「アル」 リヒャルトの呼びかけにアルベルトはゆっくりと振り向き、反応があったことにむしろ驚いた。見ると机の上には、だれが持って来たのかスープ皿も置いてある。 中身が空なのを見て 「食事もしたのか」 「ああ……」 「そりゃあ、よかった」 リヒャルトは、本気でホッとした。 「じゃあ、元気になったところで、お砂糖ちゃんの見舞いにいこう」 明るく言うと、アルベルトは傍で見てはっきりわかるほど身体を震わせた。 「……なあ」 うつむいて黙ったままのアルベルトを、リヒャルトは困った顔で見つめた。 「お前の気持ちもわかるけど……でも、今、アリエルが一番そばに居て欲しいのは、お前じゃないのか」 アルベルトの視線は落とされたまま。 「あんまり深刻に取るなよ。お前がそんなだと、アリエル、立ち直れないぞ」 リヒャルトは、傷ついたアリエルとまるで同じ傷を負ったような親友を励ますつもりで、自分の内心の震えるほどの後悔は押し隠して、言った。 「あんなこと、大したことじゃないさ。気にするほどのことじゃ」 「何が?!」 アルベルトが初めて声を荒げた。 「何が、大したことじゃない? どこの誰だかわからない男に、身体中いいようにされたんだぞっ」 吐き捨てて、冷たい美貌が睨めつける。 「アル……」 「それのどこが、気にするほどのことじゃないんだ」 「……それはそうかもしれないが」 「ああ、それとも、君にとっては大したことじゃないのか。そういう相手が大勢いるようだからね」 八つ当たり気味に言って横を向くアルベルトに、リヒャルトは溜め息を吐いた。そして 「ああ、そうだよ」 開き直り、 「セックスの一つや二つ、どれほどのモンだ。長い一生、一人しか知らないって方が珍しいんだよ」 腕を組んで壁に背中を預けて、悪ぶってみせる。 「好きな相手が自分以外の誰と寝てたって、気にすることない」 「なん…」 「俺なら、自分の身体で忘れさせてやる。なんてね」 アルベルトの顔にカッと血が上った。 「出て行け」 「アル」 「そういう話をしに来たのなら」 「俺が来たのは、お前をアリエルのところに連れて行くためだ」 リヒャルトが詰め寄る。 「いやだ」 「何故? アリエルは、傷ついてる。身体の傷なんかどうでもいい。ほっといても治るさ。でも、心の傷を治すには、お前が会って言ってやるんだ」 アルベルトの肩を掴んで、その瞳をまっすぐに見つめる。 「ひと言、『気にすることじゃない』――ってな」 リヒャルトの真剣な目に、アルベルトは言葉を見つけられず、黙って見返した。 「わかるだろう、アル。そう言ってやるべきおまえがそんなんじゃ、アリエルは、傷ついたままだ」 リヒャルトの手に力がこもる。 「俺と一緒に、アリエルのところに行ってくれ」 アルベルトが、顔を顰めた。 「……痛い」 はっとして、リヒャルトは手を離した。 アルベルトは掴まれていた肩にそっと手をやり、 「わかった」 小さく呟いた。 * * * アリエルの部屋では、パウルが半分泣きながらアリエルに食事を取らそうとしていた。 「ねえ、お願いだから、ちょっとだけでも食べてよ、アリエル」 アリエルは、ベッドに横になったままぼんやりと天井を見ている。 散々うなされて、眠ることもままならず、今はただ瞳を開けただけの人形。パウルが居ることもわかっているのかいないのか――。そこにノックの音がした。 「誰ですか?」 パウルが慎重に訊ねると 「従兄のアルベルト」 と、リヒャルトが応えた。 パウルは慌てて扉を開けた。 「よう、お砂糖ちゃんは」 長身をかがめて覗き込むように言う、その視線の先には、白いシーツに横たわった少年。 (アリエル…) たった三日でずい分やつれた。 あのふっくらとした薔薇色の頬が、紙のように白く削げて小さな顔がますます小さくなった気がする。長い睫毛に縁取られた水色の瞳は、今は生気も無く、何も映していないよう。 「食べてないのか」 「あれから、全然……」 パウルが、泣き声で応える。 リヒャルトは溜め息を飲み込んで、後ろを振り返った。 アルベルトがこわばった顔で入ってくる。 「お砂糖ちゃん、君の愛しい従兄殿だよ」 リヒャルトの優しい囁きに、アリエルは一瞬、睫毛を震わせた。 「ほら、アルベルトだよ」 はっきりと告げられた言葉に、アリエルの瞳の焦点が合う。 アルベルトは、リヒャルトに促されるまま、黙って前に進んだ。 アリエルの瞳がゆっくりと動いて、アルベルトの上で止まる。 真っ白だった顔に、ほんのわずかに朱が差した。 じっとアルベルトの顔を見つめる。 アルベルトは、黙ってアリエルを見つめた。 (ほら、言え) リヒャルトが心の中で呼びかけたとき、アルベルトは口を開こうとして眉根を寄せた。 瞬間、アリエルの顔がこわばった。 「いっ、いやあ――っ」 甲高い叫び。 「いやっ、いやだ、見ないでっ」 身体を起こしてシーツに包まると、手近なものを投げつける。 「アリエル?!」 「どうしたっ」 パウルとリヒャルトが、慌てて抑えようとするが、 「嫌だ、出て行ってっ、誰も、誰も、僕に近寄らないでっ」 気が狂ったように髪を振り乱し、たまたま掴んだ枕を振り回す。 アルベルトは、固まったまま動かない。呆然とした表情でアリエルを見つめている。 「アルッ、何してるっ」 リヒャルトはアリエルを落ち着かせようと、シーツごとその身体を抱きしめた。 「いやあっ」 アリエルは、泣き叫ぶ。 「アル、お前の役目だろっ」恐ろしい顔で睨みつけ 「早く、言ってやれ。そんな顔してるんじゃないっ」 叫ぶリヒャルトの言葉も、アルベルトには聴こえていない。 「アル」 必死のリヒャルトと、怯えたようなパウルの視線を浴びて、アルベルトは、たった一言が口に出せずに唇を押さえた。 「突っ立ってるくらいなら、出て行け」 リヒャルトの言葉にアルベルトは唇を噛み、踵を返して部屋を出た。 「あっ」 パウルが、後を追いかけた。 二人が出て行った後も、アリエルは取り乱して泣き続ける。 「いやっ、いやだ、あっ…ああ」 アリエルの両目から鼻梁を伝って、シーツの上に涙の粒が零れ落ちる。 あの夜以来、うなされることは度々だったが、こんな風に泣いたのは初めてで、堰を切ったようにアリエルは泣き続けた。 「アリエル、アリエル」 リヒャルトが。細い身体を抱きしめる。 「落ち着いてくれ、アリエル。頼む、落ち着いてくれ」 アリエルの耳元で、祈るように何度も繰り返される言葉。 「アリエル、大丈夫、なんでもない、大丈夫だから」 「嫌だ…アル…い…や…あ、あっ……」 「大丈夫、大丈夫だ。アリエル」 「う…ふっ……う、うう……」 小一時間も経ったころ、泣き疲れたアリエルがようやく大人しくなった。 腕の中で激しく暴れていた身体からすっと力が抜けたのを感じて、リヒャルトも大きく息をついた。 ゆっくりと離れて、ベッドに乗り上げていた自分の足を下ろし、アリエルの顔を覗き込んだ。 「アリエル…」 大人しくなったアリエルは、今度はじっとシーツを見つめていた。 その思いつめた顔に、リヒャルトはゾクリと背中を震わせた。 「おい、アリエル。お砂糖ちゃん。変なこと考えてないだろうね」 わざとらしく軽快に尋ねても、アリエルの耳には届いていないようだ。 「アリエル」 顎を掴んで、上を向かせる。 アリエルの瞳がゆっくり焦点を結んでリヒャルトを見た。 「しっかりしろ」 アリエルは、言葉の意味がわからないように小首をかしげて、瞬きをした。 残っていた涙の粒が零れ落ちる。 「アル……」 アリエルが、小さな、本当に聞き取れないほど小さなかすれ声でつぶやいた。 「アル……許して」 リヒャルトは、胸を詰まらせた。 「許して…嫌わないで……アル……」 リヒャルトは、一瞬、アリエルの気がふれてしまったと感じた。 けれど、 「アル…お願い、お願いだから、嫌わないで」 はっきりと口に出して、再び嗚咽を漏らし始めたアリエルに、安堵の息をついた。 「アリエル。しっかりしろ、大丈夫、アルベルトは、お前のことを愛してる」 抱きしめて囁けば、薄い肩がピクッとゆれた。 「アルは…でも、アルは……僕を……僕のこと……」 嗚咽の合間のとぎれとぎれの言葉は、愛するアルベルトに見捨てられた不安と嘆き。 「大丈夫。あいつはなんて言っていいかわからなかっただけだよ。アルは、お前のこと、誰より愛してる」 リヒャルトは、言い聞かすように言った。 けれども、言いながら砂をかむような気持ちになる。 さっき見たアルベルトの瞳の中に、間違いなく嫌悪の感情が見えた。 それにアリエルも気がついたから、これだけ取り乱したのだ。 (アル……) アルベルトは部屋に戻ろうとして、パウルに前をふさがれた。 「待ってください、アルベルト先輩」 アルベルトは、黙ってパウルを見た。その青ざめた美貌の冷たさにパウルは一瞬ひるんだけれども、アリエルのために口を開いた。 「アリエルの部屋に戻ってください」 アルベルトは、黙っている。 「貴方に、アリエルのそばにいてもらいたいんです。お願いします」 パウルは、必死で呼びかける。 「アリエル、食事も取らないんです。寝ていてもうなされるし……うなされて、貴方のこと呼ぶんです。『助けて』って…『アル、助けて』って、死にそうな声で」 「やめろっ」 アルベルトの叫びが、パウルを黙らせた。 「聞きたくない」 「そんな……」 唇を震わせたパウルの両目に、涙が盛り上がった。 「なんでですか…貴方じゃないと、ダメなのに……貴方じゃないと……」 自分を責める瞳に耐えかねて、アルベルトはその場から逃げた。うつむいて足早に歩く。パウルは追いかけては来なかった。 アルベルトの頭の中で、パウルの言葉が繰り返される。 『うなされて、貴方のこと呼ぶんです。助けてって…』 『貴方じゃないと、ダメなのに……』 『アル、助けて、って、死にそうな声で―――』 「アリエル……」 自分を見つめた白い小さな顔、すがりつくような瞳の色が絶望の色に変わった瞬間。 どうして、自分はあのとき何も言えなかったのか。 いや、それよりも、どうしてたった今でさえ、アリエルの元に戻って傍にいてやることすらできないのか。 アルベルト自身、わからない。 わからない恐怖に、身体が震える。 「アリエル……アリエル……」 アルベルトもまた、その名に助けを求めていた。 |
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