消灯が終わってから、リヒャルトはアルベルトの部屋にやってきた。
同室のエーリッヒには気を利かしてもらった。
二人きりで向かい合っても、アルベルトはリヒャルトの目を見ることができなかった。
「どういうつもりだ」
リヒャルトの声は固い。
「あの子にはお前が必要だって、わかってるんだろう」
強く責めるわけではない静かな口調が、却ってアルベルトの胸をえぐる。
「リヒャルト……」
アルベルトは掠れた小声で呟くと、うつむいてゆっくりと左手の小指からリングを抜いた。
「何の真似だ」
リヒャルトの瞳が見開かれた。
「アリエルに、返して」
カタンと小さな音を立てて、銀色のリングが机の上に置かれた。
「な…」
アリエルと交換したスクールリング。伝説が意味するもの。
「何を、馬鹿なこと。今、お前がそんなことしたら」
リヒャルトは、アルベルトに掴みかかった。
アルベルトは唇を震わせて横を向く。その表情があまりに苦しそうで、
「何故なんだ」
リヒャルトは、襟元を掴んだ手から力を抜いた。
「何故だ、アル。アリエルが誰かに犯されたことが、そんなに許せないのか」
アルベルトの伏せた睫毛が揺れた。
リヒャルトは唇を噛んで、一瞬、迷ったけれども
「前から思っていた」
意を決していった。
「アルベルト、お前は性的なことに潔癖すぎる。単に硬いとか晩生(おくて)だとかいうんじゃない。セックスの話題を嫌うのは、病的なくらいだ」
アルベルトは、ゾクッと身体を震わせた。
「何があったんだ。何でお前は、そんなにまで」
「やめろ」
アルベルトが、小さく悲鳴をあげた。
顔を上げたアルベルトは真っ青な顔で、リヒャルトを、今度は目を逸らさずに、じっと見返した。
「やめてくれ、リック、君にはわからない」
「アル」
「だめなんだ。僕は……」
薄紫の瞳に、涙の膜が張られる。
「僕では、だめだ」
白く長い指で両目を覆う。
「リック、君が、アリエルのそばにいてやってくれ」
「アル? 何を」
「今のアリエルには、支えがいる。そうだ。でも、僕では支えにならない」
「アリエルは、お前のことを」
「だめだ」
アルベルトは苦しげに頭を振った。そして、机の上に置いたアリエルの指輪を掴むと、リヒャルトの手をとって握らせた。その手を両手で包み込んで、
「君が、僕に代わって、アリエルを支えて欲しい」
思いつめた瞳で訴える。
リヒャルトは、言葉を失って、ただアルベルトを見つめ返した。



* * *

アリエルは、ぼんやりと天井を見つめていた。
「嫌わないで」
呟いたとたん、また涙が零れる。
だめ。
アルベルトに、嫌われてしまった。
リヒャルトは、必死に慰めてくれたけれど、アルベルトが自分を見つめた瞳の中に、汚いものを見るような、おぞましい感情の色を見た。
「アル……」
泣き尽くしたと思ったのに、まだ次々に涙があふれる。
部屋に入って来てくれたとき、一瞬、すがり付いてしまった。
アルベルトに、抱きしめてもらえれば、この苦しい気持ちが癒されるかと思った。一緒に、穢れた身体も―――。
(穢れた……)
「うっ…」
苦しい。
あのときの恐怖が甦る。呼吸ができない。
「う、あ……」
喉を反らせて息をしようとしても、身体が呼吸することを拒否しているかのよう。
(アルベルト……)
苦しい意識の中で、アリエルはかつて自分に向けられた優しい微笑みを思い浮かべる。
『アリエル、小さなアリエル、僕の――』
昔、幸せな日々に何度となく聞いた、歌うような声を遠くに聞きながら、アリエルは、このまま自分は死んでしまうのだと思った。
しかたない。
当然だ。
自分は、アルベルトに嫌われたら死んでしまうのだから。


「アリエル、しっかり」
パウルが紙袋をアリエルの口に当てて、呼吸を促す。うなされるアリエルのことを相談して、ボルグ先生に教わっていた応急処置。
「う…ふ…」
「アリエル、ゆっくり、ゆっくり大きく息を吸って、吐いて」
(パウル……)
「落ち着いて、ゆっくり……」
アリエルは、パウルの必死な顔を見て、死んでもいいと思った自分をうしろめたく思った。
「アリエル、大丈夫?」
「パウル……ごめんね……」
ようやく口に出すと、パウルは、顔を輝かせた。
何しろ、アリエルがあれから初めて自分をちゃんと見て、言葉をかけてくれたのだ。
「アリエル、僕のこと、わかる」
あたりまえのことでも、確かめずにいられない。
アリエルは、小さくうなずいた。
「よかった。アリエル」
パウルは、アリエルのすっかりやせて小さくなった身体に抱きついて、ボロボロと泣き始めた。
「アリエル、アリエル、アリエル」
アリエルはゆっくりと左手を持ち上げて、そっとパウルの背中を抱いた。
この自分のために泣いてくれる心優しい友人にどんな言葉も見つからないから、ただ黙って背中をさすった。
そのとき薬指に当たるものがアルベルトのリングだと言うことを思い出して、再び心臓が錐で刺されたように痛んだけれども、もうパニックを起こすほどではなかった。
アリエルは、まだ、どこかで信じていた。信じたかった。
この指輪を交換した意味を。



けれども、そんな小さな指輪に何の意味もないのだということを、アリエルは知らされることになる。まだ先の話だけれど。







軽いノックの音とともにリヒャルトが部屋に入って来たとき、一人ぼんやりと考えに沈んでいたアリエルは、つい無意識にアルベルトの姿を捜した。いないことは、すぐにわかった。
リヒャルトが、一瞬気の毒そうに翳らせた顔を明るく繕い、ベッドに近づく。机の脇にあった椅子を引き寄せて座る。
「どう? お砂糖ちゃん」
「はい」
アリエルは、身体を起こした。
「もう、身体の方は何でもないんです。でも、ボルグ先生が、もう少しだけ様子を見てからって」
「そう」
ボルグ教諭の心配は、まだ学園内のあちこちで囁かれている噂の方だろう。今、姿を見せたら、興味本位のあからさまな視線に晒されて、この繊細な少年が再び傷つくのは目に見えている。
そして、その噂がやまない理由は、この少年の従兄、アルベルトのせいもあった。
リヒャルトは鉛を飲み込んだような胸苦しさを押し隠して、明るく言った。
「その方がいいな。体重がせめてもう少し元に戻ってから」
「そんなに、やせてますか」
「小枝のようだよ」
ポキリと折れてしまいそうで、恐ろしい。
リヒャルトは、さり気なく制服の上着のポケットに手を入れた。そこには、アリエルの指輪がある。アルベルトに渡されてから、ずっと持ち歩いているもの。
右手の指先で確かめるその硬質な感触に、リヒャルトは溜め息を飲み込んだ。
『アリエルに、返して欲しい』
(残酷なことを、簡単に言う……)
決して簡単に出された言葉ではないとわかってはいるのだが、そんな憎まれ口も叩きたくなる。
目の前のアリエルを見れば、そのことが――アルベルトからのリングを返すということが――どんなに、難しいことか。
火にかざしても燃えない衣を持って来いと言った東洋のお姫様のほうが、まだマシかもしれない。リヒャルトは内心で舌打ちする。
結局、何も言い出せずに、男らしい顔を曇らせるリヒャルトに、アリエルは自分から問い掛けた。
「アルは…」
「えっ?」
「アル、何か、言ってますか……僕のこと」
平気そうに尋ねながら、アリエルのシーツを掴んだ手が小刻みに震えている。その左の薬指に、ますます細くなってしまったそこには大きすぎる銀の指輪をみて、リヒャルトは胸を痛めた。
黙ったままのリヒャルトに、アリエルは声を震わせる。
「あれから、一度も、会いに来てくれないんです」
アリエルは息を飲んだ。
信じたいけれど、信じたかったけれど、覚悟はしないといけない。
「もしも、僕のこと……嫌いになったのなら……」
「アリエル」
リヒャルトは、そっとベッドに腰掛けた。
「アルは……アルベルトは、病気なんだ」
「えっ?」
アリエルがうつむけていた顔をあげた。
水色の瞳が心配そうに揺れる。
「病気って…どこか、悪いんですか?」
「……ああ」
アルベルトの潔癖症はある意味一種の病気だとリヒャルトは考えていたが、今は、そんな話をするつもりではない。
「もともと、そんなに頑丈に出来ていないから、風邪をこじらしてね。アイツも寝込んでいる。ここに来られないのはそのためだよ」
「…………」
「アリエルのこと、心配してる」
「本当?」
怯えたように聞き返すアリエルの幼い顔に、リヒャルトは、自分を叱る。
こんな嘘はつくべきじゃない。
けれど――
「ああ」
「でも、アル、この間……」
「どうしていいか、わからなかったんだよ。あんまり、君のことが愛しくて……何て言っていいのか……わからないくらいに」
「僕のこと……」
アリエルの頼り無い表情が、リヒャルトを打ちのめす。
「嫌いになってない?」
「もちろんさ」
「本当に?」
「本人に聞くといい。アイツの風邪が治って、お砂糖ちゃんも風邪なんかうつされないくらいに元気になってから」
リヒャルトの言葉に、アリエルはようやく微笑んだ。
あの夜から初めて見せたアリエルの微笑みは、儚いけれども幸せそうで、リヒャルトは嘘吐きな自分の舌を呪った。
「アルに、伝えてください」
「うん?」
「ごめんなさい…って」
「…………」
「それから……」
頬を染めて、
「ううん、やっぱりこれは自分で言います」
薬指のリングに触れた。
クルクルと回るそれに気がついて、自分の指をさすり溜め息をつくように言った。
「やっぱり、僕、やせましたね。もっとちゃんと食べるようにします」
「そうだ…」
リヒャルトはアリエルの髪をそっと撫で、見上げたアリエルと目があった瞬間、衝動的に抱き締めた。
「リ…っ?」
アリエルがビクリと身体をこわばらせた。
「ゴメン」
さっと離れて、
「頑張れって言いたかったんだけど、身体の方が動いてた。とんでもないな」
リヒャルトは、おどけて言った。
アリエルは、ほんの少し緊張した顔で微笑んだ。
「じゃ、また来る」
「はい」
アリエルの部屋を出たリヒャルトはヴィンター寮に戻る中庭の小道を大股に歩きながら、さっき自分を襲った感情の正体について考えて、眉間にしわを寄せた。
ポケットの中のリングが重さを増す。
「こんなことなら……」
呟きの先は、突然吹いた十一月の風に消されたが、リヒャルトの耳にはいつまでも残って、彼の心を苦しめた。
それは、リヒャルトにしては非常に珍しい、後悔と呼ばれるものだった。





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