就寝前の祈りを終えてベッドに入っても、アルベルトは眠れなかった。

同室のエーリッヒは、点呼の後、部屋を抜け出している。おそらく明け方まで戻っては来ないだろう。
アリエルの声が、頭の中で繰り返される。
『ねえ、どうすればいいの?』
『どんな僕だったら、アルは、昔みたいに笑ってくれるの』
(昔みたいに――)
小さなアリエル。可愛いアリエル。
あれほど愛しいと思っていたのに――。
もうアリエルの言う『昔みたいに』彼を愛することはできないという思いに、アルベルトは唇をかんだ。

アリエルの泣きじゃくる声が、耳について離れない。
自分の胸の中で、固くシャツを握り締めて震える小さなアリエル。鼻先で揺れた蜜の髪。
それは、さっきの言葉とともに『昔の』記憶をよみがえらせる。
(アリエル……)


アルベルトとアリエルは従兄弟同士だが、実際は兄弟のようにいつも一緒だった。
母親同士が姉妹で、父親も従兄弟同士。バルドゥール家というのはその地方では知られた名家で、尊い血を守るため、昔から当たり前のように同族婚が繰り返されている。
アリエルの母親が病弱だったため、幼いアリエルはよくアルベルトの屋敷に預けられた。
逆に、妹の見舞いに行くと言う母親に連れられて、アルベルトのほうが分家にあたるアリエルの屋敷に行くこともしばしばだった。
何日も互いの家で一緒に暮らすうちに、実の兄弟以上に仲良くなった。
そして、いつしか互いを思う気持ちが肉親への情以上のものになっているということに、アルベルトが気づいたのは十二の時だった。
アリエルは、まだ小さすぎて気がついていない。
けれども、ひたむきに自分を慕う様子は、ただの兄に対する愛情だけではないとアルベルトは思った。

「嫌だ。嫌だよ。アル、行っちゃヤダ」
ギムナジウムに進学するにあたり寄宿舎に入るから、もう今までのように会えないと告げたアルベルトに、アリエルはすがり付いて泣きじゃくった。
「僕も行く、一緒に行く。連れて行って、アル」
胸に押し付けられる小さな頭。その髪の甘い匂いに、まだ幼かったアルベルトは、生まれてはじめての性的な興奮を覚えてうろたえた。
ぎゅっと抱き締めるとアリエルの涙が胸のシャツに染みた。
その温かな感触。
そこからジワリと全身に広がる、今まで感じたことのない熱。
アルベルトは、そっとアリエルの髪にキスした。
それは、大人から見たら、仲の良い子供同士の、お別れの挨拶だったかもしれない。
けれども、アルベルトには違った意味を持っていた。

「五年経ったら、おいで。待っているから」
これから自分の行くエゼルベルンギムナジウム。そこで、アリエルが来るのを待っているという、誓いの口づけだ。
「休みのたびに帰るよ」
「絶対、絶対だよ」
涙でくしゃくしゃになった顔も、アルベルトにはひどく愛らしく見えた。
「うん、絶対」
もう一度、頬にキスをした。
「約束だからね。アル……」
けれども、その約束は、四年前から守られていない。


ベッドから身体を起こして、アルベルトは髪をかきあげた。
水が飲みたい。
アリエルが転入してきてから、眠れない日が多くなった。
何も知らなかったら、アリエルがそばに来たことは、何よりの喜びだったのに。
アルベルトは、四年前の夏休みを――出来れば記憶の中から消し去ってしまいたい、十四の夏を思い出した。



教科書とお土産の詰まった鞄を膝に抱いて、十四歳のアルベルトは自分の屋敷に向かう車の窓から外を見た。およそ半年振りの街の景色は、何も変わっていないけれど、それでもひどく新鮮だ。
本当は、来週帰省する予定だった。長い夏休み明けには、新入生を迎える寮では歓迎会をはじめとした色々な催し物があって、アルベルトのように選ばれた生徒はその準備の打ち合わせが必要だったから……。いつもよりも一週間遅くなると言う手紙に、母親は「気をつけて」とお金を余計に送ってくれた。
けれど、肝心の上級生たちが次々に事情が出来て寮に残れなくなったため、打ち合わせが夏休みの最終週に変更になった。
突然早まった帰省。母親の驚く顔が見たくて、連絡をしていない。
(びっくりするかな……)
突然帰った息子に、驚いて目を丸くする美しい母親の姿を思い浮かべて、アルベルトは口許を緩めた。
そして、蜂蜜色の髪の天使を思い浮かべる。
(アリエルも、元気かな……)
帰省を急いだのは、アリエルの顔を見たかったからだ。
この前帰ったとき、アリエルは、家庭教師が来ていたにもかかわらず、自分が来たと聞いて屋敷から飛び出してきた。大理石の階段を駆け下りて、胸に飛び込んできたのをお土産の包みを放り投げて受け止めた。
その後、行儀が悪いときつく叱られたのだけれど、アリエルは終始にこにこと笑っていて、家庭教師もその笑顔に負けたのか、クドクドとは言わずに帰っていった。
自分のいた間中、家庭教師はお休み。
アリエルは、朝も昼も夜もずっと自分のそばから離れなかった。
母親を驚かした後は、直ぐにアリエルの屋敷に行こう。
「お客さん、この先真っ直ぐ行くと森に続く一本道ですよ。迂回して行きますか」
運転手の言葉に回想から引き戻されて、思い出し笑いの顔をバックミラーで見られたかも知れないと、アルベルトは口許を押さえた。
車はいつのまにか街を抜けていた。バルドゥール家の私有地の森がすぐそこだ。
「じゃあ、森の入口で降ります」
屋敷を囲む小さな森は、真っ直ぐ歩いておよそ三十分。青々と葉を茂らせた木々のおかげで夏の陽射しは適度に陰り、幸いにも荷物は軽い。散歩を兼ねて帰れば、お昼にちょうど良い。
爽やかな夏の風を頬に受けながら、アルベルトは屋敷に向かった。

屋敷の中は、静かだった。夏は、普段雇われている者たちの多くが閑をとって故郷に帰る。残っているのは住み込みの庭師と、行儀見習いも兼ねて地元から通っている少女くらいだ。
その少女が、突然の若様の帰りに驚いて出てきたけれど、
「いいよ、昼の仕度があるんだろう」
自分で荷物を持ったまま、アルベルトは階段を上がった。
「あ、あの」
少女が呼び止める。
「クレマンス様がお見えになっています」
「おじ様が?」
アリエルの父親が来ている。
「アリエルは?」
思わず左右を見渡してしまう。
「いいえ」
「そう」
ふと気になって、
「お父様は?」
訊ねると、少女は首をかしげた。
「良く存じ上げませんが、お仕事でパリに行っていらっしゃると…」
「…そう」
なんとなく階段を上がるのに躊躇したのは、虫の知らせだったのか。
それでも足を踏み出し、広い廊下をゆっくりと歩いた。
当然居るだろうと思ったサロンに、母親たちの姿はなかった。
来客用の応接室を一つ一つ覗いて回る。
絨毯の色が変わったここから先は、プライベートルームだ。
はっきりとした理由のわからないままの不安な気持ちで、母親の部屋に行く。
そっと扉を開けると、奥の扉の向こうから人の気配がする。
(寝室…?)
恐る恐る近づいて、扉を細めに開ける。
カチャリという小さな音は、夢中になって重なっている二人には聞こえなかったようだ。
アルベルトの目の前で、天蓋付きのベッドの中、裸の女と男が抱き合っていた。
いかがわしい声をあげているのが、自分の母親だと理解するのに、アルベルトは数秒を要した。そして、その母親を突き上げて泣かせているのが、アリエルの父親だということも。

そっとドアを閉めて、アルベルトは母親の部屋を出て行った。
頭の中がガンガンと鳴る。その音に混ざって、母親の淫乱な娼婦まがいの声が聞こえる。
たった今見たものが信じられず、アルベルトはフラフラと階段を下りた。
メイドの少女が駆け寄ってくる。
「若様?」
とっさに取り繕うだけの思慮はあった。
「あ、ああ。二人とも、いなかった。どこかに出かけたのかな」
「あの、ご気分がすぐれないのですか」
少女は、アルベルトの顔色の方が気になった。
「森を歩いてきて、疲れてしまった。貧血かもしれない。部屋で休むから、水をもって来ておくれ」
そして、付け加えた。
「お母様がお帰りになったら、アルベルトが帰ってきているけれど、具合を悪くして部屋で寝ていると伝えて」
「はい」


ベッドに横になると、再び母親の姿が浮かんだ。裸の胸を揺らしてあさましく腰を振る姿。
アルベルトは、吐き気を覚えた。
「うっ」
シーツを握り締め、口許を覆う。固く口を結んでやり過ごそうとしても、気持ち悪さに涙が出る。
「大丈夫ですか?」
水差しとグラスをトレイに乗せて来た少女が、慌ててそれをサイドテーブルに置き、背中をさする。その瞬間、アルベルトは嘔吐してしまい。少女の手を振り払った。



「アルベルト?」
夕方近くなって、アルベルトの母イルマが顔を出した。
「具合が悪いのですって」
少女から話を聞き、性質(たち)の悪い風邪か何かを心配しながら、急いでベッドに寄る。
「大丈夫?」
頬に手を伸ばされ、アルベルトはとっさに顔を伏せた。
「アルベルト?」
「あ、あの、吐いてしまったんです」
そのことを恥じているかのように、顔を隠した。
「そんなこと、病気だったらよくあることよ」
「気持ちが悪いので、寝ていいですか?」
「そうね、今、お医者さまを呼びましょう」
「……」
そのとき、部屋がノックされた。
イルマが振り返って
「実は、クレマンスが来ているのよ」
その言葉とともに、長身の美丈夫が入って来た。アリエルの父親。
その姿を見てアルベルトは、再び、胃液をもどしそうな気持ちになった。
「お帰り、アルベルト」
何も知らないクレマンスは、イルマの横に自然に並び、そして軽く膝を折って心配そうにアルベルトの顔を覗き込んだ。
「大丈夫かい?」
薄紫の瞳に、ひどくやつれたような自分が映っている。
この色が、自分の瞳の色と同じだと言ったのは、母親だった。
『バルドゥール家の血筋の色よ』
誇らしげな母親の言葉を思い出し、そして、アルベルトは、自分を襲った思い付きに身体を震わせた。
(まさか……)




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