「氷の薔薇がシュガーベイビとリングの交換をした――」 アルベルトとアリエル――どちらも多くの少年達から心密かにリングの交換を熱望されていた対象だっただけに、その二人が『そういう仲』になったという噂は、エゼルベルン中に衝撃を与え、十月祭を前にした浮かれ気分も拍車をかけて、あっという間に広がった。 アリエルは、どこに行っても興味深げな視線を注がれて落ちつかない思いをしているのだけれど、アルベルトのほうは、何ごとも無かったかのように振舞っている。 実際、リングを交換してからも、二人で仲良く歩く姿が目撃されるということもほとんど無かった。 今までと違うのは、二人の左手を飾る銀色の指輪だけ。 「アリエル、お昼はどうするの?」 パウルに訊ねられて、 「うん、一緒に行くよ。待ってて」 教科書をしまいながら、アリエルは応えた。 「アルベルト先輩のところに行かなくてもいいの?」 パウルは、気を使った。フランツはライムントと一緒に食事をするために、授業の終わりの鐘とともに教室を飛び出している。 「う、うん…」 「僕のことなら気にしなくていいよ。食堂に行けば、誰かと会えるんだし、一人で食べるのだって…」 「違うよ、パウル」 アリエルは、ほんの少し困ったような顔で微笑んだ。そして 「今日のお昼は、なんだろうね」 献立に話を逸らすと、 「書いてた。ラム肉とジャガイモ。チェック済みだよ」 パウルは応えて、それ以上は何も言わずに、アリエルと並んで歩いた。 アリエルは、アルベルトのことを考えた。 (一緒に、食事…) ライムントの所に駆けて行ったフランツがうらやましかった。 リングの交換をして以来、アリエルがアルベルトと会ったのは三回だけ。 三回ともアリエルのほうから訪ねて行って、言い訳に準備していた宿題を見てもらった。それだけ。 優しい言葉もかけてくれず、ましてや甘い囁きなど期待するのもおこがましく……。 アリエルは、また、自分が本当は好かれていないのではないかと不安になっていた。 「アリエル、こっち」 「うん」 食堂は、トレイをもって移動する生徒達で溢れていた。それでも、さほど騒々しく無いのは、皆きちんと躾けられているからだ。 アリエルとパウルも、行儀良く向かい合って席についた。 「あ、アルベルト先輩だよ」 パウルが見つめる先に、リヒャルトと食事をとるアルベルトの姿があった。 ドクン…アリエルの心臓が鳴る。 冷たいほど整った横顔は、食事をとる間すら、どこか殉教者めいたストイックさをおびている。 「あんまり美味しそうじゃないね。ラム肉、嫌いなのかな」 ふふふ……と邪気無くパウルが笑った。 パウルの言うとおり、アルベルトは、まるで、その食事が課せられた義務で仕方なく済ませている――そんな風に見えた。 (昔は、あんなじゃなかったのに……) 幼い日に一緒に食べたクリスマスのごちそう。 アルベルトは、微笑んで、それは美味しそうに食べていた。 自分の皿に、七面鳥の肉を切り分けてくれた。 『アリエル、小さいアリエル、お肉も食べないと、大きくなれないよ』 歌うように言って、自分を見つめてくれた顔。 昔の幸せな記憶を呼び戻してぼんやりと見つめた先で、不意にアルベルトの表情が変わった。リヒャルトが何か言ったのだろう、その言葉にアルベルトが呆れたように吹きだした。 「あ……」 胸に針が刺さしたような痛み。 「笑って、る」 「えっ? 何?」 思わずもれた呟きを、パウルが聞き返す。 アリエルは応えず、フォークを固く握り締めたまま、じっとアルベルトを見つめた。 アルベルトがリヒャルトに向かって静かに笑っている。 わずかに細められた瞳。鋭い視線が和らいで、氷の美貌が、それまでまとっていた拒絶のベールを剥いで人を惹きつける。 (僕には、あんな顔、見せてくれない……) ずっとずっと、感じていた。 アリエルが転入してきて一ヶ月、その間、何故だか知らないけれど、アルベルトは一度も笑いかけてくれなかった。 アルベルトの美しい微笑みは、全て記憶の中だけのもの。 (僕には、ここに来て一度だって、あんな風に笑いかけてくれなかったのに……) アルベルトは、リヒャルトの前では笑っている。 アリエルは、持っていたフォークを皿に落として、両手で顔を覆った。 (馬鹿…) 突然泣いたりしたら、パウルが変に思うじゃないか。 そう思っても、胸が苦しくて、鼻の奥が痛くなって、そして目の裏が熱くなる。 「どうしたの? ねえ、アリエル」 パウルが驚いて身を乗り出す。 「何か、詰まった? お水飲む?」 コップを差し出すパウルに、アリエルは返事も出来ずただ首を振るだけだった。 悲しかった。 リングを交換しても、遠くにいるアルベルト。 「アリエル」 突然泣き出した友人に、パウルは焦った。 そしてその様子は、周囲に注目されるには十分だった。 「ゴメン……僕、顔を洗ってくる」 アリエルが立ち上がると、周りで見ていた生徒達の視線も動く。 アリエルは、スンと鼻をすすって、白い指の先で目頭を拭った。 空色の大きな瞳を飾る飴色の長いまつ毛が、涙を含んでいつもに増して輝いている。 赤く染まった目元の艶めかしさには、いつも傍にいるパウルでさえもドキリとした。 「食事の途中に立って、ごめんなさい」 泣き顔のまま食事は出来ないからとパウルに謝って、アリエルはうつむいて食堂を出て行った。 この時アリエルの泣き顔を見てしまった上級生の一部は、陰でひどく下卑た噂話をした。 『あの顔を、自分の下で泣かせて、めちゃくちゃにしたい』 そんな嗜虐心をあおる貌(かお)を持っている危うさを、当のアリエルだけが全く自覚していなかった。 「アリエル」 その日の夜、点呼の前の時間にアルベルトが突然自分の部屋を訪れ、アリエルは驚きに直ぐには口が利けなかった。 「あ、あ…の、どうしたの?」 瞬間思いついたのは、リングを返してくれという言葉。 交換したのは、間違いだったと―――そう言われる不安。 無意識に、左の手を右手で包んだ。 「今日、食堂で何があったんだ?」 「えっ?」 アルベルトの言葉は、意外だった。 「食堂で、君が泣いていたと皆が噂していた」 「あっ…」 アリエルは恥ずかしそうに頬を染め、アルベルトはその表情に、眉根を寄せる。 「どんな理由があったか知らないけれど、人前で簡単に泣いたりするものじゃない」 「アル…」 「もう、六年生だろう? いつまでも小さいアリエルのままじゃ……」 アルベルトは少しの間言葉を探して、 「困る」 ズキン 放たれたアルベルトの言葉の矢が、心臓に鋭く突き刺さって、ゆっくり、見えない血を流す。アリエルは、唇を震わせた。 「困る?」 「ああ」 (小さいアリエル――) アルベルトからそう呼ばれた頃が、自分にとって一番幸せなときだったのに、その頃の自分では困ると言う。 「じゃあ……どんな僕ならいい?」 アリエルは、両手を固く握り締めた。 「どんな僕なら…」 アルベルトは、昔みたいに笑いかけてくれるの? 「アルっ」 アリエルは、押さえ切れない思いに、アルベルトにしがみついた。アルベルトは、一瞬、身を固くする。 「ねえ、どうすればいいの? どんな僕だったら、アルは、昔みたいに笑ってくれるの」 アリエルの大きな瞳から涙が溢れ出す。 「ねえ、どうすれば、僕にも、あの人みたいに笑いかけてくれるの? どうして…どうして、アルは、昔みたいに僕のこと…っ…うっ…う…ふ」 胸にすがり付いて泣きじゃくるアリエルを抱き締めようとしてあげた手を、アルベルトはぐっと握って下ろした。 「アリエル…」 胸の中で泣き続ける小さな従弟に、アルベルトは感情を殺したような声で言った。 「明日……昼、一緒に食事をしよう」 ゆっくりとアリエルが顔をあげた。 涙に濡れても微塵も曇らない空色の瞳。 「明日…お昼…?」 薄く開いた唇が、切なげに繰り返した。 「ああ」 「……うん」 アルベルトの胸のシャツをギュッと握ってうなずく。 食堂で見たアルベルトの、リヒャルトに笑いかけた横顔を思い出す。 (僕にも、ああやって、笑って…アル…) |
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