「ふぅ」
アリエルの漏らした微かなため息を、パウルは聞き逃さなかった。
「どうしたの? アリエル。何か、悩みごと?」
「あ」
とっさに首を振りかけたけれども、そばかすだらけの顔がとても心配そうだったので、
「うん」
アリエルは素直にうなずいた。
「アルベルト先輩のこと?」
「うん」
「喧嘩したの?」
「違うよ」
喧嘩ならいい。喧嘩するほど、近づけたなら――。
「アルは、僕のこと、本当は好きじゃない」
自分で言って傷ついてしまう。
「そんなことないよ。嫌いな相手とリングの交換なんかするもんか」
「…………」
アリエルにもわからなかった。
何故、アルベルトは自分とリングを交換してくれたのか。
二人で林の奥の温室を散歩してから、もう一週間。ほんのわずかでも昔が戻ったような気がしたのが嘘のように、アルベルトはずっとよそよそしいまま。けれど、だからと言って自分を突き放すわけでもない。リヒャルトや他の上級生がからかってきたりすると、不機嫌になって守ってくれる。最近それがわかる。
アリエルはそれが嬉しくて、リヒャルトにちょっかいを出されるのも嫌ではなかった。
「どうしたら、もっと、僕のこと見てくれるんだろう」
「アリエル」
「他の人が僕のことを気にするときだけ、アルが傍にいるような気がする」
「どういうこと?」
「僕にも、よくわからない……けど……」
アリエルは心の中の不安と悩みを打ち明けた。
パウルは黙って話を聞いて、子供ながら精一杯考えて言った。
「他の人が構ってくるのを嫌がるのは、やっぱり嫉妬だと思うよ。でも、たぶん……普段は恥ずかしくて、あまり態度に出せないんじゃないかな」
「そうかな」
アリエルには、自信がない。
「そうだよ」
突然話に加わったのは、フランツだった。ライムントのところから帰ってきたらしい。
「アルベルト先輩は、アリエルのこと好きなんだと思う」
「えっ?」
「フランツ、前は違うこと言っていたんじゃないか」
パウルが唇を尖らしたけれど、
「そのときはね」
フランツは悪びれない。
「あの時のこと、あれからライムントやジークや、他の先輩からも聞いたんだけれど、アルベルト先輩、ものすごく怒っていて、もう、ホントに凄かったって」
あの時というのは、騙されてお酒を飲まされたお茶会。
「普段クールなあの人が、何か切れたみたいにバシバシ! って、アリエルを取り囲んでいた人たちを殴っていったって」
フランツは振り付きで言う。
「そうだったんだ」
そのことは、聞いていなかった。
(心配してくれたんだ。僕のこと)
そしてその夜、スクールリングの交換をした。
(でも、それじゃ、どうして……)
結局、アリエルの思いは堂々巡り。普段は素っ気無いアルベルトに対しての疑問。


「ねえねえ、そんなことより、見てよ」
アリエルの悩みを蹴散らすように、フランツが胸ポケットから写真を一枚取り出した。
「何?」
見ると、なかなか可愛らしい少女が微笑んでいる。
「ライムントの妹でね、エマ。僕の幼馴染み」
パウルが写真を受け取って、目の高さまで持ち上げる。
「ライムントって、妹いたんだ」
「いるよ。その下に弟もね。彼女は僕らと同じ歳」
「で、何で写真?」
フランツは、写真を取り返して言った。
「今度の十月祭でね。十月姫に出るんだよ。投票してあげて」
「十月姫? 何それ」
パウルがわからないといった声をあげ、アリエルも小首をかしげる。

フランツの話によると、こうだ。
新年度の顔合わせと、改めて親睦を深める意味も込めて、毎年この時期行われる学園祭『十月祭』はエゼルベルンギムナジウム創立以来の伝統行事。全て生徒たちで準備して、地元の人々や生徒の父兄も招待する。いつも男ばかりのギムナジウムに、外部から人が来るというだけでも刺激的なのに、その中に生徒の姉や妹といった若い女性が混ざると、それはもう『あれは誰の妹だ?』『名前は何だ』と大騒ぎ。
いつのまにかそんな彼女らを紹介するために設えた舞台に立ってもらうようになり、今ではチャリティーを兼ねた人気コンテストみたいなものが行われるようになったという。
「コンテスト?」
「投票券を買ってね、自分が可愛いと思った子に投票するのさ。その投票券を買ったお金が全額地元の孤児院に寄付されるというわけ」
「ふうん」
「コンテストに優勝すると何かあるのか?」
「一位だけは発表して、十月姫の称号をもらうのさ」
「それだけか」
パウルが言うとフランツがむきになって言い返した。
「馬鹿だなあ、最高の名誉じゃないか。事実、過去の十月姫は、この良家の子息揃いのエゼルベルンで相手を見つけて結婚してるってケースがたくさんあるんだよ。優勝しなくってもさ、コンテストの終わった後でラブレターどっさりとか。とにかく、モテモテ」
「クスッ」
黙っていたアリエルが、小さくふき出した。
「あ、ごめんなさい」
慌てて口許を追おうと、パウルがうなずく。
「いや、僕だっておかしいと思ったよ。自分で、ここのことを良家の子息揃いとかさ」
「何だよ」
「あ、違うの。僕は、そうじゃなくって、その……フランツは、ライムントの妹にも素敵な相手を見つけてあげたいんだね」
フランツのちょっぴりおせっかいな性格。その為に自分は少しだけ嫌な思いをしたこともあったけれど、本当に善意から来ているのだと思うと微笑ましい。
「あ、うん、そうなんだ」
フランツは、頭をかいた。そして照れたように早口で付け加えた。
「だって、僕が彼女の大切な兄さんを取り上げちゃうことになるんだし」
「やれやれ、結局、自分が幸せになるのに、邪魔者を追い払おうって魂胆じゃないの」
パウルが、ませた憎まれ口を叩く。
「違うよ」
「どうだか」
仲が良すぎて喧嘩する友人同士を眺めてクスクス笑うアリエルは、その時はまさか自分がその十月姫の候補者の一人になるなどとは、当然、露ほども思っていなかった。





その話をリヒャルトから聞いたとき、アリエルは大きな瞳をさらに見開いて、大慌てで断った。
「嫌です」
女装して十月姫の舞台に立つなんて。
「そんな、何で僕が……」
「今年は、推薦が少なくてね。その上、実に残念なことに可愛い子も少ない」
「そんなこと……」
ライムントの妹のエマは可愛かったじゃないかとアリエルは思った。
「毎年、同じようなことをやっても面白くないし」
「嫌です。女の子のカッコなんかしたくありません」
「うん、まあ、そのままでも十分いけるけどね」
「なっ」
顔に血をのぼらせて睨みつけると、リヒャルトはニッと笑った。
「可愛い顔しちゃって」
前髪をきゅっと引っ張られ、アリエルはますます顔を赤くした。
「スカート穿かなくていいから、リボンくらいつけてみたら? アルも喜ぶよ。強烈に可愛くてビックリ」
「そんなことありません」
「似合うって」
「だから…」
むきになって否定しようとしたところ
「アリエル」
廊下の向こうから、アルベルトの呼ぶ声がした。
アリエルは、アルベルトの部屋に行く途中だったことを思い出した。
「あ、今の話は絶対内緒だからね」
リヒャルトが耳元で囁いた。
「何をしてる」
「別に」
近づいてきた剣呑な顔のアルベルトに、リヒャルトは両手を上げて「何でもない」と振って見せた。アルベルトは訝しそうにそのポーズを見つめたが、
「おいで、アリエル」
優しく言葉をかけてアリエルを促がした。
「う、うん」
まだ少し赤い顔で、アリエルはアルベルトの後ろに続いた。チラリと振り返ると、リヒャルトがいたずらな目をして笑った。

歩きながら、アルベルトが訊ねた。
「何の話をしていたんだ?」
「えっ?ううん、本当に、何でも……」
アリエルは言葉を濁した。絶対内緒と念を押されたからではない。
リヒャルトにかまわれていると、アルベルトが気にしてくれる。
それはアリエルを、くすぐったいような、何だか不思議に幸せな気分にしてくれる。
(ちょっとだけ……)
秘密を持って、アルベルトに自分のことを気にしてもらいたい。
そんな少女めいた考えで隠したこのことが、後々アルベルトとの間に深い溝を作ることになるとは、その時のアリエルには予想もつかなかった。
「からかわれていただけ」
「そう……リックは、アリエルにかまいすぎるな」
少し不機嫌そうな呟きも、アリエルには心地良い。

「十月祭」
アルベルトに突然言われて、十月姫のことかとアリエルはドキッとした。
けれども
「おじ様に知らせた?」
「あ、うん」
父兄宛ての招待状のことだった。
「遠いし、忙しいからたぶん来られないと思うけど、一応、送っておいた。まだ返事は来てないけど」
「そう」
「アルは?」
「……いや」
アルベルトは、窓の外を見ながら応えた。
「うちも、忙しいしね」
「ふうん」
実際には、招待状は部屋のクズかごの中。
「せっかくだから、一度くらいは見に来てもらいたいな」
アリエルの無邪気な言葉に、アルベルトは表面だけでうなずいた。



十月祭が近づくと、ギムナジウム全体がウキウキと華やいだ気分に包まれる。
リヒャルトは相変わらずコソコソとアリエルを勧誘していた。
「なあ、もうウィッグも用意したんだよ。お砂糖ちゃんの髪の色とそっくりのフワフワ」
「そんなの、どうするんですか」
「絶対、似合うから、ねっ、アルのやつを驚かせてやろう」
「……嫌です」
「まんざらでもないって顔」
「そんなことない…です」
「いいから、うちの部屋においで。鏡見てみよう」
「ええっ?」
アルベルトに気にしてもらいたくて、リヒャルトの話をはっきりと断っていなかったために気がついたら、抜き差しならないところまで来ている。
「ほらほら、ちょっとだけ」
リヒャルトに背中を押されて、アリエルはヴィンター寮に連れて行かれた。



「ようこそ」
お姫様をエスコートする様子で、リヒャルトはアリエルを部屋に招き入れた。
アリエルは落ち着かない気持ちで、キョロキョロと部屋を見渡す。
「寮長特権で一人部屋なんだよ」
「僕も、今のところは一人部屋です」
「ああ、そうだったね」
リヒャルトは笑って、クローゼットの中から帽子の箱を取り出した。中に入っていたのは、帽子ではなく
「見てよ」
長い金髪のウィッグ。
蜂蜜色の柔らかそうな巻き毛にピンクのリボンが添えてある。
「お砂糖ちゃんの髪に一番近いヤツ」
「こんなもの、どうやって?」
「ヘンリーの姉さんが町で美容師をやっていてね。これは店の中でもかなり高級なウィッグ、特別に安くして借りてきてもらったんだよ」
「安く、って、お金?」
「そう、ただじゃない。だから無駄にさせないでくれよ」
「そんな」
勝手なことを言って……と思ったけれども、アリエルは興味を引かれ、差し出されたそれを受け取った。
リヒャルトは「それ!」とばかりに、アリエルを鏡の前に立たせた。
アリエルが手にしたウィッグを、再び取り上げ同じ色の髪を持つ頭にかぶせた。
「ほら」
(えっ……)

美しい金髪の巻き毛に白く小さな顔を縁取られた愛らしい天使が、鏡の中に降り立っている。

(これ……僕?)
アリエルは、自分の顔なのにうっかりと見惚れてしまった。
リヒャルトも、一瞬言葉を失っていたが、
「ほら、思ったとおり、よく似合っている」
少し掠れた声を出した。
リヒャルトの言葉に我に返ると、アリエルは羞恥心に居たたまれなくなった。
「やっ…」
恥ずかしそうに身じろいだのを、リヒャルトは背中から抱きとめるようにして、
「ものすごく可愛い。もっとよく見ろよ」
鏡に向かわせる。
「もっ、もういいです」
ウィッグが恥ずかしいのではない。その顔に見惚れてしまった自分が恥ずかしいのだ。
「アルにも、見せたいだろ?」
リヒャルトの言葉に、アリエルは嫌がっていた動きを止めた。
「こんなに可愛いんだから」
(アルに……?)
鏡の中の自分をそっと見る。
甘い蜂蜜色の金髪はフワフワと柔らかそうで、それに縁取られた頬は恥ずかしさに上気して薔薇色に染まっている。女の子のようだとは昔から言われていたけれども、自分のまつ毛がこれほど長いことも唇が紅いことも、今まで意識していなかった。

「本当に、女の子、みたい」
「それ以上さ」
「…………」
「ねっ、十月祭の当日、アルをビックリさせてやろう」
「アル……」
自分のこの顔を、アルベルトは見て、どう思うだろう。
何と言うだろう。
「ね、アリエル」
リヒャルトが背中から抱き締めるようにして囁いた。
アリエルは、ぼうっとした気持ちで、コクリとうなずいた。






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