集まった上級生たちに何を話し掛けられても、アリエルは、上の空だった。 頭の中は、アルベルトのことでいっぱい。 小さい頃は、いつも一緒に遊んでくれた。優しかったアルベルト。 身体が弱く床につくことが多かった母親に代わって、本を読んだり、字を教えてくれたりもした。 美しいアルベルトは、母であり兄であり、そしていつのまにか恋人のように、自分の胸を占めていた。 ずっと会いたくて、会いたくて――やっとそばに来られたのに。 (アル……) 「お姫様は、どこか具合でも悪いの?」 ジークベルトが、アリエルの顔を覗き込んだ。 「い、いいえ」 いつのまにか間近に迫った顔にアリエルは慌てて、それと気づかれないように身体を離す。 「そう?」 ジークベルトが、二杯目のカップを差し出した。 「そっちのお茶、冷めちゃってる」 「あっ、はい。ありがとうございます」 受け取って一口飲んで、アリエルは怪訝な顔をした。 「ハーブティーだから、そのままだと少し苦いと思って、蜂蜜を入れたんだよ」 口に合わなかったかと訊ねられ、アリエルは愛想笑いで首を振った。 「そう。よかった」 ニッコリと微笑むジークベルト。 「パウルもフランツもどうぞ。身体が温まるよ」 クスクスと笑う他の上級生たちに、パウルはほんの少し嫌な予感がしたけれど、そのお茶の甘ったるい蜜の味は、不味く無い。 それがハーブティーなどではなく、度数の高いアルコールを使ったホットカクテルの一種だと知るのは、すっかり飲んでしまって酔いがまわってから。 「ライムント、何だか…身体が熱いよ」 フランツの甘えたような声に、ライムントは苦笑して、 「ミハイル、部屋、借りるよ」 フランツを連れて出て行った。 パウルは、アルコールでぼんやりした頭でも、この上級生たちの企みを感じとり 「アリエル、帰ろう」 アリエルの腕を取ろうとした。 「おっと、ダメだよ、そばかすちゃん。帰るなら一人でお帰り」 ジークベルトがその手を遮って言った。 「そんな、仲間はずれはかわいそうだろ? この子は、僕が相手するよ」 何かとパウルに話し掛けていた九年生のランドがパウルの腰を抱いて引き寄せた。 「は、放せよ」 パウルはじたばたと身じろいだ。 「俺も、これくらい元気のいい子の方がいいなあ」 「じゃあ、俺も」 三人がかりで、暴れるパウルを押さえ込む。 冗談めいた動きだったが、パウルにパニックを起こさせるには十分だった。 「やっ、やめろよっ」 アリエルは、さっきまで熱に潤んだ焦点の定まらない瞳で無防備な貌(かお)をさらしていたのが、いつのまにかうとうとしかかっている。 (ダメだ。このままじゃっ) パウルは、むちゃくちゃに手足を振り回して暴れると、三人の腕を振り解いて部屋を飛び出した。 寮長の部屋は、一階の角部屋だ。四つの寮ともそういう決まりになっている。寮長は最上級生の一学年下の十一年生から選ばれる。パウルは、ゾマー寮の寮長に助けを求めた。 ふらつく足に気合を入れて、階段を駆け下りる。 (早くしないと、アリエルがどんな目にあうか!) その思いで必死に走って、目指す部屋に飛び込んだ。 「助けてっ!助けてくださいっ!」 偶然にもゾマー寮の寮長の部屋には、ヴィンター寮の寮長と、十一年生の学年長の二人が、来たる『十月祭』の打ち合わせの為にやって来ていた。 「三階のジークベルト・コンラートの部屋っ。早く行かないと、アリエルがっ」 アリエルの名前を聞いて、アルベルトの顔色が変わった。 「何をしている」 ゾマー寮の寮長クラウスがジークベルトの部屋に駆けつけたとき、アリエルはベッドに寝かされ、その天使のような寝顔を六人の少年が囲んで見つめていた。蜂蜜色の柔らかな髪を梳くように撫でていたのは、ジークベルト。 クラウスが動くより早く行動したのは、アルベルトだった。 アリエルを囲む少年たちの頬を平手で殴っていく。 普段は物静かな、どちらかというと線の細いアルベルトのどこにこんな力があるのか。 頬を叩かれた少年たちは床に倒れ、唇を切って血を流した。 リヒャルトは、アリエルの着ている服に乱れの無いのを見てとって、 「アル、それくらいでいいだろう。それより、お砂糖ちゃんを部屋につれて帰れ」 アリエルをそっと抱き起こした。 「首謀者はだれだ?」 クラウスの言葉に、少年たちは、顔を見合わせた。 ジークベルトが右手を挙げた。 アルベルトはそれを目の端に映しながら、アリエルの小さな身体を受け取ると、リヒャルトと一緒に部屋を出て行った。 目が醒めたとき、アリエルは、枕元の椅子に座る人物を見て夢の続きだと思った。 大好きな美しい顔が、そこにあった。 薄紫の瞳が自分を見つめている。 「アル…」 思わずそっと腕を伸ばすと、その手を捕まえられて、アリエルは焦った。 本物のアルベルト。 「あっ」 動揺のあまり手を引こうとしたが、それはアルベルトが許してくれなかった。 アルベルトは、アリエルの指を捉えたまま、そこに光る銀の指輪を見つめた。 「あ、あの……」 アルコールのせいではなくて火照る頬。アリエルは、言葉が見つからず、じっとアルベルトを見つめる。 「このリングを」 唐突に、アルベルトが言った。 「僕のと交換しよう」 (えっ?) アリエルは、耳を疑った。 スクールリングの交換――それが意味するもの。 けれども、今、目の前のアルベルトの表情(かお)は、決して愛を告げるそれでは無かった。 「どうして?」 自分のことを好きでもないのに、リングを交換しようなどと言うのか。 アリエルは、自分の指に光る銀色のスクールリングを見つめながら訊ねた。 「いやなのか?」 アルベルトは、心外そうに聞き返す。 「まさか」 アリエルは、とんでもないと言わんばかりに顔を上げ、そして再びゆっくりとまつ毛を伏せた。 「僕は…嬉しいよ」 ぎゅっと握った左手で心臓を押さえる。 胸が痛い。 「アルのこと…好きで…好きで、追いかけてきたんだもの……」 心からの告白だったが、アルベルトからの返事は無かった。かわりに、右手の指輪がそっと外される。 アルベルトはそれを左手の薬指にはめようとし、自分の指には小さいことに気がついて小指にはめなおした。そして次に自分の指輪を外すと、アリエルの左手を引き寄せた。 薬指に、ゆっくりとはめる。 (あっ……) アリエルは、一瞬、背中をゾクリと震わせた。 左手の薬指から全身に熱が広がる。 「もう、僕の許可無く、お茶会に参加したりしてはいけないよ」 無表情に囁くアルベルトに、アリエルは黙ってうなずいた。 もうすぐ点呼の時間だと言ってアルベルトが部屋を出て行ってからも、しばらくの間、アリエルはベッドの中で動けずにいた。 そっとリングに触れてみる。 「アル…」 内側には、愛しい人の名前が刻まれているのだ。 それを確かめてみたい気もしたけれど、せっかくアルベルトがはめてくれたものを抜いてしまうのが勿体なくて、アリエルはそのまま手を握り締めた。 今頃になって、心臓が騒ぐ。 アルベルトは、自分のことを好きなのだ。 (でなきゃ、スクールリングの交換なんて、するわけないもの) ゆっくりと自分に言い聞かす。 アルベルトは、自分のことが好きなのだ――。 点呼の時間ギリギリにヴィンター寮に戻ってきたアルベルトを待ち構えていたように、リヒャルトが姿を現した。 「お砂糖ちゃんの具合はどうだった?」 「リック、もう部屋に戻る時間だろう」 脇をすり抜けようとしたアルベルトの、左の小指に光る指輪を目ざとく見つけて 「アル、いつの間に」 リヒャルトは口笛を吹いて、その手をとった。 「言っただろう。こうするつもりだって」 左手を取られたまま、アルベルトはうんざりしたようにリヒャルトを見返す。 「それにしちゃあ、嬉しそうでもないな。まさか、照れてるわけ?」 リヒャルトの問いかけにはため息だけ返して、アルベルトは自分の左手を取リ戻すと、自室に戻った。 ぎゅっと拳を握れば、慣れないところにあたるリングの感触。 じっと自分を見つめた、澄んだ空色の瞳が脳裏によみがえる。 (アリエル……) アルベルトは、今日一日の出来事を振り返って、もう一度大きくため息をついた。 その頃、アリエルの隣の部屋では――。 「ライムントは、そんな人じゃないよ」 フランツの言葉に、パウルはムッとした様子で唇を尖らせた。 「何がだい? 現に、僕たちは知らない間にお酒を飲まされて、フラフラになってしまったじゃないか。クラウス先輩が助けてくれたから良かったけど」 「助けるって、別に乱暴されたわけじゃないだろう? パウルのせいで、ジークは反省室に入ることになったんだよ」 「あんな奴、一生入ってろ」 「もう」 フランツはあのとき酔っ払って寝てしまい、ミハイルの部屋で目を覚ました。 ライムントが心配そうに覗き込んで 「ゴメン、いたずらが過ぎたな」 そう言ったので、その言葉通りに受け止めた。フランツにとってライムントは、いつでも優しい幼馴染みの恋人だ。 「ただのいたずらだったのに、大騒ぎしたのはパウルだよ」 「あれがただのいたずら?」 信じられないとパウルは首を振る。 パウルは、本気で怒っていた。 「あのまま、僕が逃げ出して戻らなかったら、アリエルがどんな目にあっていたか」 「どんなって?」 フランツが、えらそうに腕を組む。 「ど…って、だから…大変なことだよ」 パウルの顔が赤く染まった。 「ふうん」 フランツは、おかしそうに片方の眉を上げた。 「パウル、やらしいこと考えてる」 「何のことだよっ」 「あははは……」 「僕は、怒ってるんだぞっ」 パウルは真っ赤になって怒っているが、フランツはさほど気にしていない様子。 その二人も、次の日に、アリエルの指に光るリングを見て驚いたのだった。 |
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