部屋の前に立つほっそりとした長身に、リヒャルトは目を瞠って
「やあ、薔薇の君」
いくぶん投げやりな陽気さで声を掛けた。
アルベルトはゆっくりと振り返って、近づくリヒャルトを待った。
「どうしたんだ」
「エーリッヒが、僕の辞書を持って行ってしまってね。悪いが、貸してくれないか」
額に落ちる前髪を無造作にかきあげる細い指。その指にリングが無くなっていることを、エゼルベルンの生徒たちは、いいように噂している。
「こんなときにもお勉強か、さすがだよ」
リヒャルトの口ぶりに、アルベルトは険を感じた。
「機嫌が悪いな」
「お前は、ご機嫌だって?」
「リック…」
二つ隣の部屋から出てきた下級生が、立ち話をしている二人に気がついて、チラチラと視線をよこした。
「部屋に入れてくれないか」
「もちろん」
リヒャルトの部屋に入り、バタンとドアが閉じられると、アルベルトは溜め息をつくように言った。
「この間、頼んだことを怒っているのなら……」
「怒ってるか? ああ、もちろん、怒ってるよ」
リヒャルトは吐き捨てた。
「でも、お前にじゃない。あんなことを頼まれて断らなかった自分に。それから、頼まれながら出来ない自分に、だ」
「リック」
「そうするのが、自分にとってもいいことだって分かっていてもね」
リヒャルトは、ポケットの中からアリエルのリングを取り出した。
困ったように見つめるアルベルトの前で、リヒャルトは、そのリングにそっと口づけた。
アルベルトの目がわずかに見開かれる。

「アリエルのこと、愛しいと思う」

リヒャルトの告白は、アルベルトの胸を突いた。

「かわいそうだと思った。もし、あのことが、俺の言い出した十月姫が原因だったら、申し訳ないとも思った……」
目を伏せたまま、リヒャルトは言葉をつないで
「かわいそうで、申し訳なくて……でも、この気持ちは、同情や贖罪じゃない」
指輪をギュッと握り締める。
「愛しい。お前のこと必死で想ってるアリエルが、愛しくてたまらない」


アルベルトは、ただ黙っていた。
自分の代わりにアリエルの支えになってくれと、自ら頼んだにもかかわらず、この親友の告白に、信じられないほど動揺している。
「なあ、どうしたらいいと思う」
「……どう、って」
声が震えてしまったのを、リヒャルトはどう聞いただろうか。
「君の好きなようにすればいい。僕は、もう関係ないのだから」
「関係ない? だったら、なんでそんな顔をしてるんだよ」
リヒャルトに睨まれて、アルベルトは、身体がグラリと揺れるのを感じた。
蒼白になったアルベルトは、そのまま、糸の切れた人形のようにストンとベッドに腰掛けた。
「僕は」
床を見つめて、虚ろに呟く。
「だめなんだ。僕じゃ」
「それは、こっちの台詞だ」
忌々しげにリヒャルトが叫ぶ。
「俺こそ、ダメなんだよ。お前でないと」
椅子を引いて、リヒャルトはアルベルトの向かいに座った。
大声を出したことを反省するように静かに語りかける。
「アリエルは、お前じゃないとダメなんだ。わかってるんだろう? なのに、どうして、お前はそうなんだ。この前は話が出来なかったけれど、今日はちゃんと聞かせてくれよ」
真摯な眼差しで自分を射るリヒャルトに、アルベルトは心の逡巡を垣間見せるように瞳を揺らした。
リヒャルトは辛抱強くアルベルトの言葉を待ったが、アルベルトは、結局、ただ静かに首を振った。
「話すことは、無いよ」
「アル!」
「辞書を、貸してくれるかい」
本棚に目をやるアルベルトに、
「ふざけるなよ、この野郎」
リヒャルトは、悪態をついて立ち上がる。
それでも頑なに黙っているアルベルトに向かって、リヒャルトは言った。
「わかった。お前がそんなふうなら、俺も遠慮はしない」
挑戦的な瞳で見つめる。
「アリエルに、お前のこと、忘れさせてやる」
「リック……」
「ああ、そうだ。初めから、遠慮なんかするんじゃなかった」
あの日、この部屋で、鏡の中に金色の巻き毛の天使を見たときから――いや、その前に、からかい半分でちょっかいをかけていた時から――惹かれていたのだ。




* * *

「アリエル」
部屋から顔を覗かせたのは、フランツだった。
「あ」
久し振りの顔に、アリエルが微笑む。
フランツの後ろから、パウルが嫌そうに顔をしかめて現れる。けれども、この顔は演技だ。
「フランツとは訳あって絶交していたんだけれど、どうしても仲直りしたいって言うから、許してやったんだ」
「ゴメン……」
「絶交って? 何のケンカをしていたの?」
「僕たち二人の間のことさ。それで、アリエルのお見舞いにも、僕が来させなかったんだよ」
パウルが言うと、フランツもうなずいた。
二人の喧嘩が自分と関係があるなどとは思いもしないアリエルは、
「そう。どうしているのかなって思ってたんだ」
懐かしそうにフランツを見た。
「ごめんね、アリエル」
「いいよ。僕の方こそ、心配かけてごめんなさい」
「顔色、良さそうだね」
「うん。もう、大丈夫」
アリエルが、再びよく見せるようになった天使の微笑で
「早く元気になって、アルのお見舞いに行くんだ」
そう言うと、フランツは怪訝な顔をした。
パウルが慌てて、フランツの袖を引く。
「フランツ、ほら、あれ持って来たんだろっ」
「んっ? ああ、そう。うちからチョコレート送ってきたんだ」
片手に持っていた包みを開く。
「これで、仲直りさせてもらったようなものなんだけど」
アリエルのひざの上で缶の蓋を開けると、美味しそうなチョコレートがずらりと並んでいる。
「この白いのが掛かっているのが、すごくおいしいんだよ」
「綺麗だね」
「ねっ」
チョコレートの缶を覗き込む二人を見ながら、パウルは話が逸れてくれたことにホッとした。
アリエルは、一昨日から突然元気になっている。ちゃんと食べないといけないと言って、食事も残さなくなった。
(リヒャルト先輩が、来てくれたおかげみたいだけど……)
パウルは、そっとアリエルの横顔を見た。
よかった――と、思いたい。
けれども、本当は、アリエルの突然の変化が恐ろしい。
その前までのアリエルをそばで見ているだけに、今のアリエルは、何か自分の中で嫌なものに無理やり蓋をしてしまったようで。あの恐ろしい出来事さえも忘れてしまったかのように微笑むアリエルは、ひどく脆くて危険な気がした。
「ねえ、パウルも食べよう?」
「う、うん」
パウルは、嫌な考えを振り払った。
(今は、アリエルが早くもとの生活に戻れるようにしてあげなくちゃ……)


次の日の朝。
ボルグ教諭はいつものアリエルの診察を終えると、にこやかに言った。
「この分なら、もうそろそろ授業に復帰できるかな」
「はい」
微笑むアリエルの頬には薔薇色の血色が戻っている。ボルグ教諭はうなずいて、それから、言い辛いことを言うように、二度ほど咳払いした。
「……ええと、実は、今回のことで……私たちは、君が落ち着いてからと思って……まだご家族に連絡をとっていないんだよ」
アリエルは目を見開いた。
「もう、身体も大丈夫だし、気持ちも落ち着いたようなら、一度、ご家族の誰かに来ていただいて」
「待ってください」
ボルグ教諭の言葉を、アリエルは途中で遮った。
「家には、何も言わないで下さい」
「しかし」
「心配をかけたくないんです。僕、もう元気になりましたし」
アリエルは、連れ戻されてしまうことを恐れている。
『何かあったら、今後のことは考える』と、父親から言われているのだ。
「授業を休んでいた分は、ちゃんと取り戻しますから」
「やっ、いや……そういう話じゃあ」
ボルグ教諭は、困った顔で顎をさする。
アリエルは、大きな瞳を見開いて小首をかしげた。
「身体の具合が悪くて少し休んだくらいで、わざわざ家族を呼び出すことはないでしょう?」
ボルグ教諭は、その言葉と表情に、違和感を覚えたが、
「まあ、君がそういうなら、ね」
首にかけたままだった聴診器を外して鞄にしまうと、部屋の外で待っているパウルに声をかけて出て行った。

まっすぐ校長室に向かったボルグ教諭は、アリエルの言葉を伝える。
「ふうむ……君は、どう思うね」
校長の問いかけに、
「家族に知られたくないという彼の気持ちも分かります。しかし、半月も休んでいるのですから、やはり父兄にはきちんと話をしておかないと」
「そうだな」
「後から知られて責任問題だなどと言われる前に、しっかり説明をしておきましょう」
「うむ。そうだな」
校長は、ボルグ教諭の言葉にうなずいて、机の上の書類を見つめた。
編入用の書類には今より一層幼い顔のアリエルの写真が貼られていて、そのあどけなさに校長は痛ましげに顔をしかめた。
「彼の従兄がいたが……」
「ああ、十一年のアルベルト・フォン・バルドゥールですね。彼も、事件当初はショックを受けて休んでいたようですが、最近は授業にもちゃんと出ています。相変わらず優秀な生徒で、特に問題は無いようですよ」
「そうか」



アルベルトは、午前中の授業が終わると同時に教室を出て、礼拝堂に向かった。
以前なら何かと纏わりついてきたリヒャルトと、実は、あれから一度も口を利いていない。
リヒャルトの思いつめた無口な横顔は怖い程で、意識的に避けているアルベルトはもちろんのこと、他の生徒も近づけなかった。
『アリエルに、お前のこと、忘れさせてやる』
宣言どおりなら、これからどうするつもりなのか。
アルベルトは礼拝堂の椅子に座ると、ステンドグラスを見上げ、ゆっくりと瞳を閉じた。
閉じたまぶたの裏に光の残像。その中に浮かぶアリエルの顔。
思えば、もうずいぶん長い間、アリエルの笑った顔を見ていない。
記憶に残る笑顔は、まだ幼い日のアリエル。こちらもつられて微笑むほどの、愛らしく、暖かな笑み。
エゼルベルンに来てからのアリエルは、いつも、どこか怯えたように自分を見つめた。
そうさせているのは自分だとわかっている。
(アリエル……)
『アリエルのこと、愛しいと思う』
リヒャルトの言葉が甦り、アルベルトは、小さく呟いた。
「僕だって、そうだよ。君なんかよりずっと――たとえ、血がつながっていても」

十四の夏に抱いた不安と疑念。
母親イルマとクレマンスのことを知って、アルベルトは自分が六つのときまで屋敷にいた乳母に手紙を書いた。身体を悪くしてからは、静かな田舎で孫に囲まれてのんびりと隠居生活を送っている。元々は母親の実家で働いていたという彼女に、自分の本当の父親を尋ねた。もちろん、子供らしい純粋に父親を求める気持ちを装って。
乳母は、感激してくれた。
あの小さかったアルベルトが、自分を頼って手紙を寄越したのだ。
「もう、アルベルト坊ちゃまも、大人になられたのだから」
と、前置きして語り始めた手紙の中身は、アルベルトの予想したとおりのものだった。

『アルベルト様の本当のお父上は、クレマンス様です』

あの日、裸の胸をはしたなく揺らしていた母親。獣のように唸り貪るクレマンス。
醜かった二人の行為。
あの二人の、あの行為の果てに生を受けたのだと思うと、自分の身体が厭わしい。
自分の存在自体が、父上、ヒルデおば様、そしてアリエルに対しての裏切りの証明だ。
けれども、アリエルが半分血のつながった弟だと知っても、愛しいと思う気持ちは変わらなかった。
愛しくて、切なくて、苦しくて。
(アリエル……)
本音を言えば、渡したくない。リヒャルトにだって、誰だって。
けれども、自分じゃ駄目なのだ。
アリエルとその母ヒルデを裏切っている、あんな醜い行為の子供。性に対しての病的なまでの潔癖症は、リヒャルトに指摘されるまでも無く、自分が一番よく知っている。
その理由も――。

再び見上げたステンドグラスのモチーフは、幼いキリストを抱いた聖マリア。
(処女受胎、か……)
「フ…」
ばかばかしい。
そんなことはあるわけない。この世に生を受けたものは、みな、あの行為によって誕生しているのだ。
望むと望まざるとにかかわらず。

左手をかざして見れば、指の間から、オレンジ、紫、黄色、赤、そして緑の光が零れる。
さまざまな色が指を弾くけれど、あの小指を彩った銀色の光はもう無いのだと、アルベルトは胸を詰まらせた。









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