「せっかくクレマンスが来て下さっているから、貴方の具合が悪くなければ一緒にあちらに伺おうかと思ったのだけれど、無理そうね」 「アリエルが残念がるだろう」 母親と叔父の言葉を聞きながら、アルベルトは別のことを考えていた。 何故、自分とアリエルは、兄弟のようにずっと一緒に育ったのだろう。 (何故……?) アリエルをうちに連れて来るのは、叔父のクレマンス。そう、アリエルの母親ヒルデは身体が弱く、いつも床に臥していた。 自分がアリエルの屋敷に行くときは、母親イルマが一緒だった。 アルベルトの父親は海外に工場を持っており、仕事熱心のあまり家には不在がち。イルマはアルベルトとともに、アリエルの屋敷で過ごすことが多かった。 そういえば、昔、庭師のゼップルが教えてくれた。 イルマとクレマンスは、同い歳の幼馴染みだったと。 (幼馴染み……) ベッドで抱き合う二人の姿を見た後では、それがただの仲の良いお友達同士を指すのだとは到底思えない。 頭の中を、嫌な考えがグルグルまわる。 そして、目の前にいる二人に、昼間見た醜悪な映像が重なる。 自分が何も知らないと思って、上品さを装う仮面のその裏で―― (あんな…醜く、いやらしい……) アルベルトは、羽根布団を引上げるとその中にもぐりこんだ。 「ごめんなさい……気持ちが悪いので……」 固く目をつむる。 「大丈夫? 今、お医者様が来ますからね」 「疲れたのだろう、ゆっくり寝るといい」 心配そうな声にも、虫唾が走る。 (出て行ってくれっ) 内心の叫びは届かなかっただろうが、二人はゆっくりと部屋を出て行った。 医者は、精神的な疲れだと診断した。 アルベルトは、学校で新年度の役員に選ばれたこと、その話し合いが上級生の都合で突然日程が変わったこと、そのため帰省が早まったことなどポツポツと話し、イルマは、それが優しく繊細な息子に精神的な疲れを与えたのだと受け止めた。 「ゆっくり疲れを取って、それからアリエルのところに行きましょうね」 その言葉は、かつてのアルベルトにとっては一番嬉しい言葉だったはずなのに、今となっては、おぞましさしか感じられなかった。 イルマが、自分とアリエルをだしにして、クレマンスに会いに行こうとしている。 そうとしか考えられず、結局その夏、アルベルトはアリエルに会いに行かなかった。 寮の打ち合わせを理由に、予定の半分も家に居ず長い夏休みの途中で、ほとんどの生徒がまだ戻ってないエゼルベルンに帰った。 家にいる間に、アルベルトは庭師のゼップルに一度だけ訊ねた。ゼップルはもう七十に手が届くという老人だ。五年前にとても仲の良かった妻を亡くしているが、彼女もアルベルトの母イルマの実家で働いていた使用人だった。イルマがここに嫁いできたときに、夫婦して付いて来て住み込みで働き、まだ若かったイルマを何かと助けてくれたという。 「ねえ、お母様とクレマンスのおじ様は、幼馴染みだったと前に話してくれたよね」 「へえへえ」 「仲良しだった?」 「そりゃあ、もう」 「なんで、結婚しなかったのかな」 「誰がで?」 「お母様とクレマンスのおじ様」 「そりゃあ、イルマ様はバルドゥール家の本家に嫁ぐ方でしたから」 「何で?」 「はい」 「どうして、お母様は、お父様と結婚しないといけなかったの?」 「家同士で、決められてたんですよ。何しろバルドゥールの皆様は、今の時代になっても、良い血筋をとてもとても大事にしなさるから」 「ヒルデおば様と、逆でも良かったのに」 「ヒルデ様は、お身体が弱くてらっしゃいましたから」 「身体が弱いとだめなの?」 「本家ですからねえ。若様のように立派な後継ぎを生んでいただくには、ヒルデ様はお弱すぎて」 と、口を滑らせてしまった、という顔をして、 「ああ、いいやいいや、ヒルデ様も、アリエル様というそりゃ可愛らしいお坊ちゃんをお生みになって、へえ、本当に良かったですよ」 ゼップルは皺だらけの顔で笑った。 「…うん」 そのせいで、アリエルを生んだために、それでなくても身体の弱かった叔母のヒルデは、ほとんどベッドから出ることのない生活になったのだ。 (そして……それで……) アルベルトは、そっと拳を握った。 「ねえ、ゼップル。今、僕が尋ねたこと、お母様にもお父様にも言わないでね」 「へえ、もちろんです」 「もちろん?」 「子供が親のことを聞きたがるのは、しょうがないことにしろ」 ゼップルは再び、皺に目を埋めて笑った。 「使用人がペラペラしゃべるのは、感心できません」 アルベルトも笑った。笑って見せた。口の端を上げて目を細めて。 心の中で、一つの結論を導きながら。 「アルベルト、アルベルト」 突然呼びかけられて、アルベルトはハッと身を固くした。 同室のエーリッヒが驚いた顔で自分を見つめている。 「どうしたんだい? 眠れなかったの?」 アルベルトは、ベッドに腰掛けたままの自分に気がついて、少し決まり悪そうに立ち上がった。 「水が飲みたいと思って起きたんだけれど、少し考え事をしていた」 とらわれていた過去の記憶を振り払うように軽く頭を振って、立ち上がる。 「水もいいけど、眠れないなら、こっちはどうだい?」 エーリッヒは、懐に隠し持っていたウィスキーの小瓶を取り出す。 「まさか。礼拝にお酒の匂いをさせていくわけには行かないだろう。君もね」 「大丈夫、朝には抜けるよ。なんて、もう何時間もないな。大変だ。大変大変」 陽気なエーリッヒは急いで目覚まし時計をセットすると、ベッドにもぐりこんだ。 アルベルトも時計をチラリと見て、そして水差しからコップに注いだ生温い水を飲んだ。 決して美味しいとは思えない水を二杯も飲んで、アルベルトは、自分がひどく乾いている気がした。 * * * 「俺も一緒でいい?」 食堂前で、アルベルトの後ろから長身を覗かせたリヒャルトは、屈託の無い笑顔で訊ねた。 アリエルはとっさに返事が出来ず、チラリとアルベルトを見た。 「今日は君と食事をすることになっていると言ったら、無理やりついてきたんだ。一緒でもかまわないかな」 アルベルトはため息混じりに言った。 「ええ、もちろん」 アルベルトがよしとした事に反対できるはずが無い。アリエルはコクコクと何度もうなずいた。 「両手に花だな」 リヒャルトはニヤニヤ笑って、食堂に入ると、アリエルの分までトレイを持った。 「あ、自分で運びます」 アリエルが慌ててトレイに手を伸ばす。 「いいって」 ウェイターよろしく、片方の手で器用にトレイを持つリヒャルトに 「甘やかさないでくれ」 アルベルトがピシリと言う。 「はいはい」 リヒャルトは苦笑して、トレイを返した。 食事の間中、持ち前の社交性を発揮して会話を盛り上げてくれるリヒャルトに、アルベルトは内心ホッとしていた。 一緒に食事をしようと言ったけれども、いざ二人きりになったら正直どうしたらいいかわからない。そう考えていたアルベルトにとって、リヒャルトの申し出はありがたかった。 けれども、それを顔に出すことは無かったが。 「それにしても、お砂糖ちゃん」 リヒャルトは、アリエル本人に対してもそう呼ぶようになっていた。 「ばっと見、あまりにも雰囲気が違うからわからないけど、よくよく見ると、アルと似てるな」 「そうですか?」 アリエルはきょとんとしただけだったが、アルベルトはギクリと親友の顔を見た。 「やっぱり血のつながりかな。眉とか、口許から顎のラインなんかがそっくりだ」 リヒャルトの言葉に、特に深い意味は無さそうだった。 そう密かに胸をなでおろして、すぐに、一瞬焦った自分を嘲笑う。 (深い意味などあるわけがない) 自分とアリエルの関係は、目の前のアリエル本人ですら従兄弟同士だと信じきっている。 いくら勘の良いリヒャルトとはいえ、自分たちの秘密がばれることなどありえない。 (それにしても……) 自分たちは、本当に似ているのだろうか。 アルベルトは、そっとアリエルの顔を盗み見た。 小さな白い顔の儚げな雰囲気は、アリエルの母親ヒルデに似ていると思う。その顔ももう記憶の彼方だが、優しげな風情の美しい人だった。 そして自分は―― 「なあ、アル」 「えっ?」 突然話し掛けられて、アルベルトは慌てた。 「なんだ。聞いてなかったのか」 「あっ、いや…」 柄にも無く口篭もると、アリエルの心配そうな瞳が自分を見つめる。 「すまない。ちょっと…午後からの会議のことを考えていて」 「十月祭のか」 「ああ」 「そんなの、一人で考えてどうなるものでもないだろ」 寮長として同じ会議に出るリヒャルトは、おかしそうに唇の端を上げた。 その顔が自分の考えていた別のことを見透かしているようで、アルベルトは不機嫌に言った。 「誰かがまとめないとね。今年の役員は、みな我が強すぎて」 「一番強いヤツは誰でしょうねえ」 「君だろう」 「お前にいわれちゃなぁ」 クツクツと笑うリヒャルトとふてくされたようなアルベルトを見て、アリエルが寂しそうに微笑んだ。 「アリエル?」 気づいたアルベルトが、目で訊ねる。 「あ、なんでもないの。ごめんなさい」 「何? どうしたお砂糖ちゃん」 「いいえ……」 二人に見つめられてアリエルは、 「リヒャルト先輩はアルと仲が良いんだな…って、思って…」 思わず本音をポツリと言った。 「あ、あの、特別な意味は無いです。ただ、ちょっと…」 口に出したことを後悔して、アリエルはあれこれと言い訳した。 「僕、アルとずっと一緒だったのに、なのに、今は、久し振りでなんだか緊張して、アルも、なんだか知らない人みたいで、だからそんな風に話しているリヒャルト先輩が、羨ましくて、その…」 次第に真っ赤になり最後はうつむいてしまったアリエルに、リヒャルトは吹きだした。 「ひょっとして俺、ヤキモチやかれちゃったの?」 「ご、ごめんなさい」 アリエルは恥ずかしそうに伏せたまつ毛を揺らす。 リヒャルトはその顔に目を細めて 「可愛いなあ、そんな顔されたら、たまらない」 くいっとアリエルの顎を持ち上げて、唇を近づけて囁いた。 「今度は、アルに、妬かせてみないか」 「リック」 アルベルトはリヒャルトの肩を掴んで引き戻す。 もともと冗談半分だったリヒャルトは、大げさに肩を押さえて 「イタタタ、やめろよ、肩がはずれるだろ」 そして、アリエルを見て片目をつむった。 『ほら、アルだって妬いてるんだよ』 そう言われた気がして、アリエルは微笑んだ。 先ほどとは違う本物の笑みに、リヒャルトは満足そうにうなずいた。 一方、アルベルトは、親友の悪ふざけにとっさに伸ばした腕を引くと、膝の上でそっと拳を握り締めた。手のひらの感触を握りつぶす。 他人に触られることも、自分から触ることも好きではない。いや、好きではないとかそんな生易しい言葉ではなく――嫌だ。 耐え切れないというほどではないが、今のように用心せずに他人の身体に触れた後は、背中に嫌な汗をかく。 誰にも知られないように気をつけてはいるけれど、年々ひどくなっていく気がする。 本当なら、寮も一人部屋を希望したかった。けれども、一人部屋というのが却って色々な生徒の訪れやすい、いわゆるサロンになりがちなことも恐れて、あえて二人部屋で我慢している。幸いにも、陽気で明るくその社交性から常に出歩いていてほとんど部屋にいないエーリッヒは、理想的な同室者だった。 「クールなアルベルトが、お砂糖ちゃんのこととなったら『らしく』なくなるんだからな」 君は愛されているんだよ、と訳知り顔でアリエルに告げるリヒャルトに、アルベルトは今のことではなくあのゾマー寮での出来事を思った。 あの日、ベッドに横たわるアリエルを取り囲んだ生徒たちを見て、アルベルトは普段に無い激情に駆られたけれど、あれは嫉妬ではなかった――と思う。 不快。 一言で言うなら、それだ。 身体中に虫唾が走り、吐き気を伴うような嫌悪感、そして、直後に、言いようのない怒り。 そして、アルベルトは気がついた。 自分が触られること同様、いや、それ以上に、この従弟が他人に触れられるということが許せない。今さっきの気分の悪さも、リヒャルトがアリエルにキスする真似などしたからだ。 「わかっているんなら、僕の前でアリエルにベタベタしないでくれ、リック」 アルベルトの言葉にアリエルはぽかんとした表情で驚きを隠さず、そして、次第に頬を染める。アルベルトの言葉に、嬉しい意味を感じ取って。 「やれやれ、そろそろ言われるかと思ったけれど、お邪魔ということか」 「暇なら会議室の鍵を借りに行ってくれ」 「はいはい」 リヒャルトは立ち上がって、そしてアリエルの髪をクシャッと撫でた。 それを見たアルベルトの背中に、ゾワリと震えが走る。 「バイバイ、シュガーベイビ」 生徒の間をぬって遠くなる背中を見送って、アルベルトはアリエルに言った。 「散歩しようか」 「う、うん…」 「裏庭の温室は、行った?」 「うん…前にフランツが、見つけて来て」 「そう、あそこには、珍しい花があってね。薔薇に良く似ているんだけれど、冬に咲くんだよ」 「そう…」 「ヴィンター寮の林の奥にも、昔、物好きな生徒が作った温室がある」 「林の中に?」 「そこは、知らない?」 「うん」 アルベルトのひと言ひと言に、アリエルは心臓を高鳴らせた。 エゼルベルンに来てから、こうしてアルベルトと二人で並んで歩きながら会話するなんて、初めてだ。誰もいない、静かな小道。懐かしい日がよみがえる。 昔は、よく二人で森を散歩した。アルベルトの屋敷を囲む小さな森は、幼かった二人の大切な思い出の場所。そこでも、アルベルトは自分の見つけた珍しい花や実を、アリエルに教えてくれた。 (昔に戻ったみたい…) アリエルは、胸の前で小さく手を握り締めた。そして、ずっと訊ねたかったことを、思い切って口にする。 「ねえ、アル。どうして、お休みに帰ってくれなくなったの」 アルベルトは、少し考えるふうに黙って、 「学年長になって、色々忙しくなったり……三年前リヒャルトと同室になってからは、彼の家によばれたりもしていたからね」 本当は、ほとんど一人で過ごしていた休みの日を、そう言ってごまかした。 「そう、僕、ずっと待っていたんだよ」 「……すまなかった」 アルベルトはアリエルを振り返って、そして薄紫の瞳でじっと見つめた。 アリエルは、小さく息を飲む。 「アリエル…」 アルベルトはゆっくりと指先を伸ばし、アリエルの柔らかな髪に触れた。 あの日、ジークベルトが撫ぜ、たった今リヒャルトがかき乱した甘い蜂蜜色の髪。 ゆっくりと撫で、その指を小さな耳へと滑らせる。 アリエルは、そっと瞳を閉じた。 (キス……される?) 甘い予感に震えたけれど、耳元を撫ぜた指先は唐突に離れていった。 途方にくれたような顔で見上げると、アルベルトは、顔をそむけるようにして目をそらした。 (だめだ……) アルベルトは内心呟く。 試してみた。 アリエルなら大丈夫かと。 人に触れるのも、触れられるのも嫌いだが、アリエルなら――あれほど愛しく思っていたアリエルなら――大丈夫かと試してみた。アリエルの唇に触れられるかと。 「アル?」 不安そうに小さく呼びかけて小首をかしげる天使のように可愛らしい顔。 かつて、幾度となくその頬にキスを与えた。 (それでも、だめなのか……) アルベルトは唇をかむ。 背中の汗に、不快感が増す。 あの日――母親とアリエルの父親のセックスを覗いてしまったあの日から、アルベルトは他人と触れ合えなくなった。 「ねえ、どうしたの? アル……」 不安を隠さない声が震える。 「なんでもない。行こう」 アルベルトはそれっきりまた何も話さなくなり、アリエルはせっかく寄り添えたと思った相手が、再び遠くに行ったことを感じた。 |
HOME |
小説TOP |
NEXT |