
「だから、話を聞いて欲しい」
クレマンスは、静かに語り始めた。

「知っていると思うが、私とイルマは幼馴染みだ。十二の歳にお互いに恋していることに気がついた。それから私たちは、将来を誓い合って一緒に大きくなった。二人の家の関係からいっても、将来結婚することは疑うべくも無かった。私は分家とはいっても名門バルドゥールの男で、イルマの実家のホーフェン男爵家は、代々、バルドゥール家との血縁関係を築いていたからね。それが、イルマが十八歳になった年、突然――」
クレマンスは、何か思い出したように顔を曇らせ、言葉を詰まらせた。
「突然、本家のハーラルトとイルマの婚約話が持ち上がった。ハーラルトには、他に伯爵令嬢の婚約者がいたのだけれど、あることで破談になってね」
『あること』と言ったとき、クレマンスの薄紫の瞳が揺れたのを、アルベルトは見逃さなかった。
「イルマはもちろん嫌がった。私も、イルマを他の男に渡すことなど出来ない。お祖父様に、君やアリエルにとっては曾祖父にあたるのか、そのバルドゥールの当主にお願いに行ったよ、自分達を結婚させて欲しいとね。結果は、叱責されただけだった。私たちも若かったからね、許されないならと、駆け落ちしようとした」
駆け落ちと聞いて、アルベルトの目が見開かれ、クレマンスは、ふっと微笑んだ。
「それしかないと思ったんだよ。……まだ夜明けまで数時間という星も無い夜だった。そのころ可愛がっていた乗り馬のクライネをそっと小屋から連れ出して、屋敷の裏から出て行った。ホーフェンの屋敷の裏門では、約束どおりイルマが待っていたよ。イルマを鞍に乗せて、その後ろにまたがって、私はクライネの腹を蹴った」
アルベルトの頭の中に、母親の実家の森が浮かんだ。
暗い森の中を疾走する馬と、恋人たち。
「近くの駅だとすぐに見つかってしまう。始発が走るまで隠れている場所も無いから、私たちは、隣町の、そのまだ先まで馬を走らせた。次第に明けていく空の、初めて見る不思議な色にイルマは感動して泣いた。私は、そんなイルマが愛しくて泣いた」
クレマンスは、照れたように呟いた。
「本当に、若かったんだよ」
アルベルトは、若かった頃の母親を想像してみた。
今でも十分綺麗な母だ。さぞ、美しく可憐だったのだろう。
そして、駆け落ちなどという行動もとれるくらいに、大胆で情熱的だったのだ。
「けれども、バルドゥール家の追っ手は、あっという間に、私たちを見つけ出した。パリに向かうつもりの途中の駅で私たちは捕まって呼び戻された。イルマはそのまま屋敷に閉じ込められて、私も会うことが出来ずに三ヶ月もたった時、イルマが妊娠していることがわかった」
アルベルトが、ハッと顔をあげる。
「そう、君だよ。私とイルマが駆け落ちの途中で初めて結ばれたときに宿った子だ」
クレマンスは、アルベルトを、じっと見つめて言った。
「心から愛し合った恋人同士の子どもだ」
「あ……」
アルベルトは、声を震わせた。
「だ、だったら、何故、二人は、結婚しなかったのです……」
心から愛し合った二人に、子どもが出来たのなら、祝福されて結婚すべきではないか。
アルベルトの問いに、クレマンスは、辛そうに眉間のしわを寄せた。
「再び、お祖父様にお願いに行ったよ。今度は、叱責だけでなく、激しく打たれた、何度もね。それを止めたのは、お祖母様だった」
クレマンスは、その日のことを、忘れない。
祖母のしわがれた声が、もう二十年近く経つというのに、生々しく耳によみがえる。
『あなた、あなた、おやめください、ちょうど良かったじゃありませんか』
『これで、バルドゥール家の本家の跡取りが出来たということですよ』





うつむいて黙り込んでしまったクレマンスを、アルベルトはじっと見つめた。
クレマンスは、過去を振り切るように頭を軽く振った。
「イルマは、君を堕胎するか、ハーラルトと結婚して君をハーラルトの子どもとして育てるか、二つに一つを選べといわれて、生む方を選んだんだよ」
アルベルトが目を見開く。
「今でもときたま考える。どうしてあの時、イルマを止めなかったのかと。いや、君を生んで私たち二人で育てる道を選ばなかったのか、とね。けれども、私もイルマもまだ二十歳にもなっていなくて……一度駆け落ちに失敗してからは、バルドゥールには逆らえないという気にもなっていた。まだお腹が目立たないうちにと、お祖母様にせかされるまま、イルマはハーラルトと結婚した」
「そんな……父上は、どうして……」
嫌がらなかったのか。赤の他人の子どもを身ごもっている女とバルドゥール家の直系の結婚など考えられない。アルベルトが内心で考えたことは、クレマンスにはすぐにわかった。
「ハーラルトもこの話には喜んで乗ったよ。ハーラルトは、子どもが欲しかった。バルドゥールの後継ぎとしての、ね」
アルベルトは、ほんのわずかに首をかしげた。
クレマンスは、瞳に複雑な色を宿して、アルベルトを見つめていった。
「ハーラルトは、女性を愛せない」
アルベルトは、一瞬、息を詰めた。
「そんな顔をするな。バルドゥールの血筋には、多いんだそうだよ」
苦笑するクレマンスに、アルベルトは顔に血を上らせた。心臓が激しいリズムを打ち鳴らす。
「女性と関係のもてないハーラルトは、ホーフェン男爵家の令嬢が、しかも後継ぎの子ども付きで輿入れしてくれるのは、大歓迎。事情を知るのは、身内と口の固いわずかな使用人のみ。ハーラルトとイルマの盛大な結婚式の日、私は浴びるほど酒を飲んで、廃人になっていた」
ここまで話して、クレマンスは息をついた。
アルベルトは内心のショックを押し隠して、クレマンスに言った。
「つまり、身内の人たちには、僕が誰の子供かということも、お二人の関係が続いているということも……全て、知られているというのですね。だから、裏切りではないのだと……」
「いや」
クレマンスは、否定した。
「神様に許される行為だとは、思ってはいないよ。そして、君たちにも……」
そっとアルベルトの手に、自分の手を重ねて
「けれども、君は、神様に祈ることが出来る。何を恥じることも無い。愛し合った二人の結晶なのだから……醜くも、汚れてもいない。美しいアルベルト。どうか、アリエルのために祈ってくれ……まだ若い、いや、幼いほどの魂が、神様に愛されすぎて連れて行かれないように……」
「おじ様……」
アルベルトは、ひざの上で両手を固く結んだ。
うなだれて、祈る。
「アリエルを…助けてください……アリエル…僕の、弟……」
アルベルトの呟きに、クレマンスはかすかに眉を寄せて、言うべきか否かを逡巡した。
迷った挙句に、口を開いた。
「アルベルト、もう一つ話すことがある」
アルベルトがゆっくり顔をあげる。
「アリエルのことだ」
アルベルトの顔が悲しげに歪む。何を言われるのかわからないが、楽しい話など期待できない。けれども、クレマンスは首を振った。
「アリエルは、きっと無事に目を覚ます。だから、話しておこうと思う。今回のように、話しておくべきだったと後悔することの無いように」
「何の話です?」
「アリエルは、私の息子ではない」
突然の言葉を、アルベルトが理解できないうちに、
「君と、アリエルは、血はつながっていないんだよ」
クレマンスがゆっくりと言い聞かせるように言った。
「血は…つながって、ない……」
呆然と呟くアルベルトに、クレマンスはうなずいて、もう一つの話をはじめた。

「ヒルデは昔から身体が弱く、特に小さいときに胸の病を患ってからは、セックスにも出産にも耐えられないということで縁談も無かった。一見大人しいが芯はしっかりした少女でね。性格はイルマにも似ていて、好感は持っていたけれど、私にとっては妹みたいな存在で結婚相手ではなかった」
アリエルに良く似たヒルデの顔を思い浮かべる。
「イルマが結婚して自暴自棄になっていたときに、私とヒルデとの婚約話を持ちかけてきたのも、お祖母様だった。もちろん、即座に断った。けれども、ヒルデは乗り気だという。直接会って、傷つけないように断ろうとしたのだが、会ったときにヒルデが言ったのは、偽装結婚という話だった。私がイルマをどんなに愛しているか知っている。自分は身体が弱くて人並みの結婚生活はできないから、せめて形だけでも、幸せな妻になってみたいという。イルマも賛成していると」
「そんな」
「イルマにしてみれば、私が別の女と結婚するくらいなら、と考えたらしい」
「で、でも、それじゃ、アリエルは……?」
「ああ、結婚して数年、私たちはままごとのような結婚生活を送った。寝室も別。私は、夜になるとそっとイルマと出かけた。もちろんハーラルトの了承済みだ。そんな時、ヒルデが、パリに行きたいと言った。そのころ、ヒルデの身体も落ち着いていたし、生まれてから殆ど屋敷の外に出ていないヒルデがかわいそうで、私はその願いを聞いた。そして、パリの社交界。生まれてはじめての華やかな世界で、ヒルデは、ひとりの男性と恋に落ちた。それがアリエルの父親だ」
言うのをためらってから、ポツリと付け加える。
「不思議なことに、その時、発作は起きなかったそうだよ」



「誰なんです?」
クレマンスの告白を噛み締めるように聞いて、ようやくアルベルトは口を開いた。
「その、アリエルの父親は」
クレマンスは首を振った。
「わからない。ヒルデも、絶対に言わない。ああ見えて強情なんだよ」
クレマンスは、フッと溜め息のように笑う。
「私もイルマとのことがあって後ろめたいものだから、強くは聞かなかった。そして、その後大きな発作を起こしたヒルデは、屋敷に帰って一日の半分以上をベッドで過ごす生活になった。ヒルデのお腹の子は、私の子として皆が喜んでくれたよ。生むことについては、身体のこともあってヒルデの両親はずっと反対していたけれど、ヒルデは聞かなかった。本当にそんなところもイルマに似ている。アリエルが、私の本当の子では無いということを知っているのは、私とイルマとヒルデだけだ」
「それを、何故…僕に……」
「アルベルト……神様は、ずっと嘘をつき続けることを許してくれないことがある。いつかアリエルが真実を知るようなことがあったとき、支えになれるのは、君しかいないと思っている」
「…………」
「私は、アリエルを愛しているよ。血のつながりがあろうと無かろうと、私の大切な息子だ」
アルベルトをじっと見つめて、男らしい顔を泣きそうに歪めた。
「そして、君のことも、ね」
「お……」
お父様とはさすがに呼べず、アルベルトはうつむいた。
その頭を、大きな手がゆっくりと撫でる。
少し前なら激しく振り払っていただろう手を、アルベルトは、どうしていいかわからない――泣きたいのか笑いたいのか、嬉しいのか悲しいのか――どうにもならない気持ちで、ただ受け止めた。

そこに、病室にも響く大きな足音が聞こえた。
「アル、アリエルが!」





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