それは、突然だった。 自分の部屋の前に立つ小さな影に、アルベルトは立ち止まる。 振り向いたアリエルは、嬉しそうに駆け寄ってきた。 「アル」 アルベルトは、声も無く立ち尽くす。 「風邪だって聞いていたの。もう、よくなったんだね。よかった」 自分こそ長い間ベッドに臥していながら、そんなことをまるで気にした様子無く、アリエルはアルベルトを見上げて微笑んだ。 (アリエル……) もう、大丈夫なのか。 自分が聞きたい。 「あ……」 アルベルトが口を開きかけたとき、ふと視線を落としたアリエルが、引き寄せられたように一点を見た。 アルベルトの左の手。 固まったままじっと見つめるアリエルに、アルベルトはぎこちなく左手を庇うように手を組んだ。 「指輪、どうしたの?」 アリエルがポツリと訊ねた。 まだ視線はアルベルトの指を追いかけている。 「どこかで、落としちゃったの?」 ゆっくりと顔をあげてアルベルトの顔を見つめるアリエルには、ついさっきまでの笑みは無い。 表情を無くした、無防備ともいえる顔で、アリエルは小首をかしげた。 「はずしちゃったの?」 「アリエル……」 苦しげに呟かれたひと言に、アリエルは弾かれたように、アルベルトにすがりついた。 「どうして? どうして、はずしたの?」 アルベルトは、思いのほかの強い力で、壁に押し付けられる。 「ねえ、どうして――」 アルベルトの上着の胸を掴んで、アリエルは悲痛な声で叫ぶ。 「アル、僕の指輪―――どこにやったのっ」 アリエルの叫び声を聞いて、リヒャルトが駈け寄って来た。 アルベルトにすがりつくアリエルを両手で引き離す。アリエルは、頭を振って嫌がった。 「僕の、交換したのに、どこに…っ…」 「アリエル」 リヒャルトがアリエルを背中から抱き締めて、耳元で言い聞かすように低く叫んだ。 「ここにある。俺が、持ってる」 アリエルは目を見開いて、暴れていた両手をだらんと降ろした。呆然と目の前のアルベルトを見つめる。 アルベルトは、押し付けられた壁に背中を預けたまま、何も言わずにアリエルを見返した。 「どうして…僕の指輪を、リヒャルト先輩が持ってるの?」 この問い掛けは、アルベルトに。 けれども、答えは後ろからきた。 「もらったんだ」 リヒャルトが、無理やりアリエルを振り向かせる。 よく分からないという顔で見上げたアリエルを、リヒャルトは、力強い腕で抱き締めた。 アルベルトは、とっさに目を伏せた。 「アルから、お前に返すように言われて、預かっていた」 リヒャルトの言葉に、アリエルの身体がピクリと痙攣した。 「だから、俺がもらう。アリエル、俺と交換しよう」 リヒャルトは、アリエルの柔らかなブロンドに顔を埋めて、かきくどく。 「アリエル、好きだ。アルベルトより、俺を選べよ」 アリエルの瞳は、目の前のリヒャルトの胸よりも遠くを見つめている。 「返す……?」 リヒャルトの言ったことをゆっくりと頭の中で反芻する。 『返すように言われて――』 「ど、して……」 どうして。 だって、リヒャルトが言ったんだ。 アルベルトは、僕のこと、愛しているって。 愛してくれていて、だから、言葉がかけられなかったんだって。 僕のこと、嫌いになったりしていないって。 リヒャルトが……。 「嘘つき……」 呟くと、リヒャルトが顔を覗き込む。 「アリエル……」 「言ったくせに……」 (嘘つき) 気がふれたかのような虚ろな声に、リヒャルトもアルベルトも背中にゾクリと震えが走り、アリエルを凝視する。 アリエルは、突然リヒャルトの胸を突き飛ばした。 不意を突かれたリヒャルトが一歩後ろにさがった隙に、アリエルは駆け出した。 「アリエル!」 「待て」 アリエルは、階段を駆け上がっていった。 「アリエル」 すぐに追いかけたけれど、 「うわっ」 階段の途中でアリエルが脇をすり抜けた相手が、足を踏み外してそのままリヒャルトとアルベルトに覆い被さるようにして、行く先を邪魔した。 「ったぁっ」 転んでいる同級生を 「悪い、邪魔」 押し退けて、リヒャルトはアリエルを追いかける。アルベルトも黙って続いた。 その間にアリエルは、まっすぐ三階まで走っていた。 (アルに嫌われた――) 本当は、わかっていた。あの日、アルベルトの瞳を見たとき。 汚れてしまった自分を見つめて、薄紫の瞳の奥を翳らせた。 わかっていたけれど、わからないふりをしたかった。何もかも、忘れたことにしてやり直せたらと思ったけれど――。 そんなこと……できるわけ、ない。 もう元には、戻れない。 僕はもう、アルベルトに、好きになってもらえる資格が無い。 もう、僕は―――。 三階の廊下の突き当りには、大きな出窓がある。 その横の梯子をつたって、屋根に上がれる。 屋根の修理をしたりする用務員しか開けてはいけないといわれているけれど――。 出窓の錠に手を掛けると、掛けがね型のそれはすぐに外れた。 大きく窓を開けると、冷たい風が吹き込んで、アリエルの金色の髪を揺らした。 「アリエル?」 「やめろっ」 すぐに大きな声がした。 アリエルは、振り向いて、アルベルトを見た。 美しいアルベルトの顔が、恐怖に歪む。 (アル……) アリエルの瞳が、呼びかけた。 (さよなら……) アリエルは、アルベルトを見つめたまま、背中から窓の外へと身を投げた。 「アリエル――ッ!!」 駆け寄る二人の目の前で、アリエルの小さな身体が消える。 アルベルトは悲鳴をあげながら、自分も窓の外へと身を乗り出す。 「バカッ、お前まで、落ちてどうするっ」 リヒャルトが、アルベルトを窓から引き剥がす。下を見ると、仰向けに倒れたアリエルの周りに、下にいた生徒たちが駆け寄っている。 「触るなっ」 下に向かって大声で叫んで、リヒャルトは階段を駆け下りる。 「いくぞ」 振り返って叫ぶと、アルベルトはハッとして、真っ青になった顔で続いた。 アリエルは、病院に運ばれた。 葉は落ちてしまっていたけれど大きく伸ばされていた木々の枝が、かろうじて一度はクッションになったのと、冬というのに緑を保っている芝生のおかげで、即死には至らなかった。 けれども、頭と背中を強く打っているため、安心はできない。 「アリエル…アリエル……」 アルベルトは両手を組んで額に押し付け、アリエルの名前を呼び続ける。 (神様……助けてください……) アリエルの命が助かるのなら、自分の命をかわりに差し出します。 お願いです。アリエルを連れて行かないで下さい。 「お願いです……どうか……」 身体中を震わせて神に祈り続けるアルベルトの横で、リヒャルトは、自分の愚かさをこれ以上ないほど悔やんでいた。自分自身を激しく罵る。 アリエルに、アルベルトのことを忘れさせるなど――そんなことが出来るなど、思い上がりも甚だしい。アリエルは、落ちる瞬間までアルベルトのことしか見ていなかった。 アルベルトに嫌われてしまったと思ったことで、生きる希望を失ったのなら、アリエルを追い込んだのは自分だ。 「なんで、俺は……」 アリエルのことになると、いつもいつも、後悔することばかりだ。 アリエルは、アルベルトを愛している。嫌われたなら、生きてはいけないほど。 そして、アルベルトもまた、アリエルを愛している。 リヒャルトは、側らのアルベルトを見た。 青ざめた頬に長いまつ毛が影を落とし、震える唇は必死に祈りを捧げている。不謹慎だが、美しいと思った。 この美しい友人のためにも――― (神様、アリエルを助けてください) リヒャルトも心で叫んだ。 「アリエルッ」 病院の廊下に足音が響いて、長身の男が駈け寄って来た。 「あっ」 リヒャルトは、それが先日会ったアリエルの父親だとすぐに気がついて、腰を浮かした。 いくらなんでも早すぎる。アリエルの実家からここまで、半日以上はかかるはずだ。 リヒャルトは、驚いたが、後になって理由はわかった。 校長にアリエルの件で話があると呼び出されていたクレマンスは、学校に着くなり、この事故を聞いて駆けつけてきたのだった。 「いったい、どうして」 顔を強張らせて訊ねるクレマンスを、うつむいていたアルベルトがゆらりと顔をあげて見た。 「どうして……?」 呟いて、立ち上がる。 クレマンスの首に、細い指を掛けた。 「あなたが、悪いんですよ」 アルベルトの言葉に、クレマンスは目を瞠る。 「あなたが……あなたのせいで――」 アルベルトは苦しげに呟いて、クレマンスの咽喉を締め付けた。 「何を言ってる?」 クレマンスはアルベルトの手を振り払おうとしたが、狂気にかられたアルベルトは、考えられない力でその首を絞めた。 「や、やめ…」 「やめろ、アル、どうしたんだ。おいっ」 リヒャルトが後ろから羽交い絞めにする。 「あなたが……あなたのせいで、僕が……」 アルベルトは、両の目から涙を流して訴える。 「何を言ってるんだ。アル」 リヒャルトの叫び声に病院の人々が駆けつけてきて、 「やめなさい、何をしているっ」 アルベルトを押さえつけた。 「あなたのせいだっ」 クレマンスから引き離されて、アルベルトは血を吐くように叫んだ。 「あなたのせいだ……あなたのせいで、僕はアリエルを傷つける……」 泣き崩れるアルベルトを見て、クレマンスは咽喉を押さえながら、どうしていいかわからない様子でゆっくりと首を振った。 |
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