「来なきゃ、良かったのかな」
「何? 何のこと?」
「来なきゃ、って、ここに?」
フランツが訊ねると、アリエルは小さくうなずいた。
「何でそんなこと言うんだよ」
そばかすだらけの顔をパウルは悲しそうに歪めた。
「僕はここに来て良かったと思ってるよ。アリエルにも会えたし」
「そうだよ。僕だって、ライムントを追いかけてきたのはそうなんだけど、一緒に転入したのがパウルとアリエルで良かったって思ってるよ」
「あ…」
アリエルは、二人の顔を見て
「ごめんなさい」
小声で謝った。
大好きな従兄が歓迎してくれなかったからと言って、この友人たちに出会ったことまでも否定するなんてできない。
「僕も、二人に会えてよかった」
アリエルがうっすら滲んでいた涙を指の先で拭うと、パウルは
「泣くなよ、アリエル。僕がついてるから」
アリエルを抱きしめた。
「あ、抜け駆けするなよ。パウル」
「うるさい。君にはライムントがいるだろう」
「それとこれとは、違うよ。僕だって、アリエルのこと好きだもん」
パウルの腕からもぎ取るようにアリエルの身体を引き寄せて、フランツもギュッと抱きしめた。
二人の少年に両わきから抱きしめられて、アリエルは一瞬呆然として、それからふっと吹き出した。
「あ、笑った」
「笑った、アリエル」
「ありがとう、二人とも」
アリエルは、天使のような笑顔を見せて、パウルとフランツもホッとしたように微笑んだ。
けれども、ほんの少しお節介なところのあるフランツは、自分と同じようにアリエルにも幸せになって欲しいと思い、頭の中である計画を立てた。


そのころアルベルトは、母親からの手紙を読みながら、どうにも収まらない不快な気持ちをもてあましていた。
書いてある内容が悪いのではない。
今度の休みには帰って来て欲しいとか、寒くなるから身体には気をつけてとか、いかにも息子を愛する母親らしい手紙だ。
けれども、アルベルトは、その言葉を素直に受け取れなかった。
『あのこと』以来、母親は、嫌悪の対象でしかない。
最後に、
アリエルをお願いしますね――
という一文を読んで、アルベルトは手紙を握りつぶした。



「どこに行ってた?」
「別に」
足早に歩くアルベルトの横に並んで、
「食事は?」
「すませたよ」
「嘘つけ」
リヒャルトは、機嫌の悪そうな親友が今日もまた食事を抜いていることに、すぐに気がついた。
「ほら、まだ時間あるから、これでも食えよ」
綺麗にラッピングされた包みを出す。
「いらない」
間髪入れずに応えながらも、それは何だと訊ねると、
「下級生からの差し入れだよ。実家から届いたらしい。甘い砂糖のたっぷり乗ったケーキ」
「胸やけしそうだ」
返ってきた答えに、アルベルトは眉間にしわを寄せる。
リヒャルトはクスリと笑って、
「食わず嫌いはいけないな。一度食べたら、やみつきかもよ。甘い甘ぁい、お砂糖ちゃん」
思わせぶりに囁いた。
「その手の冗談は嫌いだと言っている」
肩に廻された手を振り払う。
「ケーキの話だ」
「いい加減にしろ」
険を帯びた目で一瞥をよこしてアルベルトは歩き出す。
リヒャルトは叩かれた腕をさすりながら、飄々と並んで歩いた。こういう会話はいつものことだ。


「アルベルト先輩」
放課後、図書室に借りた本を返しに入った帰り、アルベルトは突然呼び止められた。
「君は?」
「六年のフランツ・ギュンターです」
アルベルトの冷たいほどの美貌に気圧されながらも、フランツは、大切な友人の為に一肌脱ごうとした。
何の用だと目で問い掛けるアルベルトに、
「アリエルのことなんですけど」
フランツはぐっと拳を握って言った。
アルベルトの眉が怪訝そうに動いた。
「アリエルは、貴方のことが好きで、貴方を追いかけてここに来たんです。でも、貴方があまり歓迎してくれてないんじゃないかって、とても悲しんでます。僕、アリエルが悲しそうな顔をするのを見るのは…」
そこまで言って、フランツは息を飲んだ。
アルベルトの刺すような瞳が突き刺さり、それ以上何も言えなくなった。
「君に…どういう関係がある?」
「……」
「僕と従弟のことに口を出す、どういう権利が、君にあるっていうんだい」
「あ、あ……」
フランツは怯えて後退さった。
「何のつもりか知らないけれど、迷惑だ」
冷たく放たれる言葉を最後まで聞かずに、フランツはその場から逃げ出した。


(ひどい。ひどいよ)
フランツは、寮に駆け戻りながら心の中で叫んだ。
アリエルにも幸せになってもらいたかっただけなのに。
アリエルに喜んでもらおうとしただけなのに――あんな風に言われるなんて。
あんな冷たい人、どんなに綺麗だって、アリエルの恋人にはふさわしくない。
たとえアリエルが好きだとしても、絶対、他の人のほうがいい。

子供らしい単純な発想で、フランツは考えた。
(アリエルには僕が、あんな人より優しくて素敵な相手を見つけてやる)

ライムントとその友人たちが集まるお茶会に一緒に行こうとフランツから誘われ、アリエルは正直戸惑った。どちらかと言うと人見知りをするタイプ。人の集まるところは苦手だ。ましてや面識のない上級生の集まりと聞くと気が引ける。
「今日は、ラテン語の予習をしないといけないから」
やんわりと断ろうとしたのに、
「そんなの、夜やればいいよ。ねえ、行こうよ、アリエル。ライムントを紹介したいんだ」
フランツは強引だった。
「う、ん……」
「なんだよ、フランツ。そんなに熱心に誘うなんて、ひょっとして上級生に頼まれたんじゃないの?」
パウルの言葉に、アリエルは小首をかしげてフランツを見る。
「別に、頼まれたわけじゃないけど」
「どうだかなぁ。さっきから、アリエル、アリエルってしつこいよ」
「うるさいなあ、パウルのことだって誘ってるだろ」
「何だよ、ついでみたいに」
「つっかかるなよ」
「アリエルが嫌がってるの、わかんないのか?」
「君が行かせたくないんだろ。何でか知らないけど」
「何っ」
「やめて、二人とも」
小さな子供のように喧嘩する二人に割って入って、アリエルは言った。
「行くよ、僕。皆で一緒に行こう」


フリューリング(春)、ゾマー(夏)、ヘルプスト(秋)、ヴィンター(冬)――四季の名前を付けられた四つの寮は、それぞれその順番に並んで立っている。
アリエルたちのフリューリング寮とライムントたちのゾマー寮は、隣り合わせだ。
お茶会が開かれたのは、ゾマー寮三階の一番端にある広い部屋だった。
「もともとこの寮の三階は全部四人部屋だったんだよ。それを今は二人で使っているから、こうやってサロンに出来るわけ」
部屋の主は、微笑んだ。
「はじめまして、僕はジークベルト・フォン・コンラート」
優雅に右手を差し出され、
「あ、はじめまして…アリエル・フォン・バルドゥールです」
アリエルは、恥ずかしそうにその手に自分の手を添えた。
ジークベルトは、捕らえたアリエルの白い指をそのまま自分の唇に運ぶ。
「やっ」
アリエルは慌てて手を引いた。
「ジーク、初対面でそれは無いだろう」
ライムントが呆れた声を出すと、
「お姫様に、ナイトとして当然の挨拶をしたまでだけど?」
ジークベルトは、悪びれず答えた。アリエルは、頬を赤く染めて右手の甲をこする。
「はじめまして、僕はパウル・ヨハネス・ユリアヌス」
ぶうたれた顔でパウルはジークベルトの右手を掴むと、ブンブンと振った。
「あ、っと、どうも」
「お茶会って聞いたんですけれど、お二人だけなんですか」
緊張に頬をこわばらせながらパウルは訪ねた。ここでアリエルを守るのは自分しかいないという気持ち。
「いや、後から続々来るよ」
ライムントが笑った。
「噂の転入生が来るって言うから、皆張り切っちゃって。この部屋に収まりきるかな」
「そんなに大勢、呼んでないだろう」
「ミハイルがしゃべったから、皆に広まってしまったよ」
「あいつ…」
ジークベルトは神経質そうな顔を顰めて、小さく舌打ちした。
フランツが、今日アリエルに紹介したいと思っていたのは、幼馴染みで恋人のライムントではなく、ライムントと同室のこのジークベルトだった。
銀色の髪と薄い灰色の瞳は一見冷たそうな印象を受けるけれど、ライムントから話を聞く限り、悪い人では無さそうだ。何よりジークベルトがひどくアリエルのことを気に入っていて、一度でいいから会わせてくれと頼まれたと聞いて、フランツは今日のお茶会の計画にのった。
まだ幼いフランツにとって、ライムントの言うことは絶対だ。恋人になったばかりの今は尚更。
「僕、お茶入れるね。ポットにお湯を入れて来る」
浮かれているフランツを見ながら、パウルは少し不機嫌だ。
アリエルは、どうしていいかわからず
「あっ、フランツ、僕も手伝うよ」
フランツの背中を追いかけた。
「アリエル、君が行くことないよ」
ジークベルトに肩を捕まれて、一瞬躊躇したけれど、ペコリと頭を下げて部屋を出た。
「アリエルは部屋にいておしゃべりしてればよかったのに」
「いいよ」
「パウル一人じゃ、かわいそうだ」
「それは、そうだけど」
困ったようにうつむいたアリエルに、
「ねっ、ジークってハンサムだよね」
フランツは唐突に言った。
「えっ?」
ハンサム――と言うのだろうか?
自分にとって一番美しいと思う顔は、従兄のアルベルトだ。その従兄と一緒に居た、なんと言っただろう、そう、リックとか呼ばれていた黒髪の彼も、相当なハンサムだった。
彼らと比べたら、たった今見たジークベルトは、それほど……。
言葉に詰まったアリエルが黙っていると、その心を読んだかのように
「アルベルト先輩と比べてる?」
「えっ、う、ううん、そんな……」
首を振るアリエルに、フランツは唇を尖らせた。
「ダメだよ。アルベルト先輩は」
冷たく整った顔、薄い唇から告げられた、氷のような言葉が脳裏によみがえる。
「アリエルのこと、なんとも思ってない。冷たい人だよ」
「えっ?」
不意打ちに、ズキンとアリエルの心臓が痛んだ。
「僕、アリエルのこと言いに行ったんだ」
フランツの言葉に、アリエルは運んでいた菓子入りの箱を落としそうになった。
(僕のこと、アルに…?)
ぎゅっと握り締めて、次の言葉を待つと
「アルベルト先輩がアリエルとリングの交換をしてくれないかと思って」
「な…」
「でもね」
フランツは、何か思い出したように唇を噛んだ。
「ダメだよ、アリエル、あんな人」
「フランツ…」
アリエルは、青ざめた顔で唇を震わせる。
「何で…
そんなことをしたのかと問いただしたいのに、フランツは
「だって、僕が言ったこと、迷惑だって言ったんだよ。関係ないって。すごく怖い顔だった」
『何で』アルベルトじゃダメなのかを言い募る。
「アリエルは、こんなに可愛くて優しくていい子なんだから、アリエルのこと本当に好きだっていう素敵な人が現れるよ。ジークだってその一人だ。アリエルのこと、絶対大切にしてくれるよ」
フランツの言葉は、アリエルにはもう届いていない。
「アル……」
(アリエルのこと、なんとも思ってない。冷たい人だよ――)
フランツの言葉を胸に繰り返す。
(そんな気はしていたけれど――)
知りたくなかった。
おせっかいな友人を恨む気持ちよりも、アリエルは、自分がアルベルトにどうしてここまで疎まれてしまったのかと、そのことで頭がいっぱいになった。




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